第3章 その11 大人のキスと、イリスの覚醒
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あたしの家庭教師としてやってきた、ヴィー先生こと、エルナトさんの双子のお姉さんであるヴィア・マルファ・アンティグアさんは、初対面のあたしをすごく気に入ったと言い、抱きしめて、囁いたのだった。
「私と、大人のキスをしても、いいよね?」
「えっ!?」
「却下だ!」
間髪入れず、叫んだのは、エステリオ叔父さんだった。
パーン!
叔父さんは、材質はわからないけど何やら軽い音を立てる筒状のもので、ヴィー先生を激しく叩いた。大きな音の割には、ダメージはたいしてなさそうだけど。
「いった~い! 何するのよ」
頭をさすりながらヴィー先生が振り返る。そこに居るのはもちろんエステリオ叔父さんで、いかめしい表情で腕組みをしながら立っているの。
「却下だと言ってるんだ」
「え~、けち!」
口を尖らせる。完璧な美女の姿がガラガラと崩れるのを目撃した、あたしは、すっごく残念な気持ち。
ハンサムウーマンだと思ったのに、我が家にやってきた家庭教師のヴィー先生は、キス魔の美女だったのです!
「いいから帰れ!」
「私はアイリスのご両親のお招きで来ているのよ。アウルに断る権限なんかないでしょ。だいたい、アウルこそ、ケダモノみたいにアイリスに襲いかかってファーストキスを奪ったそうじゃない」
エルナトから聞いたわよとヴィー先生は胸を張る。
エステリオ叔父さんは、取り乱した様子で、懸命に言いつのる。
「誤解だ! そ、それは治療のためで、不可抗力で」
あ、ちょっと、傷ついたかも。
だって、あたしには、初めてのキスだったのに。
やっぱりエステリオ叔父さんには迷惑だったよね?
前世でも今生でも彼女いなかったんだし、どうせなら魅力的な「大人の」女性とお付き合いしたいよね。
あたしみたいな身体の不調を抱えた子に、ずっと付き合わせてしまってたんだと、思い当たってしまった。
学院に通うほかには長期休暇になってもどこへも出かけず、両親が留守がちだからと、いつも気にかけて。寝るときは絵本も読んでくれて。
なのにあたしは、叔父さんがいつもいてくれると安心して「世界が滅びる」って悪夢を見て泣いては困らせていた。
今度のことだって、あたしが、魔力が多すぎて塊ができやすかったから、それが大本の原因だ。
……悪かったわ。立派に公国立学院で研究室も持っているのに、実家から通うのは、親に置いてかれた寂しい子どものお守りのためだったの?
そんな、あたしの思いを知ってか知らずか、ヴィー先生は、エステリオ叔父さんの顔に人差し指を、ぐいっと押しつけて、にんまりと笑う。
「あら。じゃあ、治療のために必要だから、したくもないのに無理矢理キスしたっていうの? 女の子のキスを何だと思ってるの。ひどい男ねえ!」
するとエステリオ叔父さんは、むきになって、立ち上がる。
「違うんだ! いくらヴィーでも。したくもないだなんて、誤解されるようなことを言うな!」
「ふっふ~ん。ほら、やっぱり」
我が意を得たり、と、ヴィー先生は勝ち誇る。
「やっぱリアウルはアイリスのこと本気で好きなんだ。うふふふ、エルから聞いたときは半信半疑だったけど」
「あ……」
エステリオ叔父さんの顔が、真っ青になり、次に、真っ赤になった。
「……違う、違う! わたしはアイリスの叔父だ。そ、んな、ことは……望めるわけが、ない」
そして急に、首を左右に何度も大きく振る。
「ただ彼女には、幸せになってほしい。そのためなら、どんなことでもする」
『アイリス、今の忘れてよ』
ジオが、あたしに呼びかける。
『聞かなかったことにして、忘れてやって。武士の情けってやつさ』
『『『わたしたちも薄々わかってたわ。でも、知らないふりをしてたのよね。エステリオが、かわいそうだから』』』
守護精霊たちに哀れまれているわよ、叔父さん。
あたしは、どうしたらいいのかな。
知らなかったふりって。無理です。
「アイリス。こっち見て」
ヴィー先生の声に、あたしはぼんやりと、顔をあげて、彼女の目を見た。
金色の瞳だ。
あれ? さっきは緑の目だったような気がしたのに。
その瞳があたしを射すくめて、みるみる迫ってきて。
唇が、重なった。
何かを思う間もなかった。
大人のキスだと彼女が言った意味が、わかった。
エステリオが、本当に前世でも今生でも、彼女もいなかったんだってこともわかった。初めてだったんだ。エステリオも。だから、あんなに乱暴で、性急な感じがしたんだわ。ヴィー先生に比べたら、彼はまだ、ほんの少年だった。
何かを、奪われた。
あたしは戦慄する。
唇の間を割って侵入してきたものは、なに?
それは、あまりに濃密で、深く入り込んできて。あたしの身体のしくみを根こそぎ書き換えてしまうような。
これは魔力なのだろうか?
抵抗することも、一切、できなかった。
身体の奥に生まれた熱に、あたしは呑み込まれて……意識を、手放した。
※
「どう、気持ちよかったでしょ。私に乗り換えない? アイリス」
「……ごめんなさい、これじゃ、身体が持たないわよ。やれやれだわ。有栖もアイリスも、こんな激しいキス、経験したことがないからパニックよ。失神しちゃったじゃない。おかげで、あたしが出てこなくちゃならなくなったわ」
赤毛の美女に抱かれていた、黄金の髪をした幼女は、頭をゆっくりと振る。金色の光の粉が、朝露に濡れた大輪のバラが露を払うように、あたりに散った。
同時に、おびただしい魔力が、ほの青い光の奔流のごとくに飛び散る。
「アイリスじゃない……あなたは誰!?」
驚きのあまり、抱いていた幼女を取り落としそうになる。
「あら。だめよ、いい女は、そうそう驚く顔なんて見せないものよ、ヴィーア・マルファ・アンティグア。素敵なキスだったわ。もっともあたしは、初めてじゃないけど。こういう遊びも嫌いじゃないわ」
腕の中で、クスクス笑う、黄金の髪の幼女。
見たこともない生き物を見るかのように、ヴィーア・マルファは、目を眇めた。
「どうしたのヴィーア・マルファ? あたしに会いたかったんじゃないの? この身体に宿る魂の中で、いちばん大人で、いい女なんだから。あたしが生きていたのは、ご想像の通り、ここ(セレナン)ではないどこか遠く、ソルと呼ばれていた白い太陽の輝く異世界で、二十歳で突然死した。で、あなたは何を知りたいの」
「アイリス?」
「イーリス、なのか?」
呆然として幼女を見る、エステリオと、ヴィーア・マルファだった。
目の前の存在は、自分が知るアイリスではないことを、エステリオは、よくわかっていた。




