第3章 その8 浄化
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目の前が真っ白になる。
『すべてのものを浄化する真の光を!』
光の精霊イルミナが、魂をふるわせるように、歌う。歌い上げる。
『我が主、アイリスの守護者たる精霊、みんな力を貸して』
遠く近く、ひびく旋律は、どこかひどく、懐かしくて。
※
あたし、アイリスは、お母さまとお父さまと、エステリオ叔父さんと、エルナトさんも、我が家に勤めてくれているメイドさんたちも執事さんも、みんな大好き。
誰も不幸になって欲しくない。
そのためにできることがあれば、なんだってする。
『でもまあ、アイリスは、とりあえず、早く大きくならなくちゃね』
あたしの守護精霊のうちでも、どうやら一番力が強いらしい地の精霊ジオは、せっかく人が真剣に思い悩んでいるのに、からかうようにちょっかいをかけてくる。
ほっぺに砂粒を飛ばしてきたりとか。
『大きくなったら、たとえば四歳になれば、もっと魔力の容量もふえるから、他の精霊たちだって競ってアイリスの守護者になりたがるさ。急がなくたって』
「あたしが焦りすぎてるって思う? 忠告してくれてるのね」
『そ、そんなんじゃないんだからね!』
ジオは急に赤くなる。
憎たらしいかと思えば、甘々。どこのツンデレ妖精なの!
『ぼくはアイリスを、その周りにいる人たちも含めて、みんな、守りたいんだ。アイリスだって、そうだよね。そんなだから、ぼくは守護精霊になろうって思ったんだ』
※
「アイリス。イリス、有栖」
胸に響く、透き通った呼び声。
また、あそこに来てしまったのだろうか。セレナンの女神さまに出会った、時空を越えた、あの空間に。
あたしは目を開けた。
銀色の光の奔流だった。
その銀色に、青白い光の帯が巻き付く、よく見れば光の帯に見えたのは、青白い光球が夥しく集まったものだ。
これは、精霊火だ!
精霊火が数限りなく集まって、あたしを取り巻いている。
ううん、あたしだけじゃない。
お母さま、お父さま。ローサ、トリアさん、バルトルさん、エステリオ叔父さんもエルナトさんも。みんな、精霊火にまつわりつかれて、身動きとれなくなっている。家の中のいたるところに精霊火が、ぎっしり詰まってるみたい。本来は実体のない幻の炎のように言われているけど、とんでもない誤解だわ。なんという存在感だろう。
柔らかい、絹のような手触り。暖かみも感じる。
匂いもある。森の中のような爽やかな香り。館から出たことのないアイリスは知らないけれど、あたし、有栖と、イリスは知ってる。森の中を吹き抜ける初夏の風の香り。それが精霊火の匂いだ。それに音もする。シュー、パチパチと、火花が弾けるみたい。歌ってる。終わることのない生命の歌を。
精霊火は、生きてる。
彼らは歌ってる。けれど怒ってる。
セレナンの大いなる流れを遮りせき止め曲げる、人間のことを。
汚れに染められそうになっているお母さま、お母さまに引きずられるお父さまのことを。
精霊火が。お母さまを呑み込んでいく。
「おかあさま! おとうさま!」
「なぜ、あのような者たちのために泣く。甘言をもって近づく者の悪意に染まり、目を曇らせ、おまえを傷つけ苦しめる者を?」
あたしの前に立っているのは、ラト・ナ・ルア。
今から50年後に人間に殺される運命の、精霊族の少女。
彼女には、人間を憎む理由がある。
「あたしはセレナンの恩寵を受ける資格はない。だって、あたしは、いつだって生ききれなかった。あたしを思ってくれた大切な人たちを苦しめてきた」
「だから?」
「だから、今のお母さまやお父さまを、家族を、殺さないで。あたしが、あなたたちのために、なんとかするから。がんばるから。がんばって、生きるから。セレナンの恩寵を受けられなくなっても」
「恩寵はいらぬか? だが残念だな、おまえは選べる立場ではない。受け入れるのだ。我を護り、救うと誓ったのは、おまえではないか。その、おまえの自由を奪い、おまえを助けるために遣わした者を遠ざけようとしているのだぞ」
ラト・ナ・ルア。誰よりも生き生きとした弾んだ声、笑顔を見せてくれた彼女らしくない、硬質で無慈悲な神の顔。
そこまで彼女を怒らせたのは、お母さま? お母さまに悪意を唆した者たち?
「あたしは誓います。恩寵を受け入れます。だから家族を、許してください」
「……おまえが許してほしいのは、セレナンにではない。前世の母親ではないか?」
その言葉は、胸に、ずきっと刺さる。
「……そんな顔しないで。悪かったわ、アイリス。あたしの方が、あなたに助けてくれってお願いしたんだものね。あなたを邪魔する者が現れたから、むかついたんだもん」
ラトの口調が、前に会ったときのように、戻った。
「助けてあげる。赤い魔女のバカにも苛つくし。あんたの家を、すっかりきれいにしてあげる。そのかわり、約束して。いい? あたしを助けるのもいいけど、まず、あんたが幸せになってくれなくちゃ、罪悪感はんぱないんだから!」
「ラト……! ありがとう!」
「ああもう、抱きつかないで。あたしは物質じゃないの。えねるぎーってヤツなんだから、触ったら痛いわよ。それにね、精霊火は、害なんてしないのよ。ま、遊びはするけど。人の心の中にある怖いものを見せたりとかね。あんたのお母さん、少し休養したらいいのよ。疲れてるから、つけ込まれるの」
ラト・ナ・ルアの態度は、かなり軟化している。
「あんたはこの先、けっこう大変なんだから。がんばりなさいよね!」
※
やがて、霧が晴れるように精霊火は少しずつ減っていった。
館にいたみんな、夢から覚めたみたいにぼんやりしている。
空気は澄み渡っていて、曇りもない。館の内部は、このうえなく清浄な空間になっているのだ。
ああ、よかった!
倒れているお母さまに、ルシアとレンピカが駆け寄った。
「気を失っておられます」
「アイリアーナを寝室に運んでやってくれないか」
お父さまが優しく気遣う。
「最近、茶会だの園遊会だの、社交の集まりが立て続けだったからな。しばらく静養するのもいいだろう」
「わたしに診させていただけませんか」
エルナトさんが、お母さまの診察をしてくれると申し出た。
「おねがい、エルナトさん。おかあさまをたすけて。あたしをたすけてくれたみたいに」
「もちろんだよ」
「ありがとうございます!」
なんて頼りになる人なのかしら。
うっとりしていたら、エステリオ叔父さんが、なぜだか不機嫌な様子になって。
「だめだからな。アイリスはおまえには」
渡さないとか言いかけたのは、きっと気のせいよね。
「バカだな……エステリオ。そんなこと言わなきゃ、まだ、ちょっといい感じの叔父さんでいられるのに」
心底呆れたようにエルナトさんは肩をすくめるのだった。
『まあ、いいんじゃね? どうせアイリスがエステリオに叔父さま叔父さまって、なついてくれるのも、今だけだから。大きくなって学校に通い始めたら、すぐに友達できたり、カレシとかできたりしてさ!』
『『『だめじゃないジオ。そんな身も蓋もない。エステリオが立ち直れないわよ。やっと少し浮上してきたのに』』』
守護精霊たちのツッコミ合戦をぼんやり聞きながら、あたしは、
「そうか、今はまだ三歳だった。そのうちあたしも学校に行ったりするんだわ」
今更ながら思っていたのだった。
自分のことなんだけどね。




