第3章 その7 赤い濁った霧
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「まあアイリス! 私もですよ。もちろんお父様も。アイリスが大好きよ」
お母さまは、とても喜んでくれた。これで少しでも気持ちが楽になってくれるといいんだけど。
しばらくして、お父さまが仕事から帰ってきたと、メイド長のトリアさんが、ローサを使いにやって報せてきた。
「アイリス、お父様をお迎えしましょうね」
あたしを抱いて、お母さまはいそいそと立ち上がる。
やっぱりおかしいわ。
まるで、あたしが赤ちゃんだった頃みたいに、抱いて離そうとしないの。
我が家の有能な執事さんや乳母やもメイド長もローサも、ルシアとレンピカも、台所の下働きの皆も、困惑しているのが、空気で、わかる。
エステリオ叔父さんの部屋で、あたしの病気のために飲み薬を作ってくれているエルナトさん、出てきてくれるかしら。
エルナトさんがいたら、お母さまは少し落ち着くのだ。
高名なお医者さま、アンティグア家のエルナトさん。彼は、身の回りに癒やしの効力のある空間か、見えないローブみたいなものをまとっているの?
精霊たちに聞いてみた。
『アイリス、そのとおりだったわ! エルナトさんには、生まれつき、医療分野の加護があるみたい。彼の周囲に近づくだけで、気持ちが沈んでいた人も精神の病気の人も治っちゃったりするの』
(エルナトさん、前世はお医者さまだったのかしら)
それが効力を発揮するということは……異常な精神状態にさせる魔法? もしかして、そんなものが、お母さまに掛けられているのでは!?
『後で相談したらいいよ。薬ができたらすぐに持ってくるそうだから』
ジオはこう言ってくれた。
時々は、素直なのね。
『時々はって。ひっど~い!』
※
「お帰りなさいませ、あなた」
「おかえりなさい、おとうさま」
あたしを抱いたまま出迎えるお母さまを見て、お父さまは、ほんの少し驚いたようだったけれど、すぐに満面の笑顔になって、両手を広げ、お母さまごと、あたしを抱きしめてくれた。
「おとうさま、エルナトさんが、いらしてるの」
「エルナト? もしやエステリオの幼馴染みの、アンティグア家の次男坊か? 久しぶりだな」
「まあ、あなた、ご存じでしたの」
意外そうに、お母さま。
「おまえは会ったことはなかったな。まだ親父が当主だった頃、父の館に訪問いただいたことがあった。だが、親しくしていただいているとはいえアンティグア家は大貴族だし、私たちの結婚式にご招待さしあげるわけにもいかなかったのだ」
「それは仕方ありませんわね。でも、エルナト様と当家が、親交があったなんて、私、嬉しいですわ」
あたしは知らなかったけど、我が家に来たこともあったのね。
でもお母さま、エルナトさんと親交があるのはエステリオ叔父さんでは?
そこはスルーなの? ほんとに、おかしいのです! お母さまは、そんな人じゃないんだもの!
「お久しぶりです、マウリシオさん」
まさに今、エルナトさんが、奥から出てきた。
隣にエステリオ叔父さんが、所在なげに佇んでいる。
「お帰りなさい、兄さん。エルナトが、久しぶりに我が家に来てくれたんです」
「思慮深いおまえたちのことだ。何か訳があるのだろう。ともかく、居間へ。トリア、バルトル!」
言い忘れていたけどバルトルさんは我が家の執事さん。五十歳くらいかな。灰色の髪で、いつも黒い服を着て、ぴしっとして、かっこいい中年のロマンスグレーなの。
「お帰りなさいませ旦那様。晩餐のご用意は調っております」
「うむ。今宵はアンティグア家のエルナト殿もご一緒してくださるそうだ。そのように整えてもらえるかな」
「心得ております」
エルナトさんが晩餐の席に加わるのは決定事項だったようだ。
「おまえも着替えなさい、アイリアーナ。そのドレスは園遊会のときのだろう」
お父さま、よく見ているのね。
ルシアとレンピカが、慌ててやってきた。お母さまの着替えを用意して待ち構えていたみたい。
おかげで、あたしはお母さまの手を離れたのだけど。
「トリア! アイリスをお願い!」
お母さまの叫びは必死で、もう懇願の域で、トリアさんも焦ったように駆けつける。
「目を離さないでやって! 触らせないで! 叔父様には!」
「おまえ、何を?」
お父さまの、顔が。
驚き、不安に、赤い霧にかすむ?
空気が、よくない。
真っ赤に濁った靄が、渦巻いているかのよう。
何が、我が家を取り巻いているの?
涙が出そうになって。あたしは、胸の奥が熱くなって。
「精霊たち! お願い、アイリスが依頼します。この空気を、浄化して!」
気がついたら叫んでいた。
精霊達が、すぐさま応えてくれる。
『『『『はい、我らが主よ。拝命致します』』』』
四人の守護精霊の力が重なり、干渉しあい、増幅していく。
まばゆい光が、炸裂する!




