第3章 その6 女神さまの恩寵
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「あたしは、エステリオ叔父さんは、それにエルナトさんも、何度、やり直しを試しても幸せになれなくて早死にしてしまう者たち、だったんですか!?」
叫んだ。ああ、喉が切れて血が出るくらいに。
誰にも届かないとわかっているのに。
ここにいるのは、あたしと、女神スゥエさまと、あたしの魂に未来永劫寄り添うと誓ってくれた精霊たちだけ。
優しく慈愛に満ちて導いてくれていたはずのスゥエさまの声に、どこか生物ではない無機質な響きを感じ始めている、あたし。
何を考えているの? 疑っていたらなにも始まらないのよ。
「そのとおりよ、イリス・アイリス・有栖。ラト・ナ・ルアから聞いているわね。ここは時空が交差するところ。分岐する運命を選びなおせる地点。セレナンの超意識の中にある。ここから、世界は生まれ、時間が流れていくの。運命の分岐点に、あなたは立っている。さあ、自分の姿を見てごらんなさい」
あたしの前に銀色の靄が集まっていき、それは鏡になった。お母さまの部屋にある、銀の板を磨き上げた鏡に似ている。
そこに映し出されているのは、白人女性だった。
年齢は二十歳くらい。波打つ豊かな金髪、緑の目をした……
イリス・マクギリス。
ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン島に住んでいた女性だ。
リネンのミニワンピースにフェイクファーのストール。ピンヒール。
健康オタクでサプリにはこだわってて時計型のウェアラブル端末を愛用して、休日はセントラルパークでジョギング。運動量だとか懸命に管理してた。でも死んだのはジョギング中の心不全が原因だったよなぁ。オーバーワークが続いていたから、ポックリと。
西暦2045年。あの頃流行っていた歌は、ブロードウェイ公演が話題だったミュージカルで、主演女優はミュージカルのヒロインと同じ名前の、アイーダ……。
「あたし、だ」
呆然と、つぶやいた。
しかもこの姿は、地球人類末期、肉体のない人工生命だったあたし、イリス・システムに、当時生存していた最期の科学者チームが『完全な細胞から合成した』と、自慢しつつ、あたしに与えてくれた、容れ物としての身体そのものの外見をしていた。
どういう偶然だったやら。
「おかえりなさい。あたし……」
涙が溢れてきた。
あふれ出る涙は、熱い。生きてる、しるし。
『泣かないで』
そう言ってくれたのは、だれ?
『泣かないで。今度こそは、わたしたちがアイリスを幸せにするわ』
『ずっとそばにいるわ』
つぎつぎに、精霊たちの、優しい感触が、髪の毛を、頬を、肩を、撫でていく。
「イリス。あなたは意識しなければならないの。その肉体に宿る記憶を保ったままで、もう一つの人生の記憶を、蘇らせて」
鏡に映る姿が、変化していく。
背中の半ばくらいまであるまっすぐな黒髪に、黒い目、小柄な日本人の女の子。
十六歳の誕生日の前日に交通事故で死んだ、月宮有栖だ。
死んだのは西暦2020年、5月。
高校二年生だった。
だから着ているのは高校の制服で、冬の長袖ブレザー。すっごく可愛いの。
夏の制服も気に入ってたのにな。細かい灰色の地にタータンチェックのベストと半袖のカッターシャツで、ボックスプリーツの膝丈スカート。一ヶ月後には衣替えで着る予定だったのに。
制服も、ママが作ってくれてた。
有栖が5歳の時にパパが病気で死んでから、ひとりで有栖を育ててくれた、前世のママ。
ママはデザイナーで、ブランドを持ってた。
あたしの服は、制服も私服も、高校まで全部ママのお手製だった。
大好きな、ママ。
「あなたの意識は有栖とイリスが融合したもの。あなたが持っている21世紀の日本、東京の記憶は、自分で意識していないくらいの細かなものまで、ある人々にとってはきわめて利用価値の高い重要な財産です。それを持っていることを、周囲に知られてはいけません。肉親にも、もしもあなたが将来、結婚することになったとしても、その相手にさえも」
「もし知られたらどうなるの」
怖い想像ばかり膨らんでいく。
「残念ながら平穏な生活は望めなくなります。特に、サウダージ共和国には気をつけなさい。魔法を禁じ、科学技術の発展に努める国ですが、その根幹は、多くの『先祖還り』の犠牲の上に成り立っているのです」
「ずいぶん恐ろしい話だわ」
多くの生命、多くの転生者が、浚われて使い潰されている国。
「もっと優しい世界をあなたに用意してあげたかったのだけど」
女神さまは、ため息をつく。
「でも、きっと、わたくしセレナンたちは、あなたを幸せにするわ」
「おねがい」
あたしはつぶやく。いつしか跪いて。両手のひらを組んで。
「あたしよりも、お母さまを。お父さまを。叔父さまを。今の人生で、あたしを受け入れ、愛してくれる、大切な家族を、どうか、守って。それからエルナトさんも、他の『先祖還り』の人たちも、できることなら」
「願いは受託しました」
女神さまの声が、耳元で、ささやく。
あたしよりも小さな女神さまが、近づいて、手をのべて。
柔らかな頬を寄せて、言ったのだった。
「心配しないで。あなたに、世界の、女神の恩寵を!」
銀色の光が、あたしを包む。
「忘れないで。何かあったら守護精霊たちも、わたしたち(セレナン)もいるし、アイリスの魔力はすごく多いし、魔法は世界に溢れているわ。そう、魔法は、たとえば、生きている、ってこと!」
その姿が、しだいに、溶けるように薄れて消えていく。
あたたかな思いが、胸に残った。
心臓に感じていた、魔力のいやな塊は、もう、すっかり消えていた。
そうだ。あたしも、もっと、みんなに、大好きだって、伝えなくっちゃ!
※
「アイリス、目が覚めたの? もうじきお父さまがお帰りになりますよ」
お母さまの腕の中で目覚めた、あたしは。
「おかあさま、だいすき!」
にっこり笑って、答えた。




