第1章 その0 アイリスとアウル
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「そして黒い竜は今でも、王女さまに仕えているのです……おや、イーリス、眠ってしまったのかい?」
客用のソファで、エステリオ・アウルの隣でさっきまで絵本を見てた幼い少女は、いつの間にか夢の中に行ってしまったようだ。
おだやかな寝息を立てている。
絹糸のようなつやのある黄金の髪と、色の白い顔。今は閉じているけれど宝石のような緑の瞳は、いつも彼を見るとニコニコ笑いかけてくるのだった。
「ママとパパが帰ってくるまで寝ないとがんばっていたのにな。今夜は伯爵に招かれた晩餐会だ。二人とも遅くなるだろう」
青年は、少女の柔らかな頬を、やさしく撫でる。
すると、そばに控えていたメイドが、そっと近づいてきた。
「アウル様。わたくしがアイリスお嬢様をお運び致します」
少女の名前は、アイリス・ティス・ラゼル。
父方の叔父であるエステリオ・アウルは、アイリスが生まれた時から可愛がっていて、彼女のことを愛称でイーリスと呼ぶ。
虹の女神のことだ。子供に恵まれなかった兄夫婦にとって、一人娘のアイリスが生まれたことは長年の夢が叶った、まるで幸運の虹をつかんだような喜びようだった。
「いいよ、ローサ。私が寝床に運ぶよ」
「おそれいります」
十二歳の小柄なメイド、ローサは、丁重に頭を垂れた。
居間を出て少女の自室へ、階段を上っていく。
少女付きの小間使いローサは、絵本を持って、アウルの後についていく。
天蓋つきのベッドに横たえる。
金色の月光が窓から差し込んで少女の顔を照らしている。
「そういえば月光の下で眠ると不思議な夢を見るというが。イーリス、今夜はどんな夢を見ているのだろうね」
この年、一人前の魔導師である「覚者」となって間もないエステリオ・アウルは、少女の両親から相談を受けていたことを思い返す。
「あの子は、アイリスは、夜中によく悪夢を見るらしくて」
「妙なことを言ったり怯えたりするの。癇癪の発作を起こすこともあるし、お医者さまのお薬も効かないのよ。大丈夫かしら」
そのたび、不安がる兄夫婦をエステリオ・アウルはなだめたものである。
「だいじょうぶ、心配ないよ。幼いうちには、よくあることだから。お医者様の薬は、症状と合わなかっただけさ」
成長すればそういうこともなくなると言うと、兄も義姉も落ち着いた。
アイリスの発作は、少しばかり、頻繁だったけれど。
実際に、よく知られている事例だったのである。
幼い子供は、悪夢を見ることが多いという。
だが、もしも。
万が一、成長しても、なおも「ある種の」悪夢に悩まされ続けるとしたら、そのときは、もしかしたら。
あてはまるかもしれない原因が、あることは、ある。
「……先祖還り、か?」
そうでないといいのだが、とアウルは思う。
もしアイリスの場合が「それ」であるならば、少しばかり、生きにくいことになるかもしれないからだ。
可愛い姪の行く末を、幸せを、彼は案じていた。
「イリス、アイリス。おやすみ、よい夢をごらん……」