第3章 その3 残る、前世の記憶
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「ああ、愛しいアイリス、約束するわ。もう離しません。お母さまは、ずっとそばにいるわ!」
お母さまに強くだきしめられるのは、とっても嬉しかったけど。そのぶん、お母さまのエステリオ叔父さんへの態度が、今までと違う気がする。
夫の実弟でありエルレーン公国立学院で研究室に勤めるとか、メイドさんたちの噂によれば、ものすごい自慢の義弟じゃないかな?
お母さまも以前は確かに、優秀な義弟を信頼し、誇りにさえ思い、温かく見守っていたような気がする。
それが、どことなく冷たい、不信感を持っているような。あたしへの虐待を疑ったのもよくない先入観で、すぐに決めつけたような感じがした。
この態度の変化は、いつからなのかといえば、今日の園遊会から後。
どういうことなんだろう。
そう感じているのは、あたしだけではないと思う。
エステリオ叔父さんが生まれる前から勤めていてくれるメイド長のトリアさんも。執事さんも。あたしの専属メイドのローサも。
お母さまの態度の変化には、違和感を覚えているに違いないのだ。
「なんというか、気まずい雰囲気だな。責任を感じるよ」
エルナトさんの微かな呟きを、風の精霊シルルが拾って、あたしに伝えてくれる。
あたしも、シルルに頼んで、心の声をエルナトさんに届けてもらった。
(ううん、お母さまは帰ってきたときから、もう、様子がおかしかった。きっと園遊会で、何かあったのよ。誰かに何か言われたか……何かが)
「貴族や身分の高い者の社交場だ。根拠のない中傷か、あるいは、エステリオ・アウルを利用したい意図の者かもしれない。この家の不和を望む者達かもしれない。きみたちには策謀とは無縁でいてほしかったが、大人の駆け引きというものは、あるんだよ」
あたしにというより自分に、確認するように、エルナトさんは、ため息とともに、この言葉をシルルの運ぶ風に乗せた。
「アイリアーナ夫人。もうしばらくこちらにお邪魔させてください。ご主人にもアイリスお嬢さんの病状と治療について、それに、内服薬をご用意しますので、薬の服用の仕方もご説明させていただきます」
「まあ、そんな。エルナト様にそのような、お手を煩わせるのは申し訳ないですわ」
「いえいえ、アイリスお嬢さんは、わたしの患者ですから。では、アウルをお借りします。彼の部屋にある材料と道具を使って薬を作ってきますので」
「でも」
「それでは、そろそろ」
エルナトさんは、お母さまの返事を待たずに立ち上がり、
「ほら行くぞアウル」
無言のままうつむいていたエステリオ叔父さんの首根っこを掴み、引きずるようにして居間を出て行った。
エステリオ叔父さんが責任を感じているのは間違いない。
かわいそうだ。
直接的な言い方をすれば、あたし、アイリスへの幼児虐待を疑われたことに対しても、自分の行動が軽はずみだったのではなんて、罪もないのに自分を責めているのじゃないかと思えて、かわいそうで、たまらない。
かわいそうなんて、年上の人に失礼かな。でも、なんか、雨に濡れてうなだれてる子犬みたいなの。
ただ、あたしは、今、エステリオ叔父さんに近づいてはいけない気がした。
よけいに、お母さまを刺激してしまいそう。
だいじょうぶ。エステリオ叔父さんには親友のエルナトさんが、いてくれるもの。
きっとだいじょうぶ。
あたしは、お母さまの膝に抱っこされて、午後のお茶をいただきながら、お父さまがお帰りになるのを待っていることになった。
いつもと同じなら、たぶん帰りは夜になると思う。
「ほうらアイリス。このお菓子、貴族の間で人気なのですって。おいしそうでしょう」
お母さまが切り分けてくださるチョコレートケーキ。
(ザッハトルテに似てる!)
「ショコラというのですって。南のサウダージ共和国というところから来た職人が作っていて、少し前までは王家の方達にしか献上されなかったのだそうよ」
「奥さま、アイリスさまにはまだ、難しいかもしれません」
トリアさんが、控えめに言い添えてくれる。
主人にこう言えるのは、お母さまがお嫁に来るよりも前から我が家に勤めているトリアさんだからこそ。
お母さまは、はっとして、
「……まあ。そうだったわね。私、いつも忙しがって、アイリスと一緒にいてあげられなくて。この子はまだ三歳なのに。ちゃんと話してもいなかった……本当に、なんてひどい母親かしらね……」
「奥さま! 何をおっしゃいます。そのようなことはございません! 上流階級では、子育ては家人に任せるものでございます」
お母さまが涙ぐんでる!?
やっぱり! 園遊会で誰かにいじめられたの!?
そんなのダメ!
「おかあさま、おいしいです!」
「よかったわ。どんどん食べなさいアイリス」
あう。こんなにたくさん切り分けてくださって、食べきれないかも。でも、がんばって食べるんだわ!
「もぐもぐ。すごく、しゅごくおいしいですぅ!」
「まあ。お口にショコラがついてるわよ」
よかった、お母さまが、くすっ、て笑ってくれた。
「おかあさま。アイリス、おかあさまが、だいすきです!」
だから、泣かないで、お母さま。
思い出してしまう。
月宮有栖は高校一年の、誕生日の前の日に死んだ。
ママ! 有栖の、大好きなママ! どんなに、悲しませてしまったことだろう。
ごめんなさい。ごめんなさい! ごめんなさい!
前世のママに謝っているのか、それとも目の前のお母さまに謝っているのか、どちらなのか、わからない。
「おかあさま。アイリスは……だいすき」
夢中でお母さまの胸に顔を寄せる。
あたしは今まで、自分が月宮有栖だったことをはっきり意識していなかったけど、前世は一つではなかったのだと思い出した。
数え切れないほどの生を数え、けれど覚えていられたのは、砂の中に手を入れて握って、すくいあげて。さらさらと指からこぼれ落ちる砂は、あたしの記憶なの?
手のひらに残った砂粒。
覚えていられたのは、有栖と、イリス。
『あなたが必要になれば過去の記憶にもアクセスできるようにしておくわ』
そう言ってくれた、セレナンの女神、優しいスゥエさま。
今こそ、お願い!
あたし、力が欲しい。
お母さまを泣かせるのは誰!?
エステリオ叔父さんに悪意を向けるのは誰?
あたしは負けない。
今生の、大切な家族を、守る!