第2章 その21 もう少しだけ待って
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いつか見たことのある薄明の空に、あたしは、いた。
落ちているのか昇っているのか、浮かんでいるだけなのか。
いやいやいや。
いつかじゃないよ。
今朝だよ!
もう遠い昔みたいな気がしてたけど。
エステリオ叔父さんと一緒に、魂の底、生命の根源へと辿ったのは、今日のこと。
まだ朝とも言えない、日が昇る寸前のことだった。
「気がついたね」
あたしの両手を握っている人がいます。嬉しそうな顔です。
「え。あなたは……エステリオ叔父さん?」
「そうだよ」
黒髪に黒い目、日焼けした、17、8歳の青年? 男の子?
「あたし、また魂の姿なの?」
それは長い金髪の二十歳ぐらいの女性だったはず。
でも、今の姿は、少し違う?
自分の姿は見えないけれど、肩を覆い、握りあっている手の甲にひらりと乗っている髪の色は、黒くて、まっすぐ。自分の手も、白人じゃない。黄色人種よね?
そうだ。あたし、人類の管理者イリスになる前の……ずっと昔、日本人に生まれていたことがあった。そのときの名前は、たしか……
「月宮、有栖さん」
「えっ?」
なんでエステリオ叔父さんが、その名前を知ってるの?
「思い出した。あたしは確かに、イリスになる前の遠い昔、21世紀の東京で、月宮有栖っていう女の子だったことがあった。16歳になる前に死んじゃったけど」
「知ってるよ」
「あなたはだれ? あたしは、月宮有栖は、その姿のあなたに会ったことはないわ。知ってるのはエステリオ叔父さんだけよ」
そう言うと、黒髪の青年は、悲しそうに目を伏せる。
「そうだね、会ったことはないな」
「わからないことを言う。離してよ。知らない人に手を握られてるのはいや!」
「だめだ、この手は離せない。治療はまだ途中だ。きみが意識を保っていないと魔力の塊は溶けないんだ」
「でもイヤ! 離して!」
「有栖」
「いやだったら!」
すると、彼は、あたしの手を離した。
急に、重力を感じた。
「ほら。手をつないでいないと下へ落ちてしまうよ」
少しばかり意地悪くそう言って、あたしの背中と腰に手を回した。
「やめてっ!」
強い力で引き寄せられて、あらがえない。
「有栖」
顔が近づいて来る。
「違う! あなた誰なの! エステリオ叔父さんじゃない!」
その黒い瞳の奥に、暗く、昏く、赤黒い炎が見える。
それは昏く、生命を呪詛するかのような荒々しい憤怒の炎で。
いったい何者なの?
黒髪と黒い瞳、エステリオ叔父さんの魂の姿に似せているけれど、中身は。魂のありようは、まったく違う。
エステリオ叔父さんの魂は、すっごく温かくて。すっごく優しいんだから!
この人は(いいえ、いったい人間なのかもわからない)ひどく冷たい。まるで宇宙空間みたいに。
怖い、怖い、怖い、怖い!
わかった、あたしは、人間が怖いんだ。
人間の本能的な暴力性、原始的な、洗練されていない感情や激情、悪意が。
たまらなく怖いのだ。
月宮有栖は、こんな黒髪黒目の青年なんか知らない。
ちょっといい顔だけど、エステリオ叔父さんの姿に似せてるけど、知らない人だ。
「いや! 助けて、エステリオ叔父さん!」
「有栖さん! おれが、その叔父さんなのに」
いやだ! そんなに悲しそうな顔を、あたしに向けないで。
エステリオ叔父さんの姿を借りて、情欲を奥に秘めた顔で。あたしを見ないで!
無理やり引き寄せられる。
顔が近づいて、唇が触れて。
すると、あたしの心臓に、氷柱みたいな尖った冷たい塊が突き刺さった。
氷柱を中心にして、身体が凍り付いていく。
「や……やだっ!」
顔を背けるくらいしか、あらがえない。
黒髪の青年は、楽しそうに囁く。
「すごくきれいだよ、アイリス。おれのそばに置いて、永遠に、融けない氷の中に閉じ込めて飾っておくよ」
心臓から、凍っていく身体。もう、動かせない……
「いやだっ……たすけて、エステリオ叔父さん!」
『それくらいにしてくれないかな』
突然、彼とあたしの間に、壁が出現した。
黒髪の青年を拒絶する、土の壁!
『アイリスは我が守護すると誓った者。誰だろうと手を出すことは許さない』
「ジオなの!?」
華奢な身体からは意外に思えるほど力強い手で、あたしの腕をつかんで自分の背後に押しやる。そこには人が乗れるくらいの大きな岩があった。
頼りなく落ち続けていたあたしは、宙に浮いている岩の上に乗る。
『ここは、アイリスがエステリオと潜った場所じゃない。ここまで来れるのは、契約した守護精霊と、セレナンだけだから。ちょっと遅れちゃったけど、ごめんね』
「ううん、いいの。来てくれてありがとう! さすが守護精霊だわ!」
『えへへ。他の守護精霊にも力を借りたから、これたんだよ』
「後でお礼を言わなくちゃね。ところで、ジオ……あれはなんなの? 壁の向こうにまだいる。ぐるぐる唸ってる。何かの獣なの?」
『ああ。獣だよ。昏い獣だ。もう、あいつをアイリスに近寄らせたりしないからな。あいつはじっと、狙ってたんだ。魔天の瞳で、アイリスの姿を見てから……』
ジオは、あたしを助けに来てくれた。諦めるところだったもの、すごく嬉しい。
守ってくれるというけど、どうしたら帰れるのかしら?
それに、心臓に突き刺さった氷柱は、どんどん、大きくなっていくの。
「苦しい。からだが、こおっていく……みたい」
あたしとジオの前にある土の壁に、向こう側から、何かが、ぶつかってきた。
衝撃が伝わり、堅い壁が少し欠けて、ぱらぱらと土くれが落ちる。
『女神! 約束だ、アイリスを守って!』
ジオの声がした、とたん。
「そこまでにして、イル・リリヤ!」
鋭い声が響いた。
長い銀色の髪をなびかせた長身の女性が、ふわりと、あたしのそばに立つ。
「見損ないました、イル・リリヤ。そんなにも我が子が可愛い? 『魔眼の王』が欲しいの? でもだめ、この子はセレナンの庇護者。どんな月にも渡しません。これ以上、彼女の記憶に干渉することも赦しません」
ああ、エイリアス女神さまだ!
「このような、我が庇護の者に似せて非なる現し身を造り上げて!」
女神さまは、すごく怒っておられる。
鋭い銀の鞭を振り上げ、壁の向こうにいた黒髪の青年を打ち据えた。
壁は砕け、青年の姿をしていたものは、血の塊に変じた。
鮮血の赤ではない。静脈を流れる、暗い赤の。
その塊は、四つ足の獣となって、鞭打たれて苦悶の咆哮を轟かせた。
苦しげにのたうつその身体が、ふたたび黒髪の青年の姿へと変わる。のたうち暴れ、更に鞭をくらう。
「帰りなさい。もといたところへ。永劫の闇と氷に閉ざされているのは、セレナンの生命のせいでもないし人間のせいでもない。自分が、自分を縛りつけているのよ、セラニス・アレム・ダル!」
打たれるたびに、苦悶の悲鳴をあげ、もんどりうつ。
それは、みるみる形を失っていく。
やがてただの、ひとかたまりの赤黒い闇となって、銀色の薄明の空を裂き、みずからが開けた穴へと身を投じる。
それが消えたあとは、空間に開いた穴は、すぐにふさがって消えていった。
「エステリオ叔父さん!?」
思わず両手をのばそうとしてしまった、あたしを、ジオが止める。
『ちがうアイリス。苦し紛れに擬態しているだけだ。エステリオは、あんな変なモノじゃない。あいつを見るな。記憶を魂を汚染されるぞ!』
鞭打たれて苦しんでいたのは、エステリオ叔父さんじゃない。
ぜんぜんちがう存在だと、わかってる。
なのに、その姿を見せられると、あたしは弱い。
あたしのために、いつも懸命に庇ってくれて、守ってくれる、あの優しい人の姿を……悪意で借りるのは、やめて!
※
「エステリオ叔父さん!」
叫んで、目を覚ました。
ああよかった。
自分の部屋だわ。
あたしは、天蓋付きのベッドの中に横たわっていた。
窓にはレースと遮光カーテンが二重に引いてある。
「よく寝ておられましたよ」
「ですが、途中から、かなり寝苦しそうにしておられたので、坊ちゃまとエルナト様にも、付き添っていただいていたのですよ」
ローサとトリアさんも、すぐそばにいてくれたのだ。
『目が覚めてよかった。アイリス』
小さな妖精の姿のジオが、羽根を羽ばたかせて浮いている。
光の粉を、あたしに振りかけて、治癒を助けてくれていたのね。
あんなところまで来てくれて、ありがとう。
ジオを送りだしてくれた、シルルとイルミナも、ディーネも、ありがとう……。
涙が、溢れてきた。
きっと、安心したからだわ。
「だいじょうぶだよイーリス。もう治療は終わったよ」
あたしを心配そうに見つめているのは、見慣れたレンガ色のぼさぼさ赤毛と緑の目の、人の良さそうなエステリオ叔父さん。
「混乱しているようだね。治療の後遺症だろう。少し待てば、落ち着くだろう」
こう言ったのは、長い金髪で、とっても美形のエルさん。
「あ……」
起き上がろうとして、ふいに身体が、がたがた震えだす。
「寒いのかい?」
エステリオ叔父さんがローブを脱いで肩に掛けてくれる。三歳児のあたしには、すっぽり包まれてしまうくらい大きくて、毛布みたい。
「あたたかい」
ローブに顔を埋める。爽やかな、胸のすくようないい香りがする。エステリオ叔父さんの好きな、魔除けのローズマリーの香気。
「ああ、エステリオ叔父さんだ……よかった」
「どうしたの? 悪い夢でも見たのかい?」
「……うん。怖い夢だったわ。でも、もう目が覚めたから、へいきよ」
「ゆっくりと、身体を動かすことを、教えるよ。運動も、魔法も、これからは、少しずつね」
エステリオ叔父さんとエルナトさんは、何も知らないのだろうか。
たぶん知らないだろう。
あんなものが、叔父さんの姿を借りて、どこかの影の中に潜んでいた、なんて。
『生ある存在すべてを呪うモノのことなんか、知るのは精霊とセレナンだけでじゅうぶんだ』
冷たいようで、とても温かい、ジオの言葉が、胸にしみて。
悪夢の中で心臓に突き刺さっていた氷柱も、しだいに融けていっているのが、わかった。
これは呪い? 悪意?
ぜんぶ融けるには、少しばかり時間はかかるかもしれないけど。
だいじょうぶ。あたしは、元気よ。
あたしはイリス。月宮有栖。そして、アイリス・リデル・ティス・ラゼル。
過去と現在とが錯綜して混乱する。
エイリアス女神さまのおっしゃったことを、あとで、ゆっくり考えたい。
だって、まだ、三歳児だもの。
いつか、すべてを思い出すのかな。
でも、もう少しだけ、待って……。
今回の話で第2章が終わります。内容が区切れなくて、長くなってしまい申し訳ありません。




