第2章 その19 アイリス倒れる
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テーブルに広げた手のひらに、エルさんが手をかざす。
指先が、光を放ちはじめる。
エルさんは、その指先で、あたしの手のひらを、そっと撫でた。
光の軌跡が手のひらにふしぎな文様を描き出す。大きな円の中に、見たこともない文字が……
あれ? あたし、この文字を知ってる……
バイキングが使っていたルーン文字に、似ている……!?
なんでそんなことあたしは知ってるの?
なんでこの形はルーンに似てるの?
ルーン文字は、地球の……
ずきん!
突然、心臓に激しい痛みが走った。
「あいたたたたたたっ! むね…し、心臓! が、痛い!」
思わず声を上げてしまった。
とたんに守護精霊が騒ぎ出す。
『『『アイリス!!! どうしたのっっっ』』』
シルルとイルミナ、ディーネ。
取り乱して、今にも叔父さんとエルナトさんを攻撃しようとしているんだけど、あたしは、止められない。動けないししゃべれない。
心臓がぎゅっと握りしめられるように苦しくて痛くて。
あまりの激痛に、あたしは胸を押さえようとして、空を掴む。その左手首を、エステリオ叔父さんが握った。
あ……あたた、かい……。少しだけ、緊張が緩む。
ほうっと、息を吐く。
「ローサ」
「はい、エステリオさま」
「先ほどまでのわたしたちの会話を聞いていたね。もちろん聞いてもらうために遮蔽なしで話していたわけだが」
「はい。承知しております」
「これから話すことは秘密だ。誰にも…兄にも、義姉にも」
無言で頷くローサ。
「では頼みがある。トリアを、呼んでき」
次にエステリオ叔父さんが言いかけたときだった。
『待て。ここで話してはだめだ』
今まで精霊たちの騒ぎに加わらないで距離を保っていた、ジオが、言った。
「アイリスの守護精霊、地の精霊ジオか。それはどうしてだ」
尋ねたのはエルナトさん。もう、指先は光を放ってはいない。
『理由はアイリスが知ってる。他の守護精霊たちも、興奮がさめれば思い出すだろうけど、当分無理だから、おれが言う。屋根のないところでは、上空からのぞき見されるぞ。館の中へ入ったほうがいい』
『のぞき見? 誰が』
『本当に知らないのか? 赤い魔女を』
ジオは叔父さんたちの表情から
『知らないのだな』と察して、
『みんな、館の中に入れないか。診察も、できたら窓のない部屋がいいが。もしなければおれが窓辺に壁を造る』と言った。
その頃あたしは、心臓を襲う激痛で声も出なかった。
ひたすら痛くて、テーブルに顔を伏せてしまう。
「アイリスは眠ってしまったようだ」
叔父さんは、わざと入り口のメイドさんたちにも聞こえるようにそう言って立ち上がり、あたしのほうに回って、そっと抱き上げた。
「イーリス。だいじょうぶだ。すぐに楽になるからね」
やっぱり叔父さんって、優しい。
みなさん忘れないでね、あたしは三歳児なの。軽くて小さいです。
ローサが走って呼んできた、メイド長のトリアさんが、駆けつける。
「どうなさいました、お坊ちゃま」
「トリアさん。アイリスの体調が悪くなった。わたしの書斎に運んで休ませる。ソファに毛布を運ばせておいてくれないか」
名目は、そういうことだ。
実際にあたしは胸の激痛で声もだせない。
「はい、かしこまりました。ですが、窓のあるほうがよろしいのでは。お嬢さまのお部屋も整えております」
『はーあ、わっかんないなぁ人間て。エステリオが一番状況をわかってるんだから。こいつの言う通りにしてくれりゃ、それでいいのにさぁ』
心から、理解できないというふうにジオは伸び上がって、白髪が目立ち始めたものの、背が高く背筋を伸ばして佇んでいるトリアの顔を覗きこむ。
「仕方ないよジオ。トリアもローサも保有魔力は多くない。ジオのことは見えていないんだ。銀色のもやくらいは見えるし、精霊がここにいることくらいはわかるだろうが」
『ふーん。やっぱそうなんだ』
『『『ジオ! あんたばっかり活躍するつもりなの!?』』』
少し冷静になったシルルとイルミナ、ディーネが、駆けつけてくる。
ジオは余裕の笑みをたたえて、
『やっぱ実力の差? だいじょうぶだよ、お姉さまたちにもおいしいところ残しとくからさ!』
『『『いらないわよ! あんたの同情なんかっ』』』
なるべく騒ぎにしないで、そっと。
そう頼んだとおりに、エステリオ叔父さんの書斎に備え付けの長椅子に、運び込まれた大きなクッションと、布団が掛けられる。
窓のない部屋で、叔父さんの使っているところという条件で、そこになったのだ。
あたしは書斎のクッションと軽い布団の間におさまった。
失神してはいないけど、周囲に注意を払うゆとりなどなかった。
呼吸するだけで、せいいっぱいだ。
「ローサ。トリアさん。二人ともここにいてほしい」
叔父さんは、あたしを横たえると、ローサとトリアさんを手招きして呼んだ。二人とも、あたしを心配してついてきていたのだ。
「アイリスの身体が弱くて、今まで、外へ出せなかったのはよく知っていると思うが」
「はい、お坊ちゃま」
「承知しています、エステリオさま」
「アイリスを公国立学院の公認医師でもあるエルナトに診察してもらった。この子の体内には魔力が固まって詰まっている。嬰児のときには治療に耐えられなかった。このままでは大人になる前に死ぬ。今やるしかない」
エステリオ叔父さんはこう言った。
続いてエルナトさん。
「これから治療に移ります。ですが……」
少しだけ、躊躇う。
「はい、エルナトさま。なんでもお申し付けを」
「ありがとう。心臓に血の塊があるようなものだから、治療には苦痛が伴うおそれがある。お二人には、アイリス嬢に付き添っていてもらいたい」
「かしこまりました」
「お嬢さまのお世話をするのが、あたしのつとめです」
そんな会話が交わされていたことを、そのとき絶え間なく襲う心臓の激痛に耐えていた、あたしは知らなかった。
何十本もの錐で心臓を突き刺されるような痛み。
この苦痛が和らぐなんて、思えなかった。




