第6章 その12 多重存在(トリニティ)あるいは終焉せし古き園の番人
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造られたときには感情というものを知らなかった、わたし。
わたしはイリス。
西暦××××年、地球州の首都ワシントンD.Cにある管理局で、人類の揺り籠にして同時に墓場である電脳空間『地球』……管理局員たちによる通称は『安置所』を管理していたシステム・イリス。
あたしはかつて、イリス・マクギリスという女性で、21世紀の中頃、ニューヨーク州マンハッタンに住んでいた、営業畑のキャリアウーマンだった。
そして、あたし、月宮有栖は21世紀の初め、東京に住んでいた。正確には東京都武蔵野市。最寄り駅は吉祥寺。
この世界に転生してから、ずっと考えていた。三つの時代を生きた記憶だけが残っていて、ときどき前世を思い出しているんだわって。
でも今……ようやく、わたしは『全て』を思い出した。
※
深呼吸して。
気を落ち着けて。
この部屋の入り口近くには、カルナックお師匠様と、マクシミリアン君がいて見守ってくれている。
だからだいじょうぶ。
「アイリス! 『キリコ』も、きみの言葉は耳に入っている。彼がきみに敵対するなんてことは、絶対にない」
厳しいけど優しいお師匠様。
「おれも、ここにいるから」
マクシミリアン君も力づけてくれる。
今は黙っているけれど守護精霊たちも、全力で防護してくれている。
「ねえ、キリコさん。あなたとジョルジョが、潜っていたTokyoで消えてしまってから、わたし、イリスが何をしたか、知らないでしょう」
彼の目を見て、訴えかける。
キリコさんは固まったまま、答えなかった。けれど、その眼は、先ほどまでとは違って、まっすぐにわたしを見ている。
絹糸のようにつややかで豊かな黄金の髪、明るく澄んだ緑の瞳。あたかもかつてのシステム・イリスをそのまま幼女にしたかのような、この姿を。
「システム・イリス?」
茫然としたままで。
心はまだ、彷徨っているのかしら。遙か遠い昔、遙かな『古き園』に消え去った都市の幻の中を?
「わたしもタブーに触れたの。毎日モルグに潜ってたのよ」
打ち明けたら、キリコさんはすごく驚いた。
「なんだってそんなことを? きみは、地球連邦政府の秩序を体現する存在、きみこそが法律そのものだったのに」
「あなたに電脳世界のどこかで会えたらって願っていたから」
思い切って告白する。
「あなたがいないと、耐えられないほど寂しいって、わかったの。顔を見られなくなって、初めて気がついたのよ」
「そんな……ぼくみたいな一介の局員がいなくなったからって」
「だから、わたしは、以前キリコさんが好きだと言ってたTokyoに。City of New Yorkに、繰り返し潜っていたの。規則を守らないとキリコさんたちみたいになるって忠告してくれた親しい同僚も居たけれど、やめられなかった」
「まさか」
彼は青ざめる。
言葉を失う。
わたしは管理者の頂点にある者『執政官』としてあるまじき行為をしていたと告白したのだ。
「おかしいわよね? わたしはただのシステム、つくられた人工生命、合成の身体、魂など宿るはずはなかった。なのに不条理な思いを抱えて、ふらふらしていたのよ」
「……ぼくのために、服務規程に反する行為をした? システム・イリスが?」
あたし、イリスは(有栖は)ただ、微笑んで……。
さらに、指輪に魔力をこめた。
展開する魔力が輝きを強め、魔力が描き出す透ける花弁は更に大きくひろがる。
イルミナ、シルル、ディーネ、ジオ。アイリスを守護する精霊たちの展開する光と、指輪の魔力が相まって、二人を守っている。
指輪にこめられたアイリスとエステリオ・アウルを結ぶ婚約の契約を、消えないように。決して途切れないように。
キリコさんの心の奥に入り込んでしまったアウルに聞いてもらいたくて、わたしは語りかける。
今の彼は、フラッシュバックの影響で心の最深部に閉じこもっている。
いわゆる『緊急避難状態』だ。
そのまま出てこなければ、魂は結晶化してしまうかもしれない。そうしたら、何もできなくなってしまう。『世界』に還元していった精霊たちが、行く末は『精霊火』と『精霊石』に分離するみたいに。
そうなってしまったら、死ぬのと変わらないのよ!
「もしも、今のわたしが単なるシステムやプログラムじゃなく、感情を持つ人間みたいに感じられるなら」
微笑んだ。
できれば明るく笑いたかったけれど、そんなふうに器用には、できない。
「人工生命だったわたしが人間に近づいたのだとしたら、そのとき、過去の地球を模した電脳空間で出会ったアイーダと友達になったことが、きっかけだと思うわ。彼女は……、管理官の同僚の過去……コピー元の人格だったみたい」
寿命の尽きるまで彼女はわたしの側にいてくれた。
アイーダ・クリスティーナ。最期のときまで、わたしの好きな歌をうたって慰めて力づけてくれた。彼女はわたしの、たったひとりの友達だった。
「そして過去のわたし、月宮有栖と、イリス・マクギリスを見つけて引かれて、融合してしまったから。だから……このセレナンに転生したときの、『あたし』は……」
あたしはカルナックお師匠様のほうを振り返った。
「お師匠様。さっきシステム・イリスは、エステリオ・アウルとキリコさんを、世界に揺らぎを生じさせる『多重存在』だと言ったけど。この、わたしも……自分自身も、同じだったの」
「きみも『多重存在』だというのか、アイリス?」
「いいえ」
わたしはかぶりを振る。
「アイリスだけじゃないんです。『わたし』はシステム・イリスそのもの。そして同時に月宮有栖で、イリス・マクギリスなの。アイリスとして転生する前に、わたしたちはもう、完全に融合していたんです。ただ、転生した時に、そのことを忘れていただけ」
忘れていた。
混乱していた。
前世の記憶だと思っていた。
けれども全ては同時進行だった。
「カルナック様は現在のキリコさんを、セラニスが仕掛けた擬似人格プログラムではないかと疑っておられましたね。でも違うの。キリコさんも同じ。遙かな過去の『地球』という世界の終焉に存在していた、人工の魂が、過去に生きていたオリジナルの『自分自身』の魂と接触して融合してしまったものだったんです」
ほほえんだつもりだったけど。
顔がひきつっただけかもしれない。
「アイリス。落ち着いて。こちらへ、おいで」
カルナック様が、切なそうに、優しい笑みをたたえて、腕をひろげた。
「アウルも一緒でいいの?」
「もちろんだよ。だから。こちらへおいで」
そう話しかけながら、カルナックお師匠様は、あたしの反応を待たずに、みずから動き出していた。
素早く近づいて来る。マクシミリアン君を引き連れて。
けれど。
このとき、異変が起こった。
空間そのものが『変質する』という感覚を、今回は、あたしにも感じ取れた。
触れれば斬れそうな鋭い感覚。
毛穴が立ってぞわぞわして。
あきらかに気温が下がった。
目眩がする!
あたしはいっそう強くキリコさんにしがみついた。
『あなたがすべての記憶を取り戻すことを、ひそかにおそれていました。けれど、同時に、いつかはそうなると期待してもいたのですよ』
静謐な、しんとしてたおやかな声が胸に響く。
青みを帯びた銀色に光る長い髪。白い肌、あり得ないほどに整った美貌の女性が空間ににじみ出てくる。……にじみ出る、としか表現できない。
現れたのは、セレナンの女神様のひとりに違いなかった。
でも、わたしはまだ出会ったことがなかった、十代半ばくらいの姿をした美少女な女神様だった。
女神様はカルナック様のほうに会釈し、わたしとキリコさんのそばに、滑るように静かにやってきた。
『私は女神アエリア。キリコ・サイジョウの転生に関わった。私が出会ったキリコの魂は、すでにデータに還元していた状態、ダブルだったのですね』
「いいえ女神様。アエリア様」
固まったまま動けないで居るキリコさんを抱きしめて、首を振った。
「わたしたちは、二人とも《トリニティ》だったの。ずっと遠い昔、遙かな世界で。白い太陽の照らす古き園の終焉に立ち会った」