第6章 その8 疑念。アイリスは一人で歩く
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「きみは面白いが、困ったものだ。まったく規格外だよ」
カルナックお師匠様は全然困ってもいない様子で、楽しげにつぶやいた。
間髪入れずにあたしが反論したのも、当然だと思う。
「お師匠様に言われたくありませんっ!」
常識が通用しない、世間一般では畏怖と敬意を込めて『漆黒の魔法使いカルナック』と呼ばれているというお師匠様になんて。
けれどそうやって文句を言いながら、あたしは、倒れるところだったのを受け止めてくれたお師匠様の腕に、懸命にしがみついていた。
何かしらしっかりしたものにつかまっていないと、自分を保っていられないような気がしていたのだ。
目の前に、いるのは。
放心した様子で床にうずくまっているキリコさんと、懸命に支えようとしているジョルジョさん。
「……アイリス。どうかしたのか」
お師匠様にはお見通しだったみたい。
あたしを背中から抱きしめていた腕に、力がこもった。
「い、いいえ、なんでも……ない、です」
せいいっぱいの虚勢をはってみる。
「なんでもないことがあるか。こんなに冷たくなっているのに」
背中をさすってくれる、大きなてのひら。
「だいじょうぶか、アイリス嬢」
まだ小さいけど、温かい手で、マクシミリアン君も、あたしの腕を握った。ぬくもりが伝わってくる。二人とも、案じてくれているのだ。
「アイリス。私になら何を言っても構わないんだよ」
お師匠様の優しい声に励まされて、あたしは口を開いた。
「……あたし。ひどい思いちがい、してたかもしれないんです」
「なんだって?」
「今まであたしが知っていた叔父さまは、異世界・21世紀東京の記憶を持つ、最上霧湖さんだった。けれど、叔父さまが好きだった人は、あたしじゃないかもしれない! 許婚になったのは、あたしを守るためだったんだもの。ほんとうは、彼が、好きなのは……」
いったん、息をついで。絞り出す。
「システム・イリスなんだわ」
「なぜ、そんなことを思う?」
「わかったの。ううん、ずっと前から本当はわかっていたの。この世界に転生して初めて叔父さまがあたしの魂の姿を見たとき、すごく驚いてた」
思い出す……
夜明け前を思わせる、薄明の空。
その中を、意識だけになった叔父さまとあたしはどこまでも一緒に落ちた。
魂の姿で。
「あたしの魂の姿は、システム・イリスにそっくりだったの。それを見て、叔父さまは、目を逸らした」
「だから叔父さまは、あたしを『イーリス』って呼んでいたんだわ。叔父さまだけの、あたしの呼び名は、有栖ではなくて……」
(残念ながら、このイリス・マクギリス様でもなかったわよ、と。アイリスの身体に宿るもう一つの前世、ニューヨーカーの彼女は自嘲した)
「アイリス。疑念は直接、彼に問いただすのだな。だが、今のキリコに何を尋ねても無駄だ。君の許婚であるエステリオ・アウルを表に出さなければな」
お師匠様がおっしゃる通り。
依然として、エステリオ・アウルは意識の底に閉じこもったままなのだ。
※
「お師匠様。あたし、なんとかして、今のキリコさんとジョルジョくんを助けたい。でも、どうすればいいのか、わからないの!」
「感心な心がけだね。そんなにも苦しい疑念に苛まれているというのに」
カルナックお師匠様はとても優しかった。
「アイリス。落ち着いて。まずは深呼吸しなさい」
背中と肩を、ぽんぽんと叩いてくれた。
まるで、何かを祓うように。
マクシミリアン君も、あたしの背中に手のひらをあてて。温かさが伝わってきた。
身体が冷え切っていたのだと、ようやく気づいた。
「ゆっくり……深く息を吸って!」
あたしはほっと息を吐いて、吸って。
呼吸を整えた。
すると、視界がクリアになる。
ソファに腰掛けているアウルを見た。
放心しているみたい。
傍らに立っているジョルジョくん。表情がこわばっているわ。
「良い子だ、アイリス。私とマックは手を離すけれど……一人でできるね?」
「はい、お師匠様」
ここからは、あたしが一人でやらなくちゃいけないことだ。
「きみならできる。大丈夫だ」
饒舌なお師匠様と。
「だいじょうぶ」
口数の少ないマクシミリアン君。
二人からの心強い励ましで、あたしは背筋を伸ばした。
床の上を、歩きだす。
急がないと。他の人にも、異常事態だって知られてしまう。今、この屋敷には家族以外の招待客の皆さんも、おおぜい来てくださってるんだもの。
ほんの少しの距離のはずなのに。とても遠く感じた。
システム・イリスが身体を動かしていた、さっきまでと比べたら急に歩幅が小さくなっているわけだもの……。
足もとがあやふやでも。
足取りがおぼつかなくても。
ひとりで歩く。
あたしは、月宮有栖。
あたしは、イリス・マクギリス。
あたしは、システム・イリス。
普通は、意識や自我って、一人に一つだよね?
でも、あたしは……一人だけではなかった。
歩んでいるのはアイリスの、六歳幼女の身体。
あたしはだれ?
柔らかく磨かれたクルミ材の床の上を、一歩一歩踏みしめながら、おぼつかなく頼りなく歩いているのは?
それはアイリス・リデル・ティス・ラゼル。
そして、あたしが指にはめているのは、エステリオ・アウルが作ってくれた、エメラルドをあしらったプラチナの婚約指輪。
指輪は『契約』だ。カルナックお師匠様が、そうおっしゃった。
この婚約を承認すると、コマラパ老師様が、誓ってくださった。
魔法使いの長と副長が承認して結ばれた誓い。あたしたちの婚約は、そう簡単にご破算にはならない。なかったことになんかならない。
だから覚悟して、エステリオ・アウル。
臆病なあなたがどこに隠れていても、きっとあたしは、捜し出して首に輪をかけて連れ戻してみせる。
「だってあたしは、あなたの許婚のアイリスなんだから!」