第6章 その7 アイリスとイリスと有栖に起こっていたこと
7
「さて。きみの魂には、いったい何が起こっているのかな」
後ろに転びそうになったあたしを、受け止めてくれたカルナックお師匠様。
『やっぱり、きみは面白いなあ』なんて失敬な事を言ってくれちゃったり。
「きみやイリス・マクギリスのことなら、だいたいわかるが。システム・イリスとなると推測も理解も難しい。なかなか意識の表層に出てこないしね」
お師匠様は微笑を消して、あたしを見下ろした。
あれ、これやばいヤツだ!?
いつの間にやら、カルナックお師匠様にがっちりホールドされてるし!
お師匠様は成人男性にしては華奢と思ってたけど違うわ。筋肉とかしっかりある感じで鍛えてる。魔法使いのローブで、わかりにくいようにカモフラージュしてたのね。
そんなふうにする理由は不明だけど。
というわけで動きを封じられてるあたし、アイリス。
だけどカルナックお師匠様はあくまで優しい。
お師匠様はフェミニストという名の女好きだというリドラさんの持論に、あたしは両手をあげて賛同するわ。
「もちろん、教えてくれるだろうね、アイリス?」
カルナックお師匠様はとても紳士的だけど、傍らに控えているマクシミリアン君からは、ものすごい威圧感がひしひしと押し寄せてきてる。
キリコさんは、あらかじめ赤い魔女に渡されていた小刀をカルナック様に向けた。
その刃はカルナック様に届くことはなかった。まだ子どもとはいえ護衛騎士をしているマクシミリアン君が、見事に防ぎきったのだ。でもキリコさん(=アウル)は、あたし、アイリスの許婚。
マクシミリアン君が、あたしにも疑惑を持っていても不思議はないわ。
少年護衛騎士マクシミリアン君は、あたしをいぶかしむように見つめた。
明るい茶色の瞳の内側に、淡く青い光が宿っている。
魔力があふれ出しそうになってるんだ。彼は、以前は大きな魔力なんて持っていなかったから、まだうまく制御できてないみたい。
精霊やお師匠様と同じように、淡い水精石色に染まってしまいそうな澄んだ瞳。
まっすぐな眼差しをあたしに向けて、マクシミリアン君は、ぼそっとつぶやいた。
「不思議だ。アイリス、さっきは実際に大きくなったね? 大人の女性みたいだったよ。だけど、今は、もとの姿に戻っている……」
「え、マクシミリアン君にも変化していたことがわかったの?」
お師匠様が補足する。
「アイリス。今のマクシミリアンは、二つの視点を持っているんだ。
一つは、魔力をほとんど持たずに生まれた一般人の目。
もう一つは、私が自分の魔力核を分け与えたことによって芽吹いた、魔法使いとしての、目だ。
こちらはコマラパ老師の指導により身につけていってるところだな。年齢的にはちょっと早いが、国立学院の魔導師養成講座に入学させたんだ」
胸を張って、ちょっぴり自慢げ。
「もう全て、おわかりじゃないですか、お師匠様には」
あたしは認めるしかない。
降参です、カルナックお師匠様。
「きみの口から、はっきり聞いておきたいんだよ」
再び、カルナック様は、柔らかく微笑んだ。
「私の推測が合っているかどうか、そこに興味がある」
※
アイリスの魂は一つだけれど、意識は転生した時代ごとに、三つに分裂している。
死んで生まれ変わったら前世を覚えてなくて、記憶も心も別々。そんな感じ。
21世紀初め、東京の女子高生……あたし、月宮有栖。
21世紀半ば、ニューヨークのキャリアウーマン……イリス・マクギリス。
あたし(有栖)から見れば遙かに遠い未来、『執政官』と呼ばれる、人類の管理官だった人工生命……AI、システム・イリス。
この世界に転生して、エルレーン公国首都シ・イル・リリヤで名高い豪商ラゼル家の一人娘として生まれた、アイリス・リデル・ティス・ラゼル。それが、『あたし』。
アイリスと有栖の組み合わせが、一番しっくりきていたみたい。有栖にも対処できない事態になったときは25歳のイリス・マクギリスさんが意識の表層に浮かび上がってきて助けてくれていた。
だけどそのときも、肉体的な変化は起こらなかったのだ。
六歳の誕生日に起こった事件以来、深く眠っていたシステム・イリス。
そんな彼女が、『あたし』に接触を求めてきたのは、なぜか。
『国外出張』から帰宅したアウルは、自室に籠もっていた。そこへ向かったあたしとカルナック様が目にしたものは、黒髪に黒い目……前世(地球)で生きていた頃の姿をしたエステリオ・アウル。
つまり、キリコさん。
彼は、あたしの知っているキリコさんじゃないって言うの!
そして、いきなりカルナックお師匠様に刃を向けて斬りかかってきた。
突然のことで、どうすることもできなかったけれど、それをマクシミリアン君は見事に防ぎきり、カルナック様を守ったの。
キリコさんは、本当のキリコさんじゃないってカルナック様はおっしゃった。
三ヶ月前、あたしのお披露目会に現れた《魔の月》《セラニス・アレム・ダル》が仕掛けていった時限装置のようなものだと。擬似人格プログラム? それってなに?
キリコさんは、自分を消したいと願っていた。
そんなのだめ!
けれど、このまま『現状の』キリコさんが意識の表層にでているのは危険。本来のエステリオ・アウル、あたしの許婚の……彼が、魂の奥底で結晶して、二度とめざめることができなくなるかもしれない。
いったいどうしたらいいのか。
アイリスにも有栖にも、そしてイリス・マクギリスさんにも、エステリオ・アウルの魂を救うすべがなかった。
そして、そのとき。
妖精の卵にまで戻ってしまっていたジョルジョが、出現した。
このときのために、待っていた?
キリコさんとあたしを守護するためだと言って。
そしてジョルジョがキリコさんに囁きかけたら、彼の姿に変化が起こった。
焼きすぎたレンガの色みたいな髪と、優しい焦げ茶色の目をした、あたしのよく知っているエステリオ・アウルに戻っていったの!
そのエステリオに、システム・イリスが、『興味』を持った。
間近で『観察』してみたいというのが彼女の望み。
そしてシステム・イリスがアイリスの身体の主導権を握った時、変化が起こった。
幼女だったアイリス(あたし)の身体が、急に成長したのだ。
システム・イリスの魂の姿……二十代くらいまで。
成長したアイリスの身体の主導権を握ったシステム・イリスは、彼女がかつての地球で持っていた管理者権限を、この世界でも行使できることを悟った。
管理者権限を持つ者が、できることとは?
ヒトの魂を管理する。
システム・イリスは、彼女が転生したこの世界に悪影響を与えかねない『多重存在』であるキリコさんとジョルジョの『意識』を、本体の魂から分離して消去するつもりだった。
あたしの知らない未来のキリコさんは、消えることを望んだ。
むしろ喜んで。
ジョルジョまでもが、そうだった。
そんなのないわ!
ジオは、キリコさんを守るためにあたしの守護妖精になったって言ってたくせに。
諦めるの!?
そこまでが、傍観者になっていたあたしの我慢の限界だった。
『叔父さま、だめ! 死ぬなんて言わないで!』
あたし(有栖+アイリス)の強い願い。
見ていられなくなって声をあげたことで、状況は変わった。
システム・イリスは意識の表層から『剥がされて』再び魂の底へ。
そしてあたしは、アイリスの表層意識に戻っていたのだ。
それと共に、元通りの幼女アイリスに戻っていた、あたし。
けれど身体の急激な変化に心が追いつかなくて。
体勢を崩して勢いよく後ろに倒れ込んだ。
カルナックお師匠様が支えてくれなかったら盛大に尻餅をついていたのに違いない。
受け止められて、上を向いたらカルナックお師匠様が覗き込んで、にやっと笑ったのと目が合った。
顔にかかる、お師匠様の黒髪の後れ毛が、さらりと冷たく、頬を撫でる。
この髪のお手入れしてるの、絶対、師匠じゃないわ。
リドラさんが嬉々としてやってるのが目に浮かぶわよ。
彼女は女子力高い『いい女』系のお姉様だもの。
リドラ・フェイ。彼女は前世は21世紀の東京で営業マンをしていた三十八歳の男性だった『先祖還り』だと教えてくれた。
女性になりたかったから「転生ラッキー」なんて楽しそうなリドラさん。
五百歳越えだというのに時々小さな男の子みたいな表情をするお師匠様。
そんなカルナックお師匠様が、自分の長い髪のお手入れを丁寧にしているところなんて、ぜんぜん想像できない。
「きみは面白いが、困ったものだ。まったく規格外だよ」
くすっと笑う。
でも、あたしは面白いどころじゃない。
「お師匠様に言われたくありませんっ! ご自分こそとんでもない規格外で常識はずれだっていうのに!」