第6章 その2 ジオ
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「アイリス! 変質した『場』に影響されるな。自分を保ちなさい!」
はっ!
お師匠様が叱責する言葉で、あたしは我に返った。
目に飛び込んできたのは、黒髪の青年が無表情なまま、ものも言わずに目前に迫ってくる姿だ。
あたしを抱えたままで、お師匠様は脇に飛びすさった。
黒髪の青年は刃渡りの小さな片刃の剣を隠し持っていたのだ。
お師匠様に刃が迫る。
キン、と、鋭い音、そして火花が散る。
マクシミリアン君だ!
念のためにお師匠様は彼だけを護衛に残していたのだ。
炎の短剣が、真っ赤に輝いて目を射る。
この剣のこと、よく覚えているわ。
あたしの六歳の誕生日、お披露目会でお師匠様がマクシミリアン君に授けた、成長する剣が。『キリコ・サイジョウ』さんの凶刃を跳ね返したのだった。
短い間に、かなり訓練をしていたのだろう。
その証拠に、剣は三ヶ月前よりも大きく育っている。
マクシミリアン君ったら頼もしい!
「私の騎士の存在は、セラニスは知らなかったようだな」
お師匠様は、キリコさんの肩をそっけないくらい無造作に踏みつけた。
「セラニスの復活にはまだ早いと油断していた。あれが残した時限装置が、アウルの中にあったのだ」
忌ま忌ましさがにじみ出ている、苛ついた声で言った。
「だけど、あなたはどんなことがあっても弟子を始末できないと……赤い魔女は、言った」
キリコさんの口から、乾いた声がもれた。
「ぼくはすでに遠い昔に、旧世界で死んだ存在。静かな『安置所』に還りたいだけだ。この世界に『彼女』はいない」
※
キリコさんの姿をした青年は、深い絶望に染まった暗い瞳で、呟いた。
赤い魔女セラニス・アレム・ダルに唆され、貰ったのだろう黒い片刃の短剣は、カルナック様に届く寸前でマクシミリアン君が奮う炎の剣に弾かれた。
「あいにく私は甘くない」
カルナック師匠はキリコさんを踏みつけて言った。
「確かにエステリオ・アウルは私の可愛い弟子だが。おまえは本物のキリコでさえない。赤い魔女セラニスが仕掛けた、ただの擬似人格プログラムだ……消去したところで痛くも痒くもない」
「ならば消去してくれるとありがたい」
青年は言った。
「ちょっと待って! お師匠様、キリコさん!」
あたしは思わず声をあげた。
「そんなでもキリコさんはアウルの前世なんです! キリコさんもキリコさんよ! 消去してくれなんて簡単に!」
「アイリス」
お師匠様の静かな声が、耳元で聞こえた。六歳幼女のあたしはまだ、しっかり抱っこされてるから。
「わかったから。君が泣くことはない」
「え? あれ…?」
気がついたらあたしは、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「気に病むといけないから言っておく。先ほど私の意識に同調したね。過去を垣間見たのだろう?」
「……」
息を呑んだ。
胸が痛くなるような哀しみ。
大好きな人を失って、もう生きていたくないと嘆く、黒髪に青い目の少女。絶望して、自分の中にある別の意識に、身体を明け渡した。
それが闇の魔女カオリ。
三ヶ月前のお披露目会に現れたセラニス・アレム・ダルは、カルナック様のことを、そう呼んでいた。『闇の魔女カオリ』と。
カルナックお師匠様は苦いものを飲み込んだような顔をして言った。
「あれは、この私に起こった事ではない。別の可能性、違う時間軸のこと。だから気にすることは無いんだ」
「はい……」
心配させたくないから、あたしは涙をぬぐう。
だけど、お師匠様は嘘が下手だ。
『この私に起こった事ではない』だって。
リドラさんから聞いたことがあった。カルナックお師匠様がずっと同じ髪型をしているのは、いつか大切な人と再会したとき、すぐに気づいてもらいたいからだって。
胸が騒ぐ。
どうしよう。
静まらないよ。
身体が、あつい。
そのときだった。
『泣かないで、有栖。アイリス。イリス』
優しい声が聞こえた。
『ぼくが、いまそばにいってあげるから』
それはとっても懐かしくて。
目の前にまばゆい光が差して、子供の姿があらわれた。
色白で、くるくるの茶色い巻き毛、黒っぽい瞳の男の子。
『やあ有栖。待たせたね』
余裕たっぷりの、満面の笑みをたたえた超絶美形。
「ジオ!?」
「アイリスの守護妖精!? しかし復活が早すぎないか? 卵にまで戻ってしまっていたのに」
これにはさすがのカルナック様も驚いた。
『みんなに助けてもらって、ここにいる。これがぼくの、アイリスの守護妖精になりたかった理由だから』
「ジオの大切な人は、アウルだったの?」
『ちょっと違う』
ジオは、優しく笑った。
『きみが知っていたのはね、有栖。キリコなんだ。この世界に生まれ5歳に育った時点のエステリオ・アウルは、魂の奥津城に閉じこもり、水晶みたいに固まってしまっているんだ。そこから後は、前世を思い出したキリコが受け持つしかなかった。そうしなければ言葉を発することもできないままだった』
「えっ、どうして……」
問いかけの途中で、あたしは声を飲み込んだ。
聞くまでもないことだった。
五歳の誕生日、お披露目会の席上で、エステリオ・アウルは誘拐されたのだ。
人身売買組織によって。
カルナック様のもと、魔導師協会がアウルの売られた先を突き止め救出したものの、心に深い傷を負っていた彼は、辛い記憶を消されて人生をやり直すことになった。
「リドラさんも、お爺さまも言ってた。……誘拐事件以前と、今のアウルは、まるで別人だって。本当に、そうだったっていうこと……!?」
「そうだ」
カルナック様は、キリコさんを押さえつけていた力を、ゆるめた。
「本来のエステリオ・アウルは……死んだも同じだった。魂の中に、別の意識が存在していなかったら、動くこともできない人形になっていた」
ジオは地面に降り立ち、キリコさんのそばに跪いて、ささやきかけた。
『ずっとそばにいるって約束した。アウル。最上霧湖。ぼくだよ……』
すると、明らかに変化が起こった。
黒髪、黒目だったキリコさんの髪は焦げたレンガ。目の色は明るい茶色。肌は少し日焼けした、二十歳の青年……元のエステリオ・アウルに戻っていったのだ。
『エステリオ・アウルには妖精の守護がつけられなかった。この世界に生まれ落ちた本来のアウルが、傷ついて閉じこもってしまっていたから』