第6章 その1 絶望と希望のはざま(改)
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「この私に乱暴な口をきくのは、君とコマラパくらいのものだよ!」
と、カルナックお師匠様は言う。
「お師匠様。そういえばコマラパ老師とお師匠様は、いつ頃から一緒に?」
「……私たちにそんなことを尋ねる者も、この頃はついぞいなかったな。そう、ここ百年くらい」
「遠い目をして話をそらさないでくださいな」
ふと、気になった。
カルナック様とコマラパ老師って、魔導師協会の設立時から長と副長をやってるみたいなの。すごく長い時間を一緒に過ごしてきたんだわ。
どんな経験をしたんだろう。
どんな思いを重ねてきたのかな。
……そんなことを考えたのは、あたし、逃避してたんだと思う。
現実に目の前にある、危機的状況から。
「それより君には、やってもらわなければならないことがある」
「……やっぱり? アウルのことね」
「わかっていたか」
「小さな違和感だったけど。彼は、人前ではあたしを有栖と呼ばないのに、さっきは、その名前で呼んだ。ほんの少しだけど……あたしの知らない表情をしていた」
カルナックお師匠様に抱えられて廊下を進む、あたし。
マクシミリアン君は騎士なので懸命についてくる。小走りです。大変だろうな。お師匠様は背が高くて歩幅が大きいから。
「エステリオ・アウルは緊急避難状態にある。今回の事件の捜査中、あることがきっかけで、忘れさせていたはずの過去の記憶が蘇ってしまったのだ。そのために身動きも呼吸もできなくなっていた。その状態から脱するために、彼の『前世』の力を借りた。いわば君にとってのイリス・マクギリスだ。本来の彼を呼び覚ますことができるのは、きみだけだ。アイリス・リデル・ティス・ラゼル」
ふしぎ。
お師匠様が口にすると、それほどの力を持っているわけでもない平凡な幼女のあたしの名前ひとつでさえ、呪文のように響いた。
「あたしが、そんなだいそれたことを?」
「できるとも。だって君は、エステリオ・アウルの許婚だろう?」
嬉しそうな声で。
「君たちの婚約式の立会保証人になっておいて、本当に良かったよ」
「お師匠様のご提案だったじゃないですか!」
「そうだよ。一番、お似合いだと思ったからね」
※
やがて、あたしたちはエステリオ・アウルの書斎兼寝室の前にやってきた。
頑丈な樫の無垢材の扉。
主が在室中は、勝手に入れないことになっているのだけれど。
「私だ。入るぞ」
カルナック様は声をかけてからすぐに扉に手を触れた。
「封印の魔法が施してあった、主以外は入るな、か。たぶん無意識にだろう」
こともなげにお師匠様はおっしゃって、まるでごく普通の扉みたいに、手で押し開けてしまった。
※
アウルの書斎兼寝室にいた人物は、黒髪に黒い瞳をした青年だった。
あたし、アイリスの前世の一つ、21世紀東京の女子高生『月宮有栖』が知っていた青年の姿そのままだ。
「キリコさん? キリコ・サイジョウさん、でしょ」
確信めいたものがあって尋ねた。
けれど彼は、首を横に振った。
「オレ……いや、わたし……ぼく、は……」
息を吸って、吐いて。
「……多分、きみの知っているキリコじゃない」
目を伏せた。
「うん。わかってるよ」
あたしはうなずいた。
アウル本人は、レンガ色の髪と、明るい茶色の優しい目で笑うのだ。
お人好しで女性に弱くて騙されやすいの。
外での彼を見てはいないけれど、それくらい、わかるわ。
だから断言できる。
目の前にいる黒髪に黒い目の青年は、同じ魂の持ち主かもしれないけれど、それでも、あたしのアウルじゃない。
そして21世紀ので女子高生だった月宮有栖が知っていた、同い年の男子高校生、最上霧湖さんでもない。
「あなたは……だれ?」
「だめだ」
知らず知らず手を伸ばして触れようとしていたあたしを、カルナック様が止めた。
「彼に触れてはいけない。空間が変質している」
めったにない焦りが、お師匠様の表情に見て取れた。
「くうかんがへんしつ?」
この世界でまだ六歳幼女のあたしアイリスにも、前世で女子高生だった月宮有栖にも、ちょっと難しくてわかりません、お師匠様!
「緊急避難状態の影響だろう。……魂が、外に漏れ出して影響を与えているんだ。このままでは非常によろしくない」
「良くないの?」
「このままでは意識が完全に入れ替わってしまいかねない。今までのアウルは魂の奥底で結晶化して眠りにつく」
そこまで聞いて、あらためて、今の状態がどれだけ危機的状況なのかがわかって、あたしは思わず大声をあげていた。
「アウルが!? そんなのだめっ! だって彼はあたしのものなの! それに目の色や髪の色が変わったら、おかしいってみんな気づくわ!」
「アイリス。他の人間には、アウルの外見は今まで通りに映る。魂の姿が見えるのは、君や私、限られた者だけだよ。もともと同じ魂なのだ。ただ、中身の『意識と記憶』が入れ替わるだけ」
「そんなのイヤ!」
カルナックお師匠様の肩にしがみついたとき。
ふっと何かが見えた。
ううん、脳裏に浮かんできたの。
これはいつ? どこ? 誰の記憶?
長い黒髪と青い目をした少女が、横たわる金髪の少年に取りすがり、叫んでいる。
どちらも十四、五歳だろうか。幼さの残る、きれいな顔立ち。
あれ?
……カルナックお師匠さまに似てる?
……それに金髪の少年。どことなくだけど……マクシミリアン君に似てる?
『いやだ、おねがい、いかないで……おまえがいなくなったら……』
血の気が失せた少年の顔。
お腹に大きな傷がある。助かるとはとうてい思えなかった。
そして少女は、嘆く。
『……おまえのいない世界に生きていたくないのに、おれは死ねない。セレナンと同じだけ生きると決まっているから……でも死にたい。いなくなってしまいたい! もう、この身体はカオリにあげる……』
その言葉が終わらないうちに、少女の姿に変化が起きた。
きっちりと三つ編みにしていた黒髪が、ゆるゆると、のびた。
幼かった容姿が、みるみる、おとなびていく。
そこにいるのは美しい女性だった。
いとおしそうに、息絶えた少年の頭を、かき抱いて、泣いた。
『ばかね……待つって言ったのに。リトルホークが天寿をまっとうするまでくらい。レニ……あなたも、絶望するのは早すぎるわよ……』