第5章 その58 フェル王子、正気に返る
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床に残ったのは僅かな塵だけだった。
「おやすみグリス。願わくば、良き夢を」
どうしてだろう、妬けるくらいに優しい声で、カルナックお師匠様はつぶやいた。
漆喰を塗ってある壁を抜けてにじみ出てきた青白い精霊火が、カルナック様の体が隠れるくらい、おびただしく集まってきた。
そして灰色の塵の周囲に群がる。
あたし、アイリスは、ちょっと引く。
だって、野生の獣が獲物に群がって貪り食ってるビジュアルなんだもの。
しばらくすると精霊火たちは離れていった。
そのあとには何も残っていなかった。
そう……文字通り、塵ひとつ、なかった。
※
「さて、後片付けだ」
カルナックお師匠様はにやりと笑う。
騙されません。お師匠さまがこんな楽しそうな顔をするときは、絶対にろくでもないことを考えているはずだもの。
そして。カルナックさまは、倒れているフェルなんとか王子の肩をけった。
「いてっ!」
「やっぱり狸寝入りか」
カルナック様、ほんとに楽しそう。
王子のそばにしゃがみ込み衣服の胸もとをつかんで引き起こす。
次に口にしたのは意外な提案だった。
「君は亡命したいんだろう?」
「え?」
きょとんとしてまばたきをする、フェル王子。
カルナック様は、大げさに言い募る。
「そのはずだ。それしかありえない。こんな大それたことをしでかしてはレギオン王国における君の立場も未来もない。いや、むしろそれが狙いだったのだろう? 亡命して退路を断てば、十五位の王位継承者でしかないというのに頻繁に生命を狙われている君の周辺は安全になる。もちろん母上も」
「母上も!? もしかして母上も共に亡命できるのか!?」
フェルナンデス王子の顔が、ぱあっと輝いた。
身を起こして顔から近づこうとするのを、カルナック様が肩に手を当てて制した。
「とはいえ、今ここで攫って帰るわけにもいかないから、そう遠くないうちにエルレーン公国立学院に留学できるよう手配をしておいてやる。君は面白い才能を持っている。一つ、貸しだ。私の講座をとりなさい。ただし、どこの王族だろうが特別扱いはしないよ」
こくこくと頷くフェル君。
「ありがたい。むしろ願ったりかなったりだ」
素直な表情で、何度も礼を述べるフェル君。
ふしぎだわ、『ハイイロ』に魅入られていた時とは別人みたいな礼儀正しさ。
「そ、そして、その…」
急にフェル君は言葉につまった。
「さっきは、すまなかった。アイリスとやら。気を悪くしないでくれるといいのだが」
「? ええ、まあ」
あたしは用心深く答える。両脇には『牙』と『夜』がひかえて伏せている。彼らのうなり声が収まらないと、安心はできないわ。
「アイリス。おれは楽しみにしている。今回は、本当にすまなかった」
「ん~。ま、いいわよ。お師匠様に助けてもらったから」
ふふん。ちょっぴり気分いいから。
あたしはにっこり笑った。
正面にいるフェル王子の顔が、なんで赤くなっているか、なんてことは。ともかくどうだっていいの!
※
フェルなんとか王子の事件があってから少し後。
やっと大陸全土を股にかけた大規模な誘拐、人身販売組織を摘発できたと、リドラさんから連絡があった。
「やった! アウルが帰ってくる!」
もちろんすっごくうれしいの。
だけどアウルには言えないわ。
求婚者候補が現れたなんて。
しかも年の近い、レギオン王国の王子だなんて。