第5章 その51 三角フラスコ
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エルレーン公国首都シ・イル・リリヤ、貴族街。
大公の公邸はそれ自体が一つの街ほどの大きさの敷地にある。
この中に、公邸、私邸、そして……魔法使いたちの街が、ある。
地上部分は中庭のある広大な学舎。もともとは郊外にあった大公の別邸を移設し改築した建物である。
中庭の地下には、ガラス張りの巨大な温室がある。地下だというのに、昼夜を問わず、ふんだんに陽光が差し込む構造は、謎である。
温室には、ありとあらゆる植物が集められている。
この世界に存在するもの、かつて存在していたが失われたもの。また、人類の故郷にあったがセレナンには持ち込まれていないもの、その全ての種や組織標本が。
ここまで入ってこれるのはカルナックとコマラパ、そして特別に許可された数人の学院関係者だけだ。
エルナト・アル・フィリクス・アンティグアの実験室は、その温室を通って、更に奥に隠されている。
実験室。
試験管やビーカー、フラスコ。様々の実験器具が並び、硬質な機械の動作音が絶え間なく響いている。
清潔で無菌な静謐の空間。
並んでいるガラスの培養器。
静かな室内に佇む、長い黒髪をした青年が、明るい金髪に緑柱石の目をした青年に話しかける。
「進み具合はどうかな? エル」
「順調です、お師匠さま。今はまだ、私の細胞を培養しているので、移植実験にはまだ手を出していませんが」
「わたしの細胞を使っていいのに」
「師匠のは規格外すぎるのでサンプルになりませんから」
「なるほど。それに私は人間じゃないからな」
納得したように頷くカルナック。
エルナトは額を抑えた。
「お師匠さま。その口癖は、やめてください。私たちを助けてくれたのは、あなたですよ。誰からも見捨てられていた者たちを救っているのも、あなたではないですか。どうか、お忘れにならないように」
愛弟子の一人であるエルナトに苦言を言われて、けれどカルナック師匠は、それには答えない。
その美貌は神々に等しいと評判の面差しに、皮肉げな笑みを浮かべるだけだ。
「組織の摘発も重要な案件だが、この実験が成功することが肝要だ。この二つは組になっている。最終目的は被害に遭った子供たち自身の細胞を培養することだ。それが可能になれば……」
「お任せ下さい。遠くないうちに完成させてみせます」
『頼もしいことね、エルナト』
実験室の奥で、ガラスの実験用具を興味深そうに眺めているのは、銀髪の、精霊。
ラト・ナ・ルアだ。
『うふふふふ。あの小さかった、エルがね……』
感慨深そうに、ラト・ナ・ルアは、笑った。
『あたしたちがしばらく人間界に来ていなかった間に、こんなに大きく育って』
半月前、アイリス六歳のお披露目会で事件が起こり、危機に陥ったカルナックを助けるためにラト・ナ・ルアとレフィス・トール、精霊族の兄妹は、数年ぶりにシ・イル・リリヤに出現したのだ。
「からかわないでください、精霊の姉さま。私だって、もう子供ではありません」
金髪の青年の、その深い緑の瞳に籠もった熱を、永遠に少女のままである精霊、ラト・ナ・ルアは気づかない。
『あら、からかってなんかいないわよ。あたしたちは期待しているの。カルナックとエル、弟子たち。あなたたちは面白いわ。それに、小さな虹の娘。イリス……アイリスと溶け合っているのかしら。それともまだ、アイリスの意識の底で眠っているのかしら?』
歌うようにラト・ナ・ルアは、つぶやく。
『今度こそ彼女を救い出して。カルナック。泥海に沈んでしまわないように。アイリスと並び立つ魂を』
※
あたし、アイリスは、元気に日々を過ごしています。
きっともうじき、特別任務で駆り出されていた事件が解決したら、アウルもティーレも、リドラさんにも、また会える。
だから、あたしはそれまでに少しでも丈夫になっておかなくちゃ!
あ、もちろんレディ教育もね。
というわけで時間は瞬く間に過ぎていく。
今日、お昼までは自由時間だから。メイドさんたちにお願いをした。
とても動きやすい服装にしてもらったの。
「よし! おいで、シロ、クロ!」
あたしは玄関を飛び出した。後ろに従う二匹の子犬。
たまには二頭も思いっきり運動しなくちゃね!
そう、我が家の庭にはドッグランがあるのだ!
スノッリさんが造ってくれたの!