第5章 その47 ルーナ姫(1月24日、訂正しました)
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「やはり知らなかったのか。そうだな、貴族階級では知らない人間が多いな」
思慮深く、《影の呪術師》は言葉を選ぶ。
「ネリーはもちろん知っているだろう?」
暖炉の前に控えていた中年の侍女ネリーに話題を向けた。
するとネリーは頷いて、
「はい、さようで。このネリーには子が三人おりますが、男、女、そして末の子が『精霊の思し召し』でございました。成人する頃には『冒険者』になると申しましてね。この子が選んだのは『無性』で。性別がない方が戦闘に好都合だと申しましてね」
落ち着き払って答えたものである。
誇らしげですらあった。
「……はい?」
せわしく目をしばたかせるルイーゼロッタ。
「平民の言い回しで『精霊の思し召し』というのは生まれた時点では男性、女性、どちらでもなく、また、どちらでもある第三の性別だ。珍しいが、この世界では一万人に一人くらいの割合で生まれる」
微かな吐息を、少しの憂いと共に《呪術師》は吐き出す。
「本来は、性別を持たない精霊が、性別によって何かと制限される人間に慈悲をもって与えた選択肢だそうだ」
彼自身は、見た目は確かに男性であっても女性であっても納得するほど、神々しいまでの美貌の持ち主である。
「え? え? え?」
ルイーゼロッタは混乱するばかり。
「成長に従って、自分の望む性別、男性にも女性にもなりうる。多くは、通常、成人するまでには、どうなりたいかを選び、決定していく。完全な変化を終えた後でも、強く願えば再度の変化も可能だ」
「望む性別に? どちらでもないとおっしゃいましたが、《呪術師》さまは、お選びになられなかったのですか」
「選んだよ。『無性』を。……もっとも私の場合は少々、特殊でね」
部屋の隅で暖炉がぱちぱちと音をたてた。
あかあかと燃える炎が、影を投げかける。
「呪術師さまは《世界》に選ばれた特別な御方ですから当然でございます」
ネリーは手放しで、自慢するように言うのだった。
「選ばれたおかた?」
ルイーゼロッタ先生。
「私の中には他に二つの意識が同居している。もとはと言えば幼い頃に臨死体験をしてね……それ以来だ。それぞれが別の性別を要求してくるんだなあ、これが。多重人格だ。なかなかに面倒なのだよ。親がわりの人みたいな口うるさいおじさんはいるけどね。友達もフィリクスしかいないし、嫁も来ない」
不思議なことに一気に緊張が崩れて、ルイーゼロッタは、くすっと笑った。
「笑ったね。そのほうがずっといい」
《呪術師》もまた、笑顔になった。
無愛想だというのは違うと、ルイーゼロッタは思った。
あまりしょっちゅうは笑わないということなんだろう、と。
そういうことなのだと納得させられたので、《呪術師》が部屋にとどまっていることに反論もできなかった。
おとなしくネリーに着替えさせてもらい、清潔なリネンの布で身体を拭かれる。
はじめのうちこそ恥ずかしさが勝っていたが、やがて、そんな細かいことはどうでもよくなってきた。
それよりも自分を助けてくれた恩人が、ずっといてくれるということ。
そのことで、ずいぶん安堵できたのだった。
「それにしても、なんともったいない」
呪術師が、呟く。
「少し手入れすれば輝く原石なのに」
しなやかな手で髪に触れられて、ルイーゼロッタの頬がほんのり上気する。
「エリーゼ。いや、ルイーゼロッタ。なんだか他人事とは思えないのだ。きみの髪と目の色のせいかもしれない。まるで遠縁の女の子に出会ったみたいな気がする」
(遠縁の? ああ、やはり。同情なんだわ)
ルイーゼロッタの胸の奥が、かすかに痛んだ。
(いけない。助けてもらったからって、いい気になっては……でも嬉しかった。養父母と離れて以来だ。初めて、優しく接してくださった……)
わきまえなければと、ルイーゼロッタは身を引き締める。
そのときだった。
小さく、軽い足音が近付いてきて。
子供部屋の扉が、勢いよく開かれた。
「ここにいらっしゃるのでしょう、《呪術師》さま!」
飛び込んできたのは、黄金の光。
まるで背中に薄羽根がついているのではないかと思える、妖精のような、美少女が微笑んでいたのだった。
「いけません、ルーナリシアさま!」
あとから駆けつけてきたのは、二人の侍女だった。追いかけることに必死だったのだろう、きちんと結い上げていたに違いない髪型が崩れてしまっている。表情にも焦りが見えた。
「お行儀が悪うございます」
「そんなのかまわないわ!」
少女が頭を振る。細かく波打つ黄金の髪から光が差したかのよう。
「ねえ《呪術師》さま! そのかたを、わたくしに紹介してくださいな!」
「……しかし、ルーナリシア殿下。私などのいるところへ、あなたのような高貴な方が気軽においでになられては、外聞がよくありません」
かすかに眉をひそめる《呪術師》。
しかし姫君は臆することなく、彼のもとへと駆け寄る。
「あまりお会いできないのですから。離宮にいらした機会を逃すわけはないでしょう?」
屈託のない笑顔を向けた。