第5章 その44 エリゼール戦役
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カルナック師匠は、こうおっしゃった。
あたしのマナーの先生としていらしたルイーゼロッタ先生は、いつか愛称の『エーヴァ・ロッタ』と呼んで良いと言ってくれるだろう、と。
けれどそんなに早く愛称で呼んで良いとルイーゼロッタ先生から言われるとは思っていなかったので、申し出を受けてあたしはすごく驚いた。
「そんなに意外だったかな? 私は、あなたと会って腹を割って話をしたかったの。だから家庭教師を買って出た。申し出るのが遅くてヴィーにとられたけれど。まだマナー指導の方は募集していると知ったから。これ幸いとね」
あたしは向かい合ってティーテーブルについているルイーゼロッタ先生の表情を伺う。
からかっているのかと思ったのだ。
でもルイーゼロッタ先生はすっごく真面目な顔をしていた。
「どうしてですか、先生」
「言ったでしょ。エーヴァ・ロッタよ。そう呼んで。ねえ、アイリス」
先生は、笑った。
「それとも、なんと呼べばいいのかしら。イリス? それとも、月宮有栖?」
時間が凍り付いた。
あたしが『先祖還り』だと知っている?
これって、あまり公言しないほうがいいって、女神さまに忠告されたことがある。
明らかに、上流階級に属していると思える、先生。
信じられる?
パニックです!
「あら、失敗しちゃったかな。警戒心を持たせちゃった? ごめんね」
屈託のない笑顔が、かえってコワいのですが、先生。
「数ある『先祖還り』の中でも、特別強大な魔力の持ち主はカルナック師についで、あなたよ、アイリス」
「そうなんですか……」
ホントに知らないだけなので、あたしは何も返答できない。
「こうやって、貴族にいずれ出会うときのためにマナーを身につけていく必要がある。あなたが世界の要になる。だから、知っていて欲しいの。世界の真実を」
「き、きゅうにそんなこと言われても、あたし! わかりませんっ」
幼女の振りをしてみる。
だけど効き目なさそう……。
「もっとじっくり教えてあげたいけど……世界情勢は常に移り変わるのよ。今、こうしている間にもね」
先生が右手を挙げる。
メイドさんたちが素早くやってきてティーセットをテーブルの端に寄せた。
開いた場所に、先生は、一枚の紙を置いた。
……羊皮紙?
お父様が契約の書類にサインしているのを見たことがあるわ。
とても古いもののよう。
表面が乾いてパリパリしてる。黒インクで描かれた、地図?
「これは百年前の地図よ。もとになっているのはそれよりもっと古い、さらに三百年前くらいのもの。この地形、何かに似てると思わない?」
「地図……」
それは……まるで。
南北アメリカ大陸を上下にぎゅっと押して寄せて、さらにその左側にヨーロッパ大陸を持ってきて押しつけたみたいな形に見えた。
「これが、エナンデリア大陸よ。こちらの西地区は、まだ踏査がなされていないの。この、大陸中央に……ノスタルヒアス高原がある。ここには高原の名前のもとになった王国が、あったの」
ルイーゼロッタ(エーヴァ・ロッタ)先生が指先を滑らせる。
その軌跡が銀色に光った。
「ノスタルヒアス王国は、1000年前に二つに分かれ、レギオン王国とエルレーン公国になった。6百年前、レギオンのとある権力者が国を出て南へ赴き、キスピとアマソナという小国を手中におさめ、さらには南西にあるサウダージ共和国から領土を割譲されて建国した。新興国グーリアが神聖帝国と周辺諸国を盛んに攻め、領土を切り取った。数々の小国が地図から消え、属国となった」
消えた国。
ロントリア、アステルシア、キスピ、アマソナ。
そして、エリゼール。
「エリゼール戦役と、呼ばれたわ」
※
荒野を彷徨っていた。
何も考えずただただ歩いた。思考は麻痺していたのだろう。身体の感覚もなかった。
感情も動かない。
少女はたった一人で、ただ、足を前に進めるだけ。
吹雪に巻かれた。
力尽きた。
目の前が暗くなった。
……無機質な声が。胸に響いた。
お前が死ねば、この国の民は全て消える。
これまで死んだものたちは、ただ、おまえを助けてくれと
神に願って。
その願いは、たいそう重い。
多くのものたちの思いは降り積もり、我が大地を覆い尽くすだろう。
それゆえに、願いは聞き届けられねばならぬ。
でなければ『瑕疵』傷になる。
水源に流された毒のように、それは世界を侵す……
おまえは何を望む?
死に行く者よ、幼き者よ。
さいごのちからで、のばした手は。
確かに、何かに、触れた。
※
気がつけばどこか温かいところにいた。
仰向けに身を横たえていた。
柔らかいものにくるまれている。
きっと、これも、うそだ……
本当のこととは思えなかった。
まばたきをすれば消えてしまう幻。
目を開けて最初に見えたのは、長い黒髪と、黒い目をした、色の白い長身の人物。
きれいなひとだ。
と、ぼんやりとした頭で、思う。
「気がついたね。危なかった。もう少し遅ければ死んでいた」
穏やかな、あたたかい声が、呼びかける。
優しい、黒い瞳が見つめる。
「きみのなまえは?」
「わたし…わたしは」
……エリーゼ。
本名を答えようとして、ふと、名前の意味などすでに失われていることに思い至る。
「……ルイーゼロッタ」