第2章 その5 キリコの場合
5(閑話 とある初恋物語)
どうして忘れられないんだろう。
あれから何年も経っているのに。
彼女とは付き合ったこともなければ話をしたこともない。
ただ、毎朝、吉祥寺駅のホームで出会っただけ。
彼女はいつも、仲の良さそうな女友達と一緒にいた。
親友同士なのかな。
夕べ見たテレビ、芸能人の話、マンガやファッションの話。たわいもないおしゃべり。2人ともすごく可愛い女の子だった。
たぶんカレシはいない。
男の話なんてしてたことはないからだ。
バレンタインデーにチョコをあげるのはお父さんって言ってた。
おれは彼女の姿を見かけ、声を聞けるだけで幸せだった。
降りる駅も学校も違う、住んでいるところも知らないし、学年や名前さえも知らなかったのだ。
高校生なんだろう、きっと、おれと同じくらいなんだろうな。
彼女と映画に行きたい。
カフェとか入って話したい。
いや、彼女の顔を正面から見るだけでも、天にも昇る気持ちになるだろう。
いつか自分の名前をなのって、そして、彼女の名前を尋ねよう。
そう思っていたんだ。
半年近く、続いた片思い。
いつか告白しよう、きっと、彼女の隣に立てるようになろうと夢見てた。
ある日。
いつもの朝の吉祥寺駅に、彼女の姿はなかった。
彼女の親友が、ホームに佇んでいた。
泣いてた。
となりにいるのは母親だろうか。
「紗耶香」
そっとハンカチを差し出して。
「気の毒だったわね、月宮さん」
「まだ、高校生なのに」
紗耶香と呼ばれた、彼女の友達は、鼻も頬も真っ赤に腫らして、あたりをはばからずにぼたぼた泣いてた。
「ありす……有栖……うう、うう。いっしょに原宿に行こうって言ったのに……」
おれは片思いのあの子の名前を、このとき初めて知った。
月宮有栖。高校2年。十六歳の誕生日の前夜、交通事故で死んだってことを。
※
「キリコさん? 最上霧湖さん?」
名前を呼ばれて、おれは目を開けた。
まわりは真っ白で、何もない空間。
目の前には、今まで見たこともないような美少女が立っていた。
十四、五歳くらいか。
プラチナブロンド? 柔らかく青白い光を放っているまっすぐな銀髪は、細い腰までをすっぽり覆ってしまうくらいに長い。
アニメに出ていたらすごく人気が出そうだ。
可愛い女の子だな。
くす、と、美少女は笑った。
「日本人男性でキリコって名前は珍しい。あなたはお亡くなりになりました。そのことは覚えてるかしら?」
「え、えーと。営業で毎日忙しくて寝る間もなくて、なんか気がついたら死んでた、みたいな? ですかね?」
「あら、覚えてるのはそこ? まあいっか。キリコさん、死んだって聞いてどう?」
「どう、って」
「もし生き返らせてあげるって言ったら?」
「えっと、そっすね。あんまりいい人生でもなかったんで、もう、いいです」
正直な気持ちだった。勤めていたのは、ほぼブラック企業だったと思う。仕事に追われるばかりで、恋人も作るゆとりはなかった。
……だから忘れられないのか。
……かなわなかった、初恋とも呼べないような思い出を。
「あら、欲がないのね。じゃあどうかしら。もとの人生に還るのではなく、異世界で、別の人間に転生するというのはどう?」
「え、そんなことできるんですか?」
「できるわ。だって、わたしは女神さまだから!」
そう言って美少女は胸を張った。
「女神さま?」
「そう疑わしそうに見ないでよ。わたしは「セレナン」という異世界を管理する女神なの。そこならわりと自由がきくのよね。そのかわりと言ってはなんだけど、あなたにお願いがあるの」
「お願い?」
「ある女の子を助けてほしいの」
「女の子?」
胸の奥が、ずきっと痛んだ。
まだ薄れていない痛みだったのか。
付き合ったこともない、憧れていただけの、あの子の面影が。
「おれに、人を助ける力なんか…ないよ。特技もないし、スポーツもやってない、腕力も無い。ただの営業マンだ」
「あなたに力をあげる。キリコ・サイジョウ」
女神さまの姿が、銀色のもやに包まれる。
それは大きな流れとなって、おれを巻き込んでいく。
「こんどこそ、助けてあげて」
最後に聞こえたのは、その優しい声だった。
「イリス・アイリス。在る世界ではあの子も女神のようなものだった。自分の望みもかなえられないまま。そんなの見ていられない」
胸をうつような声だ。
イリス・アイリス。おれが助けることになってる女の子のこと?
彼女のことを語る、女神の表情は……ものすごく、可愛かった。
反則だ!
「あなたも……触れるか触れ合わないかの微かな縁に結ばれた魂よ、安らぐためには、かなえられなかったことを実現すること。……さあ、お行きなさい」
意識が遠くなっていく。
「転生の記憶がよみがえるまでには少し間をあけましょう。赤ん坊には重い荷物だわ。では、また、いつか会いましょう。どうしようもなく困ったら、わたしを思い出して。助けてあげても……よくってよ?」
女神様、まさかのツンデレ。
あ、名前、教えてもらってないよ!
困ったときに助けを呼ぶって、どうやればいいんだ!?
アイリス視点ではない、お話です。