第5章 その29 根源の泉水と、リドラの過去(修正)
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ランチの後はヴィー先生といったんお別れ。先生は授業の準備をするそうなのです。
あたしはリドラさんとローサに付き添われて子供部屋に戻り、ソファに身体を横たえてから、また『根源の泉水』を頂いた。
「その、特別な水差しを預かっていらっしゃるなんて、リドラさんは、カルナック様からの信頼が厚いのですね」
「ローサはほんとうに、リドラさんを、そんけいしているのね」
「はい、お嬢さま。お披露目会のときのリドラさんとティーレさんの大活躍は忘れられません。わたしも助けていただきましたから」
「や~だローサちゃんってば! あれは、たまたまだから!」
リドラさんは、くすぐったそう。
ローサと仲が良いのは、あたしも嬉しい。
お水を飲んで、目を閉じて横たわる。
これは特別な泉水だ。
目を開く。世界が、変わって見える。
まず、銀色の細かい粒子が、いちめんに漂い、空気の対流にそって流れていって、人の身体に溶け込んでいったり、また出てきたりするのが、わかる。
まるで銀色の靄のような、あれは何?
カルナック様が事件の後におっしゃってた、この世界を満たしているというエネルギーなのだろう。
しばらくしたら、元通りに、見えなくなるんだけど。カルナック様は、いつも、こんな世界を見ているのかな。
「リドラさんも、このお水を飲んでいるの?」
聞いてみたらリドラさんは驚いたように目を見開いて。それから、僅かに目線を下にそらして、静かに言った。
「……昔ね」
どうしたのかな。いつも表情豊かな彼女には珍しく、無表情に見えた。
「師匠に拾われた頃にね。そのときはまだ小さい子供だった。難民で搾取されて死にかけてて。サウダージ共和国では、魔力持ちは忌み子。狩られて魔力を搾り取られるか、器官そのものを奪われて殺されるんだよ」
「えっ」
息を呑んだ。
どう応えていいのかわからない。
そんなハードな……。
ぬくぬくと生きている自分が、恥ずかしく思えた。
きっと、あたしだったら、すぐに死んでる。
「な~んちゃってね!」
すぐにリドラさんは、にかっと笑って、あたしのおでこを指でつついた。
「そんな国があったら怖いよね~! 今のはサウダージ共和国の都市伝説! むかし難民だったところを師匠に助けてもらったのは本当だけどねっ!」
茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせたけど。
さっきのは本当のことじゃないかって、そんな気がしてならなかった。
リドラさんに、辛いことを思い出させてしまったのではないかしら。
「わたしはね、アイリスちゃんに幸せになってもらいたいのよ」
リドラさんは、大きな鏡台に向かい、あたしの髪をブラシでとかしながら言う。
鏡に映っているのは、六歳になった今でも、自分でもまだ違和感ありありの、黄金の絹糸のような髪と緑の目をした、愛くるしい美幼女、アイリス。
まるで天使みたい。
違和感があっても、それでも、あたしはアイリスだ。
この世界で、生きていく。
「リドラさん、わたし、ヴィー先生にご相談することをまとめておこうと思って」
「はいはい。でも、少し目を閉じましょうね。聖なる水が身体にいきわたるのに、時間がかかるから」
あ~あ。
小さい子みたいに寝かされてしまうのは不本意なのだけど。
だんだん、じわじわと熱がわいてきて、身体じゅうが熱くなっていく。
幼児はお昼寝をするものなので、しょうがないんだわ……。
※
今でも目を閉じれば、ありありと思い出す。
幼かった頃、リドラがいた穴蔵に、カルナックが訪れたときのことだ。
「だから危険だって。お兄さん、あんたみたいなキレイな人が来て良いところじゃないんだ。大金を払っておれを身請けするなんて元締めに言うから。あんたを殺して、有り金を奪うつもりだよ」
陽の光など差したこともない穴蔵だった。土埃と湿った藁の匂いにまじって、怪しい香がくすぶっていた。普通の人ならすぐに昏倒するくらいに濃厚な。
リディは、幼児の頃から、この毒煙には慣らされていた。
「この香か?」
黒衣に身を包んだ青年は、くすりと笑った。楽しげに。
「ここの主は、私を永遠に眠らせたかったようだが、残念ながら毒も薬も効かないんだよ。なぜなら」
フードをおろして、不敵な目をのぞかせる。
「あいにく、私は人間じゃないから」
青年の黒い目には、深い憤りがあった。やがてその瞳は、水精石を思わせる、うす青い輝きを宿して星のようにきらめいた。身体の内に満ちている膨大な魔力が、そんな現象を起こさせるのだ。
「まさか、お兄さんは、魔法使い……」
魔法使いは、奇跡を起こす存在。
全てを覆せると、噂で聞いたことがあった。
もしも、そんな人がいるならと、ここにいる皆は、儚い希望を託していた。
その人が、今、目の前に?
「黄金の卵を産むガチョウを殺して腹を割くか。愚か者め」
静かな言葉の内には、激しい怒り。
「せっかく、短気なこの私が、珍しくもはなはだ平和的に、金ですむことならばと譲歩したというのに。……この穴ぐらの主は、よほど命が惜しくないとみえる」
「おにいさん。どうするつもり」
「もちろん、ここをぶちこわすのさ」
それはリドラが生まれて初めて見た希望の光だった。