第5章 その9 運命の分岐点(修正)
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その黒いワゴン車の前に立ったとき、悪寒がした。
理由はわからない。
ぞっと、した。
「紗耶香、どうかしら、この車で」
ママの声がして、あたしは顔をあげた。
あたしは相田紗耶香。中学二年生。
「ママは軽が好きだと思ったけど」
「そうだけど。今のス○キのア○トに八年乗ってきたしね、今年、車検でしょ。その前に買い換えたいかな」
「気にいってるのはこれなの?」
こういうときのママは、もう心を決めていて、たずねるのは形だけなのだと、あたしは知っている。
「いいでしょ。黒は高級そうだし、お買い得価格だし」
まだ新しいですよと、スーツ姿の中古車販売場の人がやってきて笑顔で言う。
あらすてきねと、ママは心が揺れてる。
ちょっと待ってママ、おかしくない?
新しいのに安いなんて。
「これじゃないわ」
口をついて出た言葉は、自分でも意外なものだった。
「ママにはもっと、明るい色が似合うわよ。あの空色のステラとか、ワゴンでも、あっちのシルバーグレイのとか」
あたしとママがいる、広い中古車展示場。
その中で空色の車とシルバーの車が展示されてる一カ所だけ光が差しているみたいに輝いて見えた。
うまく言えないけれど。
「そうよ、あっちがいいわ!」
あたしはママの手を引っ張って、黒いワゴン車から引きはがし、シルバーのワゴンの前に行った。
その瞬間。
ぱあっと、まわりが明るくなって。
パリン!
硬質な、ガラスみたいなものが砕け散った音がした。
何かが、決定的に変化した。
ママはシルバーのワゴン車を購入する書類にサインして、今乗ってきた軽自動車の下取りをお願いしてる。
このとき何かが、はっきりと変わった。
「ねえねえ、ママ! あれがいいわ。あの空色の軽自動車」
そのとき向こうから、なんだか、あたし達と似たような親子がやってきたの。
「有栖ったら。走らないで」
「パパも、これがいいって言うわきっと。青が好きだもん」
「そうねえ……」
そしてあたしたちは出会った。
鏡に映したように、似た背格好の、母親と娘。
※
あたしは相田紗耶香。
アイドルをやってます。
ムーンチャイルドっていうレーベルから、女の子二人のデュエットで出てる。
サヤカとアリス。
クリスマスソングが流れる街を、ママが運転するシルバーのワゴン車が走る。
「ママ、安全運転でね」
「もちろんよ紗耶香。うちのダメ旦那と、有栖ちゃんのパパとママが、パーティーの用意して待ってくれてるんだものね」
ママが明るい声で笑う。
あたしは、ほんとに、この笑い声が好きだ。
大好きなママ。
交差点で信号待ちをしている歩行者の列に目をやった。
大きなクリスマスツリーが駅前に飾られていて。
みんな楽しそうだ。
家族や恋人や、大切な人と、過ごすんだろう。
「今夜は二人とも、ボーイフレンドは誘わなかったの?」
突然、ママが爆弾発言をする。
「なんで知ってるの!?」
「す、好きな男子はいますけど! ボーイフレンドだなんて、そんな、まだ」
赤くなってる!
有栖はまだ付き合い始めて半年だったわね。
純情~。
あたしの彼はハーフでかっこいい。ジョルジョっていうの。
有栖の彼は、ジョルジョの友達で、一緒にバンドをやってるの。ぼさ~っとしてたけど、どこがいいのかしら。ま、優しそうで誠実な感じだったわね。
信号が青になって、ワゴンは走り出す。
ふと、歩道に立っていたカップルに目がとまったのは、彼女のほうがちょっと背が高くて、ものすごい美人だったの。長い黒髪で。彼氏のほうも、美少年だったわ。
あたしたちより年上かな。高校三年くらい?
ふと。
長い髪の彼女と、あたしは、目が合った。
彼女が微笑んで。
『幸せにね』
と、唇が動いた。
※
『お幸せに』
と、赤い髪と赤い瞳の魔女が呟いた。
『あなたらしくもないことね。慈悲心なんてあったの?』
銀色の髪の少女が、くすりと笑う。
『だぁって。悪いことはみんな、このぼくの専売特許みたいに言われてもさ。無実の罪で裁かれるのもイヤじゃない? もともと、人間達の心には悪意や闇が潜んでた。運悪くそいつに捕まっちまう人間もたくさんいる。ぼくは別に、過去の人間達に含むところは何も無い。たまには情け心も発揮するよ。……それもまた、一興……』
『きまぐれに人を助けてみたりするのね。たまには』
『情けは人のためならずってね。ときには善意の天使も演じてみるさ。ぼくは退屈だからね……』
そして遙かに遠い異世界の『もう一つの月』が歌うように言う。
『眠れ眠れ愛し子よ。運命の分岐点で過去は書き換えられた。どうせ、どの道を通ったとしても行き着くところは、そう変わりはしないのさ』