第5章 その8 きっかけは赤信号と黒いワゴン車(修正)
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アエリア女神様といる《魂の座》に現れた、黒の魔法使いカルナック様は、ここでは皆、魂の姿になるのだと言った。
どういうことだか、わからない。
カルナック様に最初に出会ったときも、神々しいくらい美しい人だなって思った。
人間っていうより精霊様みたいで、男性なのか女性なのか、どっちなのかしらって、わからなかったんだけど。
魔法使いたちは、みんな、裾の長いゆったりしたローブをまとっているから、服装だけで性別を判断するのは難しい。
『ところでカルナック。あなたにしては、彼女への態度が、他の人に対するより厳しいんじゃない? どうしてなの』
アエリア女神様は、あたしを庇うように抱きしめてくれていた。
『ふぅん。そう見える? そんなことはないよと言うべきだろうが……私は博愛主義者じゃないし人格者でもない。ただ、長く生きているだけさ』
カルナック様は、かすかなため息をついた。
どう表現したらいいのか。
とても、痛ましい…つらそうな表情だった。
『きっかけは赤信号と黒いワゴン車だった』
「え?」
『ここセレナンから遙かに遠く時と空間を隔てた異世界があった。白き太陽ソリスに照らされていた滅び去った世界。西暦20××年。ニホンという国。東京、吉祥寺という街があった。現在のクリスティーナ・アイーダには関係ないが、相田紗耶香、きみはよく知っているだろう?』
そこは、あたしが高校2年で自殺未遂をするまで、住んでいた街だ。
『クリスマスの近いある日。歩行者が大勢いた歩道に、赤信号を無視して黒いワゴンRが突っ込んだ』
カルナック様は、感情を押し隠した声で話しはじめた。
『何人も死んでもおかしくなかった。ところが、その中に居た男子高校生が、他の人を庇ったために、死者は、彼一人だけだった』
『ほどなく犯人は逮捕された。高校2年の娘と二人暮らしの女性だ。大手の芸能プロダクションに入ったばかりの娘がマンションの屋上から飛び降り自殺したために自暴自棄になって事件を起こしたのだと報道された。おまけに彼女には余罪があった。娘の親友を車で轢き殺した。娘の友人を殺そうとして車をぶつけ、重傷を負わせた』
「……ママ……!?」
でもおかしい。あたしは死んでいない。飛び降りたけど、後遺症の残る怪我をしたけど、生き延びた。
『彼女の知人が直接彼女から聞いた話では、少し違う。娘が死んで絶望していた彼女に、闇の中から、なにものかが囁いた。娘さんを生き返らせてあげるよ。そのかわりに二人以上の人間を殺して、生け贄にしてくれれば、と。神か悪魔か、または、そのどれでもない存在が、凶行をそそのかしたのだ』
『ねえカルナック。わたし、そういう悪辣な存在に、心当たりがあるのだけれど』
アエリア様はそう言って、あたしを抱きしめ、ずっと背中を撫でていてくれる。
安心させてくれる。
『奇遇だな。私もだ』
皮肉を帯びて、カルナック様は凄惨な笑みを浮かべた。
『いつまでも成長しない嬰児のような、真月の女神の鬼子。セラニス』
「せらにす……?」
あたし、アイーダにとっては初めて耳にする名前だ。カルナック様の口調では、ひどく邪悪なもののような感じを受ける。
『この世界の《魔の月》セラニス・アレム・ダル。あれは地上に影を落とすのが好きなのだ。人間を憎悪しているくせに、無視することもできずに、好んでヒトの歴史に干渉する。時空を越えるすべをいつの間にやら得たとしても不思議は無い。……あるいは、現在のそれではなく、未来の「存在」なのかもしれないが』
さらに深い、ため息。
『事件はまだ終わらない。拘置所で彼女は自殺した。一人しか殺せなかったから娘は生き返らない。だから自分の命を生け贄に捧げると、遺書をのこして』
「そんな……!」
あたしは思わず叫んだ。
「ママは、そんなことするわけない! あたしを愛してなんか! あたしはただの道具だったのよ!」
『そして相田紗耶香の遺体は消滅した。運命が書き換わったのだ。相田紗耶香はいなくなったが、父親に引き取られ名前を変え、生き延びることができた。そうだろう? きみの母親のしたことは決して赦されることではない。だが、きみのために殺人を犯し、自分の命まで差し出した。きみはその事実を受け入れなければならない。きみが望んだことではなくとも、彼女はきみを愛していた。どんなに歪んでいても』
「……ママ……」
どうしたらいいのかわからない。
あたしのために犯した罪?
あたしは、つぐなうべきなの?
どうやって?
こんな、あたしなんかが……つぐなえるようなことじゃない。
なにも、できるはずはない。
『アイーダ、アイーダ。わたしがいるわ。あなたたち人間を幸せにするために、わたしたち女神がいるの』
アエリア様は、ずっと、あたしを抱きしめていてくれた。
そうして、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
カルナック様が、手をのばして、あたしの頬に触れた。
『……もう、そんなに、泣くな』
微笑みをたたえて。
『悪かった。きみに告げないほうが良かったな。……私は、ただ……この世界に転生したきみには、どうあっても幸福になってもらいたいのだ』
「どうして? あたしは罪深い……だから、この世界で苦しんでいるのではないの?」
『そうではない。この世界は、人間達を憎んではいない。人間の感情を理解はしていないようだが。その証拠に《世界の大いなる意思》が人間達とのインターフェースとして創り出した《女神》たちは、みな、人間の味方だ。きみたちに義務があるとすれば、幸福になることだ』
「幸福になる……義務?」
『そうだよ。もっとも、世界は、優しくすることと情報収集を少しばかり取り違えているようだけれどね』
『少しは苦労もしたほうが幸福を感じられると思っているみたいね。ときどき、苦難のほうが多すぎる人間も出てきたりして、わたしたちが苦労するのよ!』
カルナック様の苦笑と、アエリア様の憤慨するようすが、あたしの気持ちを、やわらげてくれた。
『では、相田紗耶香。クリスティーナ・アイーダ。そろそろ目覚める頃合いだ。お行き。きみを、この世界で受け入れてくれる、優しい家族のもとへ』
ふいに、身体が軽くなって、浮き上がっていくのが、わかった。
アエリア様が、付き添っていてくれる。
「待ってカルナック様! まだ、聞きたいことが」
あたしは遠ざかっていくカルナック様に手をのばした。
「もしかしたら、カルナック様は、前世のあたしの、知り合いだったの? それとも……」
『はずれだ』
カルナック様が、人の悪い笑みを浮かべたのが、わかった気がした。
『私は闇の魔女カオリだった』
それから後の、続く言葉は。
目覚めていくあたしの耳には届かなかった。
多分、幸いにも。
※
『きみの母親が車ではねた相手が、前世の私の……婚約者だったというだけさ』
そしてカルナックの言葉は、周囲に生じた闇に溶けていく。
『だから彼女を責められない。私だって同じことをした。充くんが生き返るなら。全世界の人間を引き替えにだって! それは今でも……リトルホークが……戻ってくるなら、私は!』
『でもそれを彼は望まないでしょ?』
銀の鈴を振るような声が響いて、カルナックの周りに集まりつつあった闇を払い、銀色の靄と青白い精霊火が包みこんでいく。
まず、ほっそりとした白い華奢な腕が現れて、カルナックを抱きしめる。
次に、色の白い、優しげな笑みをたたえた少女の美しい顔と、青みがかった銀色の長い髪とが。
『ラト・ナ・ルア姉さま。……少しだけ、弱気になった』
カルナックの表情が、やわらぐ。
『いいのよ。あたしは、あなたのために存在している精霊。あなたの姉よ? なんでも言って。弱音だって吐いていいの。それにね、きっと彼は帰ってくるわ。……しゃくだけど。しぶとい子だもの……信じて、待っていてあげなさいな』
『うん。待ってる』
精霊の育ての姉、ラト・ナ・ルアの胸に抱かれて、カルナックは呟いた。
幼い子どもを思わせる、あどけない表情で。
『ずっとずっと、まってるから……かえってきて……』