第5章 その6 紗耶香、西暦20××年(修正)
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『……精霊の《根源の泉水》も、根本的な解決にはならない』
『本来なら持って生まれたはずの《魔力核》が奪われているのだから』
『しかし一時しのぎにせよ《根源の泉水》で延命はできる』
『カルナックは精霊から《魔力核》を分け与えられたが』
『あれは特別だ。死んだはずの魂が輝きを放ち精霊火を魅了した。あのような者は、そうそういない』
『世界が人間を住まわせているのは己の知らぬ、もろい「生命体」の感情や行動を見聞きし情報を得たいがため。決して、人間に優しくはないのだから』
『この世界が誰のものか、人間達が忘れさえしなければ……』
※
闇の中。
聞こえてきた会話は、ひどく重要な、不穏な内容をはらんでいた。
けれども、見えないものをよく見ようとして目を凝らせば焦点が合わなくなるのにも似て、耳を澄ませば、かえって意識から遠ざかり聞こえなくなってしまう。
会話していたのは誰?
ここはどこ?
女神さまはいないの?
救済を求めて、あたしはあがく。
遙か上方に、かすかに見えた、眩い光に。
手をのばした。
その両手には、ぐるぐる巻きに、白い包帯が巻かれていた。
それは、七歳にしては身体の小さい幼児であるクリスタの手ではなかった。
あたしは、だれ?
※
「気がついたんだね、紗耶香」
見知らぬ白い部屋。
ベッドの上に、あたし、相田紗耶香は横たわっていた。
窓には遮光カーテンがひいてあって、まばゆい日差しを遮っている。
「……助かって、本当に……よかった」
中年の男性が、震える声を絞り出した。
このひとは、だれ?
ママはどこ?
そうか、あたし、助かっちゃったんだ……。
せっかく思い切ってマンションの屋上から飛び降りたのに。
全身打撲。
顔も損傷したって。どうでもいいけど。
「……あ、あ」
声がかすれて、きたない濁った声しか出なかったのが一番悲しかった。
これじゃ歌えないわ。
ああ、バカな紗耶香。
まだ……歌うなんて考えて。
親友の有栖がママの車にはねられて死んで。
ジョルジョも同じようにはねられて怪我をして。
生きていたくなかった。
なによりあたしがいたらママは、いつかきっとまた誰かを殺すかもしれない。
だから飛び降りたのに。
なんて罪深い。
で、このひとはだれ?
体中ばらばらになりそうな激痛に苛まれてベッドにいる、あたし、相田紗耶香のそばにいる、誰憚らずぼたぼた涙をこぼしている中年男性は?
「紗耶香。私が、おとうさんだよ」
そのひとは、言う。
日本人だけどアメリカ在住の、整形外科医だった。
あたしが飛び降り自殺を図ったことで、ママは後悔して、警察に自首した。
その前に、離婚していた夫に、連絡をとって。
生まれてこのかた存在していることさえ知らなかった父親は、アメリカに住んでいたのだと初めて聞いた。
優秀な整形外科医だった。
結婚しても自分の夢を諦められなかったママに、捨てられたのだ。
ママは、子どもは欲しかった。
自分の夢を託す道具として。
それだけだったのかどうか、わからないけど。可愛がってくれた。良い成績のときは自分のことのように喜んでくれて。
あたしの親権を元夫に譲り、刑務所に入ったママ。
いつか出てこられるのか、わからない。
自分のことを忘れて欲しい。連絡も取らないでくれ。そう言い残した。
※
そしてこの世から、相田紗耶香という人間は、消えた。
あたしは父親に引き取られ、名前を変え、やり直すことになった。
アメリカ、ニューヨークに移住して。
声楽をやりたい。けど歌えたらストリートでも何でもいい。
何かをやりたい。
この世界に、生きていた痕跡を残したいのだ。
たとえ、ほんの微かな、かすり傷でも。