閑話 (四年後) ある日の魔導師養成学部(3)改正
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転移陣を通る時、不思議な現象が起こることがある。
アイリスが出会ったセレナンの女神スゥエによれば、転移陣を通過するときには、通常の空間ではないところを通るのだという。
だから場合によっては女神の声が届いたり、自分が前世の姿になっていたりすることもある。
これは魔力が多い者に限った現象のようだ。
(ああ、また)
今の、十歳のものではない手足が目に入った。
あくまで自分の視点だから全身を見ることはないけれど。
十五歳の、月宮有栖だったときの身体だ。日本人の肌色と、黒い髪。
前方にいるのは十二歳のマクシミリアンのはずだけれど、そこにいるのは、癖の強い短い黒髪、日本人の少年だ。高校生くらい。
きれいな顔だ。美少年タイプね、と有栖であるアイリスは思う。エステリオ・アウルの前世の姿に比べると、小柄なようだ。
彼は振り向いて、屈託のない笑顔を向ける。
マクシミリアンの前世のことを、いつか聞いてみたいと、アイリスは思うのだった。
そして、カルナック師のことを。
※
転移陣を出ると、ふわっと身体が浮いた。
抱き上げられたのだ。
「会いたかった! アイリス」
「もう! アウルどうしたの。一日会わなかっただけじゃない」
抱きすくめているのは、アイリスの許婚のエステリオ・アウル。
二十四歳なのだが魔法使いは『覚者』と呼ばれる一人前の魔法使いとなった段階で、外見の年齢に変化がなくなるため、見た目では二十歳のときと変わらない。
「アイリスが学校に入ってから、いつも心配で心配で。誰かがきみを狙っているんじゃないかって」
「はいはい。叔父さま、落ち着いて。わたしは無事。ここにいるわ」
許婚になってからもう四年。アイリスの方は倦怠期ではないけれど少し慣れてきて、落ち着いている。
いまだに疑心暗鬼にかられるのはアウルの悪い癖なのだ。
「……うん」
「そろそろ下ろして?」
「うん」
しだいに冷静さを取り戻して、というよりおとなしくなって、エステリオ・アウルは、アイリスを床に下ろした。
アイリスは、部屋の中央に走って行く。
研究室という名の、カルナック師の休憩所である、そこには。
大きな机が二つ。
椅子が十脚ほどあるが部屋の片隅に積み上げて片付けてある。
部屋の三方の壁に造り付けられた、天井まで届く大きな書架。
簡易ベッド一つと、長椅子が二つ。小ぶりな書き物机、何に使うのか不明な、リンゴが詰まっていそうな木箱がいくつか。
「すまないねアイリス嬢。終末の帰宅日以外は、きみに一日一回しか会えないというのでアウルが暴走ぎみで。相当たまって……いやいや、婚約者の心のケアも、しょうがないと思って付き合ってやってくれないか。きみの体調管理は、必要なことだしね」
カルナック師は優雅に長椅子に腰掛けて本をひもといており、傍らにはラト・ナ・ルアがぴったり寄り添っている。
反対側にはマクシミリアンが座っていたが、所在なげに身を縮めていた。
「カルナック様、わたしは護衛としてアイリス嬢の近くにいたほうがいいのでは」
「名前で呼べと言っただろう。いつになったら覚えるのかな?」
「はあ。ここではいいのですが教室では……他の生徒に、睨まれます」
「そうか。では外でも、こうしていてもらおう。マクシミリアンも、こうやって常に私の側にいれば、魔力の補給役だなと思われるだろうからな。それで風当たりも弱まるさ」
「はい。外でも、そうします。カルナック」
マクシミリアンは、幼い日に瀕死の彼の命を救ったカルナックただ一人に剣を捧げた、騎士だから。
たとえカルナックに心から愛する存在がいても。マクシミリアンが忠実な騎士で在り続けることは、変わりの無い真実だ。
そしてカルナック師の座るソファの両側には、メイド服の女性が二人立っていた。
右側には、プラチナブロンドに緑の目をした、抜けるように白い肌の小柄な少女。十六歳ほどだろう。
左側には、黒髪に黒い目、ミルクティー色の肌をした背の高い美女が佇んでいる。
「アウル。彼女をここへ連れてきなさい」
師の求めに従って、アウルは許婚のアイリスをカルナックの座るソファの近くに抱き上げて運んで来た。
「叔父さま、アイリスは自分で歩けるわ」
「だめだ。せっかく、ここではこうやって一緒にいられるのだからね」
大事にされているのは確かなので、アイリスもそれ以上は抗わない。
「そこのベッドへ寝かせて。ああ、アウル? そのベッドは私のだから、けしからぬ行為は慎むように」
「しませんよ!」
焦った様子でアウルはアイリスをベッドにそっと横たえ、引き下がる。
「ティーレ、リドラ」
「はーい」
「お呼びですかぁ」
師の呼び出しを待ち構えていた二人のメイドが、すぐさまやってきた。
「アイリス嬢の体調と魔力を記録するように」
「了解です」
「外部からのアクセスは調べますか?」
「すぐにわかる範囲でいい。学舎全体へのハックは、ファイアーウォールがやっているからな」
「了解。アイリスちゃん、力を抜いて、目を閉じてていいよ」
プラチナブロンドの少女がアイリスの胸の上に手をかざす。彼女が、魔力の痕跡を探るのだ。
国内どころか大陸全土を探してもアイリス以上の魔力の持ち主は、カルナックしかいないだろう。それほどの人材だからこそ、魔導師協会は用心に用心を重ねてアイリスを守っているのだ。
「はい。ティーレさん、リドラさん。今日もよろしくお願いします」
「それにしても、あれから四年か。大きくなったわね~。なんだか感慨深いわ。あの事件があったから、わたしたちはこうやってアイリスちゃんの側にいるわけだし」
ティーレの反対側には黒髪の美女、リドラが立っていた。ティーレの魔力探査を補い、記録を取る役割分担だ。
「お二人には、本当におせわになりました」
「あの小さかったアイリスちゃんがねえ。いや、ま、今でも、十歳か。まだこれからだけどね。魔法使いになるには」
「少しは飛び級をさせようかな?」
「カルナック様。わたし、このままがいいです。せっかく仲良くなったお友達もいるし、別れるのはつらいです」
「そうか。同じ部屋のナタリーと、クリスティーナか。クリスは飛び級できるがナタリーは難しいな。このまま、ゆっくり学ぶのも、悪くはないか」
カルナックは考え込む。
「そうだな。一年や二年、アウルも待てるだろう」
「……はい、師匠の仰せならば」
アウルは一瞬、不満を顔に浮かべたが、すぐに思い直して、腕を組んで胸の前まで上げ、師匠への礼の形をとった。
「魔力探査終わりました。異常はありません」
「外部からのハッキングも見られません」
「ありがとうございました」
リドラとティーレに支えられて、アイリスはベッドから床に飛び降りる。
「ちょっと待ってね」
リドラのしなやかな手がアイリスの制服を撫で、服にできた皺をきれいにのばし、乱れた黄金の絹糸のような髪を梳いて整えた。
「ありがとう。リドラさんは、やっぱり仙女さまみたい」
礼を言うアイリスをぎゅっと抱きしめ、リドラは少女の髪を撫でる。
「ほんとに可愛い! アウルにはもったいないわよね~」
「やめてくださいよリディ先輩! わたしは今でも我慢の限界に」
焦るアウルは、ティーレに背中をバシッと叩かれた。
「阿呆! やっぱりバカアウルだな! 許婚だろ、信じて待てるくらいの器量はないのか。だいたい、こんなにも、婚約の誓約でおまえの魔力に身体中を包まれているアイリス嬢に、誰が手を出せるんだ」
「ですが先輩、まだ魔力を見る目を養っていない学生だったら、わかりませんよ」
「はあ!? まだそんなことを言うか、この馬鹿! アイリスが学生なんか相手にするわけないだろう。愛されてるとわかれ、ヘタレ!」
「あの、お二人とも、ありがたいですけどアウルにもう少し優しく……」
「何を見ているの? カルナック」
「ん?」
「今、とても幸せそうな顔をしているから」
ラト・ナ・ルアは、自分の方にカルナックの顔を向けさせて、唇に、優しく口づける。カルナックに生命と魔力を与えるための行為。
そのためだけではあり得ない、無償の好意をこめて。
「レフィス・トールとあたしがあなたを拾ったときは、こうじゃなかった。あたしたちはあなたを辛い思い出から解き放てなかった。精霊の森から連れ出したコマラパ老師の選択も、間違ってはいなかったのかしら」
「それは、どうかな」
カルナックは、ラト・ナ・ルアの身体を強く引き寄せた。
「私は、本当はいつでも、あの森に帰りたいと思っているんだよ」
「ほんとうに?」
水精石色の淡い瞳が、カルナックを見上げる。
「ああ、人の世の穢れもざわめきもない静かな精霊の森で、きみたちとまた心穏やかに過ごせたら……」
「それはきっと、ずいぶん遠い日ね。でも、待っているわ。あたしたち世界は変わらずに、あなたをいつまでも待ってる」