第4章 その61 エステリオ・アウルの受難(1)(修正)
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飾り気のない白い壁と天井が目に飛び込んできた。
彼がこの世界に生まれてからは見たことのない光景だが、記憶の中にはある。
前世で。21世紀の東京で。
ここは、病院だろうか?
自分はまだ、夢を見ているのだろうか。前世の夢を?
彼は一人でベッドに横たわっていた。
どのくらい眠っていたのだろう。
身じろぎをすると、体の節々が痛み、腹部には熱いような重いような、鈍痛が居座っている。
「……アイリス?」
ふと、横になったままの彼の口から、こぼれた言葉。
ふいに記憶の奔流が彼を呑み込む。
自分は、エステリオ・アウル・ティス・ラゼル。
この世界、セレナンの、エナンデリア大陸、中央に位置するエルレーン公国で、豪商として名高いラゼル家の次男として生まれた。
父から向けられる愛情は、恐ろしかった。
母親は、見ていたが助けてはくれず。
アウルを助け出したのはたった一人の兄、マウリシオだけ。
お披露目会。五歳の誕生日を祝うはずの晩餐会で誘拐されかけたアウルを案じて、魔導師協会の庇護を頼り、カルナック師に彼を預けた。
魔導師協会は実父ヒューゴーに対し事業から引退、権利を長男マウリシオに譲り渡すことを勧告し、エステリオ・アウルへの面会や接触を厳重に禁止した。
そのおかげで、エステリオ・アウルはこうして、まがりなりにも生きのびている。
それでも、いつも何か正体のわからないものに怯えていた気がする。
誰にも心を許せず、かろうじて信じられたのは兄マウリシオとカルナック師、コマラパ老師、エルナトほか、ほんの僅かな人間だけ。
自分はコマラパ老師のもとで魔術の研鑽だけに没頭して生きようと思っていた。
凍ったようなアウルの日々に変化が訪れたのは、マウリシオが結婚し、一人娘のアイリスが生まれたときからだった。
赤ん坊は、希望の虹を意味する、アイリスと名付けられた。
黄金の髪、エスメラルダのような深い緑の瞳、愛くるしい、きれいな子供だった。
無垢な、清浄な魔力に満ちた温かな眼差しが、アウルに注がれて。
無邪気に声をあげて笑い、小さな手を、無防備に、のばしてきたとき。
(この子を守りたい! 自分がかつて晒されたような悪意に遭わないように。この瞳が、絶望や悲しみに穢されないように)
その思いが、エステリオ・アウルの生きる力になった。
アイリスは、『先祖還り』だった。
月宮有栖。イリス・マクギリス。システム・イリスという、異なる時代を生きた記憶を併せ持っていた。
前世の、世界が滅びた記憶に苛まれて、悪夢を見るたびに、アウルに助けを求めた。
アイリスに頼られることが、エステリオ・アウルにとって、この上ない喜びだった。
いつしかその感情は、恋に変わっていったけれど。
彼はひたすら、その思いを自分の内に閉じ込めていた。
明るい未来のあるアイリスにふさわしいのは、彼ではないと。
諦めようとするほど、むしろ思いは深く、強くなる。
六歳の誕生日、喜ぶ顔が見たくて、月宮有栖の前世の誕生石を調べ、贈り物にしようと密かに造って用意しておいた指輪が、そのまま、婚約指輪になるなんてことは、思ってもみなかった僥倖だった。
カルナック師の計らいでエステリオ・アウルがアイリスの許婚に決まったのだ。
アイリスを守るために。
彼女の左手の薬指に指輪をはめるとき。心臓の鼓動が高鳴るのを自分でも感じて。身体じゅうが熱くなった。
『おじさま。ありがとう。嬉しい。指輪なんてもらったの、前世でも経験がなくて』
恥ずかしそうに頬を染めて。
喜んでくれた、アイリスの可愛い顔が浮かんできて。
胸の奥が、温かくなる。
物思いにふけっていたエステリオ・アウルは、我に返る。
お披露目の晩餐会は、どうなった?
事件は?
アイリスは?
自分はセラニス・アレム・ダルが降臨するための器として用意されたものだった。
セラニスはエステリオ・アウルの身体に降臨した。
心の隙をついて乗り移ったのではなかったか。
この身体がセラニスの道具になり果て、アイリスを傷つけるのを恐れて、自分は死のうとしたはずだった。
こんな部屋は、ラゼル家の館にはなかった。いや、いったい、今の自分はなにもので、ここはどこで。何がどうなっているのだろうか。
周囲を見回す。
どう見ても、病室のようだ。しかも個室。
彼の他には誰もいない。
清潔なリネンシーツで覆われた、寝心地のいいベッド。
薄い毛布を掛けられて彼は眠っていたのだが、腰のあたりに、ふと、違和感があった。
温かくて柔らかい、まるで小動物が、寄り添っているような。
「小動物!?」
予感があったわけではない。
何気なく毛布をめくってみただけだ。
そこには……。
「あ、おじさま。おはようございまふ……」
寝起きで少し舌が回らない感じの、アイリスが、いた。
小さな身体をアウルの腰のあたりに密着させて。
薄いリネンで、ひだをたっぷり取った、レースに飾られた寝間着を着ていた。
「おじさま、よかった、気がついたのね……」
うっとりとした表情で、寝ぼけたようにアウルの腹あたりに、まだほかほかの温かな身体を寄せて。ぴったりと、くっついてくる。
「うわああああああああああああああ!」
エステリオ・アウルの絶叫が、エルレーン公国立、魔術施療院の奥に設けられた、入院患者用の病室に響き渡った。