第4章 その60 キリコの悪夢
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どうしてこんなことになったんだろう。
最上霧湖は、深い闇の中で懊悩する。
この半年もの間、ずっと恋い焦がれていた彼女、月宮有栖と。言葉を交わすことができたら。名前を呼ぶことができたら。
彼女が自分の名前を呼んでくれたら。
手を取り合って、映画でも見て。
吉祥寺の井の頭公園を歩いて、池にいる人面魚を見たり動物園に行って巨大なウサギや大きな白鳥の羽ばたきに驚く彼女の笑顔を、見ていられたら。
それだけで、もう他に望むことなどないはずだった。
少しずつ、親しくなっていければ、満ち足りるはずだった。いつか恋人同士になって、その先のことも夢に見たりもした。
それなのに、自分は何をしているんだろう。
もしも今日、二人の共通の友人、相田紗耶香か、ジョルジョ・カロスがいれば。いてくれれば。
こんなことにはならなかった。
「月宮さん。このあと、予定ある?」
「え? あ、今日は紗耶香もレッスンの日だし。ジョルジョさんは?」
「用事があるって、さっき電話があった」
「……それじゃ、二人だけ? あの、あたし……帰ろうかな」
「帰らないで」
思わず彼女の腕を掴んだ。力が入りすぎた。
「痛い」
月宮有栖の表情に、かすかな怯えがはしった。
「あの、最上さん。ちょっと痛いです。離して……」
「いいから来て」
「最上さん! お願い、やめて! こんなこと、いや!」
「名字じゃない。名前で呼んで」
「霧湖さん……やめて、ください、お願い、もうやめて」
「キリコって。呼んで」
「霧湖……さ、ん。やめて……」
(どうしたの。やめるの。さんざん、毎日毎日、妄想していたのに)
悪意に満ちた囁きが、彼を煽り立てる。
気がつけば、有栖は彼の下に組み敷かれて、ベッドの中にいて。
白い肌に付けられた、赤い痕。彼の手がつけた、青痣。
彼女の制服は、脱がされたまま、乱れて部屋の床に散乱していた。
「おねがい……もう、ひどいことしないで」
月宮有栖の涙が見たいわけじゃなかった。
彼に怯えて、逃げようとする、そんなことに、したかったわけではなかった。
(そんなわけないよね? 健康な男性なら、願望はあるよね?)
最上霧湖の中で暴れる獣は。
飢えて、穢されて、愛する者を求めて、穢すことでしか満ちたりることはできない。
なぜなら、彼自身が、壊されるための贄だったから。
「ひどい、おじさま。なぜ? あたしは、おじさまが大好きなのに。どうして、痛いことするの?」
雷に打たれたように、キリコは衝撃に貫かれる。
血の海だった。
彼の手が床に押しつけていたのは、黄金の髪をした幼女。
まだ赤ん坊だった頃からずっと護り続けてきた、アイリスだったから。
白い絹地のドレスは、血に塗れて。小さな下着は、脱がされて血だまりに浸り。
今にも折れてしまいそうな華奢な足には、彼が力任せにつかんだ指の痕が、赤黒い痣となって残り。
「アイリス! 違う、わたしは」
こんなことをしたいと思っては……
「こんなの、もういや! 触らないで!」
彼の手から逃れようと抗い泣きじゃくるアイリスを見ているうちに、凶暴な衝動がわき上がる。
細い首に、手を掛ける。
ほんの少し。力を込めれば。
容易く、この幼女は、静かになるだろう。二度と動かなくなるだろう。
「アイリス……有栖。だめだ、わたしは、きみを殺してしまう!」
何よりも大切な存在を、魂を壊すまで、陵辱してしまう。
それを止めるには、凶行に及ぼうとする自分自身を、殺すしか、なかった。
死んでもいい。構わない。
有栖と、アイリスを、守るためなら。
※
「エステリオ・アウル! バカね、しっかりしなさい!」
突然、目映い光が差し込んだ。
彼の周囲から闇は消えて、目の前には、黄金の長い髪をした美しい女性が立っている。
瞳は淡いブルー。宝石のように光を宿している。
「いつまでそんな暗いところにいるつもりなの。早く目を覚まして、あたしのところに戻ってきて!」
「きみは」
「アイリスよ。白銀の聖女アイリス。あなたのイーリスよ。もっとも、こちらでも、そう呼ばれるようになるかどうかは、まだわからないけど」
アイリスと名乗った、美貌の成人女性は。
彼の頬を、思いっきり、叩いた。
「これは命令よ。あたしのところに帰ってきなさい!」
そして彼は、目を覚ました。
見たこともない、真白な天井の下で。