第4章 その59 精霊の愛し子(修正)
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生命の重大な危機にさらされていたエステリオ・アウルを、どうにか一命を取り留めるまでに回復させたカルナック師は、床に倒れ込み、大きく息を吐いた。
「これで、なんとかなるだろう」
「だいじょうぶカルナック! 早く回復しないと、ずいぶん疲れてるわ」
ラト・ナ・ルアは待ち構えていたかのようにカルナック師に抱きついた。
「あたしがキスして回復してあげる!」
「いやちょっと待てラト。私はまだアイリス嬢と話が」
「ちゅー」
「うわー!」
ものすごく困り果てているカルナック師の傍らで、弟子であるリドラは複雑な表情をしていた。何しろ非常時であるので。
どこから突っ込んでいいのか。それとも笑っていいのか。隙あらばレフィス・トールがカルナック師に迫るのを、眼福として見るべきなのか。
「なんて重い愛情なんだ。ラト・ナ・ルア。可憐だ。見た目はまさに、わたしの好きなタイプの美少女なんだが。しかし年齢が……惜しい、もう少しだけ幼ければ」
ヴィーア・マルファは悩むところがずれていた。
「ヴィー先生、下ろしてくださる?」
アイリスは、ずっと腕に抱いていてくれたヴィーア・マルファに頼み、床に下ろしてもらった。
命は取り留めたものの、まだ意識の戻らないアウルは、応援に駆けつけた魔導師協会本部の仲間たちの手で、本格的な治療のための施療院に運ばれようとしている。
「アウル! 目を覚まして。おねがい」
倒れたエステリオ・アウルにすがりついて名前を呼ぶアイリスを、痛ましそうに魔法使い達は取り巻き、見守っている。
彼らも会場に飛ばしていた『目』や『耳』によって、事件の詳細をつぶさに見ている。だから、アイリスと許婚のアウルを引き離すのを躊躇っているのだ。
「アイリスちゃん大丈夫よ。あたしのカルナックが、必ず助けてくれるから」
ラト・ナ・ルアはアイリスをそっと腕に抱き取った。
「良い子だから待ってて。カルナックはここに倒れている人たちを回復させたら、きっとアウルっていう子のことも、よく診てあげられるから」
ラト・ナ・ルアの身体は、柔らかくて温かい。
「カルナック様は、アウルを助けてくれる?」
アイリスは不安にかられてラト・ナ・ルアにすがる。
「恋する乙女の気持ちは、あたしもわかるつもりだから」
ラト・ナ・ルアはアイリスを抱きしめる。
温かくて優しくて、純粋な高エネルギー体のよう。とても気持ちの良い流れが巡っているのがアイリスにもわかるのだった。
「ありがとう」
あたたかい。
この時系列でのラト・ナ・ルアは生きている。
こんなにも無償の愛を、カルナック師が関わったというだけのアイリスにまで注いでくれる。
アイリスは思う。
(ぜったい。ぜったい、あたしは早く大きくなって、ものすごい偉大な魔法使いになって。ラト・ナ・ルアを、危険から守るんだわ。そうしないと)
そうしないと、世界は。
人間を、見捨てる。
今はかろうじて、カルナック師とラト・ナ・ルアやレフィス・トールとのつながりが、細い糸のように世界を綴り合わせているだけなのだ。
ラト・ナ・ルアに触れているだけでも膨大に流れ込むエネルギーの優しさ、暖かさに包まれて、アイリスはいつしかまどろみに落ちていった。
※
「カルナック師!」
「お師匠さま、ご無事ですか」
魔導師協会本部から応援に駆けつけた門下生たちは、カルナック師のもとへ駆けつけた。
カルナック師は、彼らに、適切な指示を出していく。
なんとか命をつなぐまでに回復したアウルを、治療の専門施設に運ぶようにとの指示も、その一つだ。
アウルを運びだそうとしたら、ヴィーア・マルファの腕の中でぐったりしていたはずのアイリスが、床に下ろして欲しいと願い、意識の戻らないアウルにすがりついた。
両親が一人娘アイリスのお披露目会のために用意した白絹のドレスは引き裂かれたようにボロボロに破れ、アウルがセラニスの凶行からアイリスを守ろうとして自らの喉を突いたために流した血で真っ赤に染まっている。
高価な宝石、ルーナリシアの小粒を鏤めた白銀のティアラも、丁寧に編み込みを施されていた黄金の糸のような髪も乱れたまま見る影もない。
それでも、そんなことはアイリスの念頭にないようだった。
自分のことは何も要求せず、アウルの名を呼び、泣きじゃくるアイリスを、そっと抱き上げたのは、ラト・ナ・ルアだった。
かつて幼いカルナックを拾って命を与え、育てた、精霊族の少女だ。
ラト・ナ・ルアは、きっとカルナックが治してくれるからとアイリスを宥め、胸に抱いているうちに、疲れ切っていたのであろうアイリスは、気を失ったように、深い眠りに落ちていった。
「この広間にいる人間を、最低限、命をつなぐまでに回復させる。彼らを運び出すのはそれからだ」
広域に作用する、大がかりな回復魔法。
膨大な魔力と体力を必要とする大魔法。
こんなことが可能なのは、大陸全土を探したとしても、確かにカルナック師しか、いなかっただろう。
カルナック師の、その大魔法によっても、死んだ人間の命を拾うことは不可能だった。
というのは、広間の中央の、爆発の跡地に倒れ伏していた、一人の老人が見つかったことである。先代のラゼル家当主、ヒューゴー老と呼ばれていた男だ。干物のようにひからびた死骸となっていた。
「彼はエステリオ・アウル誘拐事件、および、エルレーン公国各地で頻発していた児童誘拐、人身売買組織の首謀者だ。その先にまだ黒幕がいるのだろうが。それは、これからの捜査で暴き出す」
他に類を見ない大規模な魔法を発動させたために、さすがに気力も体力も限界まで使い果たしたカルナック師は、育ての親がわりの精霊族、ラト・ナ・ルアとレフィス・トールによって魔力の補給を受けながら、指示を続けた。
「アイリス嬢には悪いことをした。彼女は気がついていたかもしれない。アイリス嬢は囮。本当のターゲットは今回も、エステリオ・アウルだった。セラニス・アレム・ダル降臨のための空の器として。我々、魔導師協会が動いていたのは、エステリオ・アウルの誘拐事件が再び繰り返される可能性があったためだ、ということを」
「でも、あの子達は助かったわ」
カルナック師を抱きすくめながら、ラト・ナ・ルアは囁く。
「エステリオ・アウルも贄にはならなかった。アイリスも、セラニス・アレム・ダルの手から守った」
「私だけの力ではない。アイリスの中にいた前世、システム・イリスがいなかったら、どうにもならなかった」
「でも、防がれた。そのことは自分でも認めてあげなくちゃ。あなたはストイックすぎるの。だから、あたしたちには、甘えていいのよ。あたしたち精霊にだけは」
ラト・ナ・ルアは、うっとりと、カルナック師の頬に、髪に、キスを繰り返す。
それは魔力の補給のためではなく。
「忘れないで。精霊は、あたしたちは、あなたを愛している。あなたがいるから、人間にも手を貸してあげる。あたしたちの、愛し子」
精霊達は、無償の愛を、ただカルナック師の、一身に注ぐ。