第4章 その58 カルナック師、最大の弱点(修正)
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魔法使いの長カルナック師の最大の弱点は、人間を殺せないことだとコマラパ師は言っていた。
セラニス・アレム・ダルさえも、そう思っていた。
けれども、少し違うと、あたしは感じた。
カルナック師の本当の弱みは。
大切に思う家族だ。
ラト・ナ・ルアとレフィス・トールは、カルナック師が幼い頃、父親に殺されて捨てられていた彼を助けて、精霊の森に匿い、育てた。
過剰にさえ思える二人のスキンシップを見て、あたしは、それでカルナック師が救われたのだと悟った。
エステリオ・アウルと同じように、父親によって、忌名の神に捧げる空っぽな器にするために、魂を壊されるような虐待を受けて。
カルナックは父親に殺された。
その記憶を乗り越えるのは大変なことだったろう。
それを、精霊のラト・ナ・ルアとレフィス・トールが、溢れるような愛情と触れ合いを与えて育てて。今のようなカルナック師になったのだ。
カルナック師が人間とこの世界を愛しているのは、精霊たちに無償の愛情を注がれて育ったからだ。
全ては、精霊の。
ラト・ナ・ルアと、レフィス・トールから受けた愛情ゆえに。
そのラト・ナ・ルアを、失ったら。
人間が殺したら。
あまりにも恐ろしい想像に、あたしは凍り付いた。
その間もカルナック師はエステリオ・アウルの身体に手をかざしていた。
セラニスの足止めをするために、アウルを刺した剣をなかなか抜き取れなかったので、傷は深い。炎の熱で傷の周囲が焼けて……酷い状態なの。
有栖が意識の表に出てたら、絶対、すっごく泣いてるわ。
「傷は塞がっているが、血が足りないな。先に喉を突いているから、相当流れ出てしまっている。血を増やさないと……代謝を促進、活性化させて造血作用を促す」
血の気が失せたアウルの顔色はひどく悪い。
あたしはアウルに何もしてあげられない。
命を投げ出してまでセラニスの凶行からアイリスを守ろうとしてくれたアウルに。
(アウル!)
あたしの中の有栖が叫ぶ。有栖の意識が、とても強くなっていく。
「そうだ、アイリスっていうのは、この子なの?」
カルナック師の横に座って、エステリオ・アウルの治療を見守っていたラト・ナ・ルアが、ふと顔をあげた。
あたしを見て、笑顔になった。
「綺麗な子ね。それにすごい魔力! 精霊たちが気に入るわけだわ」
そして立ち上がり、ヴィー先生に抱っこされているあたしと、目線を合わせた。
「初めまして。アイリス。人間のお嬢さん。あたしはセレナン族のラト・ナ・ルア。カルナックの育ての親っていうか、姉みたいなものよ。でも彼のことが大好きなの。愛してるの。だから、取らないでね」
「もちろん! と、取らない……です。カルナック様も、ラトさんのこと大好きだとおもいます」
「アイリス嬢には誓い合った許婚がいるので、その心配はないと思います」
ヴィー先生にしては控えめに、口を挟んだ。
「そうなの? 小さいのに、もう婚約してるの。その人のこと、好き?」
「はい。カルナック様に、婚約を整えていただいたんです。カルナック様は、あたしと、アウルの、恩人です」
そう応えていて、急に、涙が出てきた。
「どうしたの? アイリスちゃん、だいじょうぶ?」
「アウルが……カルナック様が、治療してくださってて……あたしのために、すごい怪我をして、まだ、目が覚めないの。アウル……!」
その瞬間。
あたしの中に、有栖の意識が入り込んだ。
あたし、イリス・マクギリスは、有栖で。アイリスで。
渾然一体になったような、不思議な感じがした。
こんなの初めてだ。
「だいじょうぶよ。カルナックは、すっごい魔法使いなのよ。それに、あたしたち精霊族も、カルナックがいる限り、ずっと人間の味方をするわ。あなたの大切な人も、きっと助けてあげる」
「はい……ありが、ありがとう…ござい、まふ」
もう、涙でちゃんとしゃべれない。
「ところで、アイリスちゃんを抱っこしてる、あなたは?」
「はい。わたしはヴィーア・マルファ・アンティグアと申します。アイリス嬢の家庭教師をしています。精霊族の方にお会いするのは初めてです。どうぞよろしくお願いします」
なんてぎこちない言い方。ヴィー先生、緊張してる。
「アンティグア? エルレーン公の親戚の?」
「はい。親戚といっても、遠いのですが」
なんかすみません、と、ヴィー先生は長身の身体をちぢこめる。
「ふ~ん。いろいろなのね。正式な名前を教えてもらったから、あたしも名乗るわ。ラト・ナ・ルア・オムノ・エンバー。これはね、辺境の地に生じた最後の子供、ラト、という意味なの。セレナン族は、レフィスとあたしの後には、世界が生みだしていないから」
「世界が生み出すとは?」
ヴィー先生は、わずかに眉を上げる。かしこまっているけれども知識欲がふつふつ湧いているに違いない。
「あたしたちは、世界の手足というか、目や耳や、そんな、感覚器官みたいなもの。人間のように増えたりしないのよ。死ぬときは世界に溶けていくだけなの。魂は、精霊火になって、夢を見るのよ。生きていたときに愛していた世界を漂いながら」
「いや。死ぬなんて言わないで」
あたしは、涙が止まらなくて。
ドレスの裾で涙をぬぐう。これもうボロボロだし。
「泣かないで。死ぬといっても、人間の死ぬのとは少し違うのよ。アイリス、あなたは優しい子ね。ほら、これを見て」
ラト・ナ・ルアは、あたしに手のひらを差し出した。
そこには、大きさはウズラの卵みたいな、カラフルな色をした卵が四つ、載っていた。
緑や、水みたいな青、黄色、そして、土のような、茶色。
「あなたの守護精霊たちよ」
「ええっ! この卵が!?」
「あやうく消滅するところだったけれど、なんとか卵に戻すことで現世に留め置くことができたわ」
「助かるんですね?」
「ええ。あなたのそばにいれば」
「ありがとうございます!」
正直、言われたことの何分の一も理解できなかったけど。あたしは守護精霊たちを助けてくれたラト・ナ・ルアに、心からのお礼を言った。
「シルル! イルミナ! ディーネ! ジオ!」
呼びかけたけど、答えはなかった。
「あたしたちの階層まで降りてきて、アイリスを助けて欲しいって言うのよ。でもそんな深くまで潜って来て、原型を保っていられる精霊は、ない。この子達は世界ではないから」
「えっ、どういう……」
「かつて生きていた人間の魂なの。何か心残りがあって、この世界に還れなくて彷徨う魂たちは、精霊になる。聖霊というほうが合っているかな。そしていまを生きる人間の魂の輝きに引きつけられて、守護精霊になるの。そして一緒に満ち足りて世界に溶け込む。そしてまた、いつか生まれてくる。あなたたち『先祖還り』の誰かが言っていた『輪廻』の概念に似ている」
「死んで、また生まれ変わる?」
「そうよ。さあ、この卵を手にとって。卵まで戻ってしまったけど、アイリスちゃんが温めてあげて。孵化すれば妖精になるわ。また、はじめから育ててあげて。そのうち、以前の記憶も戻ってくるから」
「ありがとうございます。大切にします」
「この子たちが来なければ、あたしたち精霊は、カルナックの生命が危険になるまでは、人間のことにかかわるつもりは全くなかったんだからね」
やっぱりラト・ナ・ルアはカルナック様を育てた人なんだなあ。
ちょっと似てるもの。ものの言い方とか。ちょっとツンデレなところとか。
あたしは、妖精の卵を両手で包んだ。
冷たい。
温めてあげたい。
あたしの大切な、守護妖精たち。
また一緒に、お話ししたり、笑ったり、したい。
「ありがとう。ラト・ナ・ルア」
そしてあたしは、決意を新たにする。
絶対に、五十年後にラトが人間に殺されるなんてことは、防がなくてはいけない。
あたしは彼女に、精霊たちに、返すことなんてできないくらい、大きな恩がある。
このときの、あたし、アイリスは。
アイリスで、有栖で、イリス・マクギリスで、システム・イリスで。みんな渾然一体となって。同時に全てであるような感覚に。
いつか、あたしは。
統合した意識に、一人のアイリス・リデル・ティス・ラゼルに。なれるのだろうか。