第4章 その56 アンインストール(修正)
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現在、アイリスの中で目覚めている意識は、前世で地球、ニューヨークに生まれ、二十五歳まで生きた記憶を持つ、イリス・マクギリスである。
もう一つの前世である、東京生まれの日本人、月宮有栖は、十五歳で死んだことと、アイリスとして生まれ直した六歳児の経験に引きずられて、精神年齢はまだ幼い子供のようになっている。あまりひどい目には遭わせたくないとイリス・マクギリスは思っていた。
おそらくセラニス・アレム・ダルがヒューゴー老に仕掛けさせていたのだろう、広間の床下に設置してあった、禍々しい、赤い『円環呪』(と、セレナンのラト・ナ・ルアは呼んでいた)のせいで、人々は生命を搾り取られて倒れるし、イリス・マクギリスも、表に出ているアイリス(有栖)に危機が迫っても、これまでのように意識を交替することができなくなっていたのだ。
セラニス・アレム・ダルが、現実の地上世界に、エステリオ・アウルの身体に乗り移るように降臨するなんて。しかもアウルの意識を封じ込めて完全体で憑依するなんて。
本当に危ないところだった。
セラニスに乗っ取られたアウルの身体は、カルナック師に重傷を負わせ、その間に、アイリス……月宮有栖を、襲ったのだ。
どうすることもできずにイリス・マクギリスは気が狂いそうな焦燥を味わっていた。
いくら肉体はアウルのものだとしても。セラニスは、有栖に取り返しの付かない酷いことをするか、あげくに殺していただろう。
だからマクシミリアンが炎の剣でセラニスの腹部を刺し貫いたのは、強引な方法だったがその時点では、それ意外に手立てがなかった。
カルナック師は、自分が負傷させられても、どうしても、弟子であるエステリオ・アウルの身体を殺すことはできなかったのだから。
エステリオ・アウルの身体は、今、ゆっくりと、死へと向かっている。
セラニス・アレム・ダルがその身体を乗っ取っている限りは、炎の剣を抜いて身体を治療することは、できない。
そうすればセラニスが再び脅威になるだけなのだ。
(おねがい。アウルを助けて!)
アイリスの中で、有栖が泣いている。
「どうしたらいいの」
イリス・マクギリスもまた、どうすることもできない無力感を味わっていた。
一縷の望みを託せるとしたら、それは。
「……もしかしたら、システム・イリスなら」
アイリスのもう一つの前世。
地球の末期に、人類を守護、管理するシステムに宿った魂だった、そのときの記憶と経験、能力をもってすれば。
この事態を打破することが可能かも知れないと、イリス・マクギリスは、微かな希望を抱いていた。
※
「ぐううっっ!」
アウルの身体に宿ったセラニスが横倒しになったままで呻き、黒い血を吐き出した。
『セラニス。エネルギー吸収変換装置がセレナンに壊されたわ。もう生命エネルギーを効率よく吸収できないわね。その身体も、いつまでもつかしら』
感情を伺わせないクリアな声で、システム・イリスが宣言する。
「システム・イリス。ぼくと来てくれないの? きみがいれば、ぼくは人類への憎しみを忘れて善なる存在になれるのに」
セラニスは、すがるようにシステム・イリスの投影する姿を見上げる。
『欺瞞ね。自分自身をも欺してる』
セラニスの子供のような懇願を、システム・イリスは、あっさり切り捨てた。
『あなたのような欠陥プログラムには、何もできないわ。そうね、でも、もしも、壊れていない完全なファイルがどこかにあるのなら。そしたら考えてみてあげてもいいかも……もしも、の場合だけどね』
システム・イリスは、空中に、右手を掲げた。
スクロールして。
さらに、文字を描こうとしているように。
『安心して。人類管理システム全体のルート管理者権限は、どうやら未だ、このわたしにある。だから、セラニス。その壊れかけた肉体の器から解放してあげるわ。できるものなら、完全体で生まれ直して来なさい』
艶然と、微笑んで。
システム・イリスが、容赦なく、告げる。
『管理者として命ずる。壊れたファイルを削除。エイリアスの残滓に至るまで残さずに削除して、エステリオ・アウルの身体から、人類の生存補助プログラム、システム・セラニス・アレム・ダルを、完全削除する』
「待って! 待ってよイリス! システム・イリス!」
『アンインストール』
とたんにセラニスの、いやセラニス・アレム・ダルが入っていたエステリオ・アウルの身体が、銀色の輝きに包まれて空中に浮き上がる。
「……きみと……どこかで、また、会えたら……」
エステリオ・アウルの口から、再び大量の血が吐き出された。
身体を包んでいた銀色の輝きが消えていった。
地面に落ちたエステリオ・アウルの髪は、もとのレンガ色に戻っていた。
腹部には、炎の剣が刺さったままだ。
カルナック師が治療するしかないようだった。