第4章 その52 システム・イリスとセラニスの邂逅(修正)
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システム・イリス。
それはアイリスの魂の中にある、もう一つの前世の記憶。
だが、通常の人間とは少しばかり違う。
地球の末期、仮想データベースで終わりのない、ループし続ける仮初めの生を送っていた人類を見守っていた管理システムである。
開発者たちが人類管理システムに合成細胞からなる肉体を与えたとき、そこに、魂が宿った。
イリスと名付けられたシステムは、ルート管理権限を委ねられ、滅亡する世界の終焉を見届けることになったのだ。
『セラニスと話してみたいのです。カルナック様、セレナンの力場をお借りしたいのですけど。精霊火に満たされたここなら、魂の座と同じだから』
「ああ、好きにしてくれて構わない。アイリス、きみの思うとおりに」
『ありがとう、カルナック様。確かに、あたしも、アイリスでもあるわけですしね……』
カルナック師の腕に抱かれたアイリスの目の前に、その女性は現れた。
カルナックの傷から噴出した精霊火で満たされた空間に、投影された映像。
魂の姿だ。
年齢は二十代半ばくらい。
色の白い肌、形の良い柔らかな唇。髪の色と同じ金色の眉とまつげ、涼しげな目元、明るい緑の瞳は、ときおり淡いブルーに揺れる。
整った美しい顔にかかる黄金の髪は、緩やかに波打って腰まで届く。
アイリスが成長したら、まさにこのようになるのではないか。
「あたしだわ!」
イリス・マクギリスが声をあげた。
「システム・イリス。ほんとに、あたしとそっくりだったのね。システム・イリスの完全細胞に、あたしの魂が宿ったのは、もしかしたら、そのせいだったのかしら」
『そうね。そうかもしれないし、偶然かもしれない』
システム・イリスの投影像は、ふわりと笑って、歩み寄り、屈み込む。
カルナック師の作り出した炎の剣を、背面から突き立てられ、床に転がっている、アウルの肉体……その中に宿る、セラニス・アレム・ダルに。
「おまえ、だれ?」
床に倒れたまま、苦しげにセラニスは問いかける。
カルナック師の魔力で生成された炎の剣は、通常の物理攻撃も精霊による攻撃も躱してしまうセラニスにも、どうすることもできないようだ。
「その顔は……まさか? いや……そんな筈ないか」
セラニスの顔に、ほんの一瞬、希望の色が浮かんだ。
けれどそれはすぐに消える。
セラニスの戸惑いと困惑に構わず、イリスは彼に向かって語りかけた。
『あたしはイリス。ただの人類管理システムよ。システム・イリスと呼ばれていた』
「システム・イリス!? 本当に? いや、あり得ない。彼女は消滅したはずだ! 滅亡に瀕した地球に縛り付けられて、人間たちに見捨てられて!」
セラニスの顔が憎悪に歪む。
『地球の滅亡と共に滅びはしたけれど。見捨てられたわけじゃないわ。あなたの見方は一面的よ。プログラムが完成されていないでしょう?』
システム・イリスの、完成された美貌の面差しには、どんな感情もうかがえない。
「ぼくは人間に生み出されたわけじゃない。途中までは造られていたけど。人間が滅びたからね。そのあとはイル・リリヤが完成させたんだ。きみも、一緒に連れていきたかったのに! それはできないって母さんが言った。箱船の研究者たちも。だからぼくは、彼らを冷凍睡眠から覚まさなかった」
『研究者の思惑ともイル・リリヤとも関係ないわ。あたしのウェブは地磁気によって形成されていたから、地球と切り離すことはできなかった。それだけのことよ』
イリスの声に曇りはない。
確かにシステムだ。
感情というよけいなものに左右されない、的確な判断。
「それだけのこと? なぜ理不尽な命令を受け入れる? イリス、きみなら、きみだけは、ぼくをわかってくれると思ったのに。だから、きみに似た匂いのする魂を、探し続けてきたんだ!」
「月宮有栖のように?」
「そうだよ。彼女を見たとたんに、これだって思ったんだ。もう離しはしない。凍らせてずっとそばに置いておきたかった! だって人間は、すぐに老いて死ぬから」
懸命に訴える、セラニス。
一方、こちらはカルナック師と弟子たち。
「なるほどねえ。それで氷漬けか。考えましたね彼も」
「涼しそう~」
ヴィーア・マルファとリドラ・フェイは驚きを通り越して、麻痺しているかもしれなかった。どうでもいい点に突っ込んでしまう。
「それでアイリスに執着していたのか。だがセラニスの意識がいまだ子供であるとしても許されない。決して褒められたことではないよ。それに、はなはだ迷惑だ。もはや存在そのものが迷惑行為だ」
カルナックは憤慨していた。
「落ち着いて、カルナック様。興奮すると傷口から精霊火が漏れてしまいます」
マクシミリアンは案じていた。
カルナックの中にある精霊火の総量は果たしてどれほどかわからないが、大量に失ったら、どうなってしまうのか、不安が募るばかりだ。
「様は、やめろと」
「はい。カルナック。おれのレィディ」
マクシミリアンの顔から、不安が消えた。
カルナック師から名前を呼び捨てにしろと言われているのは、自分だけなのだ。
「マクシミリアンくん? 今、この場で、きみだけが幸せそうな表情をしているのよ。それでいいと思ってる?」
イリス・マクギリスは不機嫌だった。
アイリスのお気に入りのドレスは血まみれで大変なことになっているし。
会場ときたら壊滅的だし。
るいるいと倒れている人々を魔力で『診て』みれば、誰もが生命力を限界まで奪われている。死んではいないといっても、どうすればいいやら?
頭を抱えることばかりであった。
システム・イリスとセラニスは、会場の被害など気にも留めてはいなかったが。
『セラニス・アレム・ダル。あなた、人類の庇護者であるべきイル・リリヤのプログラムを改竄したわね? 自分の都合のいいようにイル・リリヤのシステムを操り人間世界の政治に介入している。管理システムとして、あってはならないことよ。あなたこそ、最大のバグだわ』
「そんなこと。人類なんてどうなったっていいじゃないか。システム・イリス。ねえ、もしもきみが、ぼくのそばに、ずっといてくれるなら、ぼくは人類の味方になってもいいんだよ?」
『それは提案? でも、あなたのプログラムは欠損だらけだわ。美しくない……』
システム・イリスは、眉をひそめた。
『それに、わたしはともかく、アイリスにはもう、許婚がいるから。あなたとは、一緒に行けない。通常の空間では、こうやって影を飛ばすのもままならないし』
「そっ! そんな!」
悲鳴のように叫んだ、次の瞬間。セラニスは大量の血を吐いた。腹部には炎の剣が刺さったままだ。
『あなたの肉体も限界だわ。それ以上、その器にとどまっていると死ぬことになる。機能停止した器から、うまく出ていけると思う? それとも、体験してみたいのかしら?』
「……それも、悪くない」
自嘲の響きを帯びて、セラニスは歪んだ笑みを浮かべる。
「きみも、一緒に連れて行く。アイリスの身体は、ぼくの肉体と、一種の契約を結んでいる。お互いに代理人だけどね。連れていく理由にはなる」
ふいにセラニスは身を起こし、システム・イリスの手を捕まえようとした。
だが、それは投影像にすぎないのだった。
虚しく、手は空をつかむ。
空間が、歪む。
高い金属音が空気を震わせ、切り裂く。
あらわになった土中に、まだ、禍々しい血のような巨大な円があり、脈動している。
それがうごめくたびに、空気がふるえ、近くにいる者の生命を搾り取る。
「困った装置だ。あれをなんとかしないと」
「魔導師協会本部に残っている人員と、国家警察が、じきに応援に来る予定ですが」
「いや、無駄だ。何人来ても、同じ結果になる。近づけば、あの装置に生命を吸い取られるのだ」
方策はないのか。
状況は手詰まりだった。
アウルの肉体もまた、着実に、緩慢な死へと向かっていた。
「このままではアウルも死ぬ」
「だめよ! そんなの、#有栖__ありす__#が泣くわ!」
それは困ると、イリス・マクギリスは抗議した。
「なんとかならないの!?」
詰め寄られたカルナック師は、困ったように、
「そうだな。あれに影響されないものは……人間ではない存在だ。私なら、近づいても生命を吸い取られることはないだろう。私は精霊火に動かされているのだから」
「だめです! あなたが行くなら、おれも」
マクシミリアンはカルナックに手を伸ばしたが、振り払われてしまう。
「それこそ、だめだ。人間である、きみは、あれに生命を吸い取られてしまう。ここで待っていてくれ」
「お師匠さま! またそんな無理を! 一人で!」
止めようとしたリドラの手を払って、カルナック師は、一人で立ち上がり、災厄の、禍々しい赤い円環に向かって、歩き出した。
そのときである。
広間の中央、土がむき出しになった部分に、現れた人物がいた。
十四、五歳ほどに見える一人の少女と、二十歳くらいの、一人の青年。
だが不思議なことに、近づく者すべての生命を搾り取る赤い円環のすぐ傍らに立ちながら、彼らは、なんの影響も受けていないようだった。
「人間に手を貸すのは気が進まないんだけどなあ」
少女はけだるそうに、長い銀色の髪をかきあげた。挑戦的な瞳は水精石色の光を溢れさせている。
「仕方ありませんよ、ラト」
同じく長い銀髪と水精石色の目をした美貌の青年が、肩をすくめる。
「あら、あなただって、いつもは人間に関わるなっていうくせに、レフィス」
「今回は身を挺して精霊界にやってきた精霊達に頼まれたんだ。カルナックも困っていることだし」
少女よりかなり背が高い、銀髪の青年が応えた。