第4章 その51 システム・イリスふたたび(修正)
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突然、セラニスの腹部に生えた、炎の剣。
マクシミリアンくんが、カルナック師からもらった剣を、セラニスの背中から突き刺したのだ。
セラニスの顔に浮かんだ、驚愕の表情。
一瞬の後に。
刹那に浮かんだ、「ああ、もうこれで」終わりにできると、思ったかのような、静かな表情。あたしを見て。優しく微笑んだ。
それは紛れもなくエステリオ・アウルの顔だった。
アウルが流した血だまりに、仰向けに横たえられたままの、あたしは。
放心していた。
空っぽになっていた。
アウル?
セラニス?
あたしは……あたしは、だれ?
腹部に刺さっている、炎がくすぶり続けている剣を目にして、顔をしかめたのは。
その表情は、再び、セラニスのものになっていた。
「なんだこれ!?」
子供のように、叫ぶ。
「油断大敵だぞ、セラニス。生物は、生殖行為と排泄の時には最も無防備になるものなのだ」
「師匠それ、今、言うことですか……デリカシーなさ過ぎですよ」
リドラさんに右肩を預け、支えられながら、カルナック師が近づいてきて、セラニスに突き刺した剣を握っているマクシミリアンを手招きする。
「そこはもういい。刺したままにして、こちらへおいで。きみにも力を借りたいんだ」
少し息が上がっている。
苦しそうだ。
精霊火の噴出は止まっていた。
「はい。お師匠さま」
「それもだめだ」
息を、とぎらせる。
「きみには、名前で呼べと言っただろう」
マクシミリアンは、ごくりと息を呑んだ。
「あの、でも、弟子の人たちでも、あなたの名前を呼んでいる人、他にいませんよね?」
「だって、きみは私の騎士だろう?」
「は、はい! カルナック」
「よろしい。手を」
差し出されたマクシミリアンの手を、カルナック師は、ゆっくりと握る。
「すまない。しばらくこのままで、いてくれ」
「はい」
マクシミリアンの顔は赤くなっている。
しだいに、彼の息が乱れ始めたのを見てとり、リドラさんは焦る。
「あの、師匠。もしかしてマクシミリアンくんから、今、魔力補給してます? それって魔力供給庫……みたいな?」
「少し、疲れただけだ。……ありがとう、マクシミリアン。それより、アイリスだ」
カルナック師は、セラニスに目をやった。
「なんだ、これ! 精霊なのに? エネルギー変換できない!」
アウルの身体に入っているセラニスが、うめいて、身体を折り曲げる。
「ここの床に造らせておいた変換装置は異常なく働いているのに」
「これは放置しておこう」
ヴィーに命じてセラニスの身体を押しやり、転がした。
バランスを保つのが難しくなっているのか、セラニスは容易く倒れ込んだ。背中には、炎の剣の束が突き出ている。
「アイリス」
カルナック師に、静かに名前を呼ばれて、あたしは、ようやく、目の焦点が合ってきたことに気づく。
「起こしてやりなさい。ヴィー」
「はいお師匠様。アイリス、もう大丈夫だよ」
ヴィー先生が両腕をさしのべて。アウルの流した血だまりの中からあたしをそっと引き起こした。
ぬちゃりとした音がして、血糊が剥がれていく。
ぞわぞわして気持ち悪い。
カルナック師があたしの頭を、そうっと、撫でた。
「アイリス。選択肢が二つある。一つは忘れること。アウルのことも。もう一つは、全てを克明に覚えておくことだ。アウルの生死に関わらず」
「お師匠、そんなの無理ですよ! 記憶しておくなんて!」
「アイリスには、いやなことを忘れさせてあげたいです」
リドラさんとヴィー先生は、あたしを庇ってくれる。その気持ちが、嬉しいです。
でも。でも、ね。
「……ありがとうございます」
それしか浮かばなかった。
「でも、あたし、何もかも忘れたくないです」
「そう言うと思っていたよ」
むしろ誇らしげに、カルナック師に、頭を撫でられた。
「私も全て覚えている。五百年経っても消えることはない。きみもそれを選ぶなら、なかなか辛いと、前もって言っておくが?」
「かまいません」
そのとき、どうやらこれまでショックで麻痺していたらしい、感覚が、ゆっくりと戻ってきた。
「……!」
あたしの身体がこわばったので察したのか、カルナック師が眉をひそめ、抱き寄せてくれた。
蘇ったのは、感触。
ぬるりとした液体にまみれた、大きな手が。足首をつかみ、しだいに上のほうに這い上がってくる、触覚が。
まるで今、進行しているかのように。
「あ……! あ、イヤ! やめて、触らないで!」
「アイリス。有栖」
名前を呼んで、カルナック師が、あたしの足に触れ、優しく包み込むように撫でる。すると、たった今まで感じていた、気持ち悪い感触が、嘘のように消えた。
「感覚を遮断する。その記憶は有害だ。……イリス・マクギリス嬢。そろそろ出てきてくれないか? アイリスにも、有栖にも、この状況は限界だ」
「あら、魔法使いの長からのご指命? 嬉しいわね」
アイリスの表情が、急に柔らかくなり、大人びて見える。
「好きで出てこなかったわけじゃないのよ。あの床下に仕掛けられてた気持ち悪い装置が原因だと思うけど、活動を邪魔されてたの。今では、カルナック様から漏れ出た精霊火が、そこら中に満ちているから。おかげで、妨害が無効になっているみたい」
「それなら不幸中の幸いだ」
「有栖。聞こえてるよね。あたしが受け持つから、しばらく休んでいなさい」
アイリスの表情が、引き締まる。
幼さが消え、瞳に溢れる魔力の青が、更に明るくなっていく。
柔らかな唇が開いて、紡いだ言葉は。
意外なものだった。
『……さっきから観察していたけれど。ずいぶんバグが多いのね。セラニス、あなたは、人類支援システムのはず。あなたの行動は致命的な齟齬を内包している。いったんファイルを完全削除し、バックアップデータから復帰することを推奨する』
このときアイリスの口から出たのはイリス・マクギリスの声ではなかった。クリアで、無機質とも思える、大人びた女性の声だった。
「システム・イリスが」
目を見張ったのは。
こちらは、イリス・マクギリス嬢の、声。
「驚いた。このごろは、あたしと完全に同化していると思っていたのに。システム・イリスが、あいつに興味を示してる。コンタクトを要求しているわ」