第4章 その50 凶刃(残酷な場面あり)(修正)
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その瞬間、ひらめいたのは、銀色の剣。
エステリオ・アウルの治療のために魔力をかなり消耗していたカルナック師の身体に、アウルの中に入ったセラニス・アレム・ダルが、今、自分の喉から抜き取られたばかりの銀の短剣を震った。
カルナック師の黒いローブと、纏っていた黒い長衣が、大きく切り裂かれた。
凶刃は肉までも届いただろう。
ただ、カルナック師の傷から噴き出るのは、血ではなく。
おびただしい数の、精霊火だった。
「師匠っ!」
リドラとヴィー、マクシミリアンは、倒れ込んだカルナック師をセラニスの凶刃から引きはがす。
けれど噴き出す精霊火の勢いが、止まらない。
「わかっていた筈だよね、カルナック。ぼくが、いまさら他の身体に移るなんて、本当のところは思ってなかったよね? せっかく完全体でインストールした依り童が、ここにあるのに。でも、それでもこの身体を治癒してくれるだろうと思ってた。だってそれが、きみの唯一にして最大の弱点だから。人間を殺せないということが。特に弟子だ。これほど目を掛けた人間を、死なせるはずはない。望み通り死なせてやったほうが、事態を解決に導くとしても」
セラニス・アレム・ダルは、楽しげに笑う。
今では髪はすっかり鮮やかな赤に、瞳は暗赤色に変わっている。
「離して!」
いくらもがいても、彼の腕は固く、あたしを抱きしめている。
「逃げられると思う? 無駄だよ、イーリス。そういえば二人だけの時の、この呼び方、アウルはすごく大事にしてたね」
「アウルの記憶まで覗いたの?」
「さっき身体の主導権を取り返した時にね。そうそう、この指輪のことも。知らなかっただろ、婚約が決まったのは今朝だ。それから晩餐会の始まる刻限までに婚約指輪を用意するなんて無理だろう。不思議じゃなかったかい」
「なぜ、そんなことを聞くの」
セラニスの意図がわからない。
でも言われてみれば、あたしは生まれて初めて指輪なんてものを贈ってもらったから嬉しくて舞い上がってて、そこまで考えていなかったのは事実だ。
「これはね。もともとエステリオ・アウルが、きみの六歳の誕生日の贈り物にするつもりで造っていたんだよ。お披露目の、今日という日のために」
「えっ! そ、そんなこと、アウルは一言も……」
「彼はきみへの邪な欲望を理性で抑えつけながら、その一方で、指輪なんか造っていたわけだ。その意味するところは、束縛だ。きみを他の男に渡したくなかった。その欲望が、原動力さ。笑っちゃうよね」
「笑わないで! ひどい」
「ひどい? それは、これからすることだよ」
セラニスの顔から笑みが消えた。
冷酷な超越者を思わせる残忍さ。そういうものがあるなら、そのときの彼の表情だったと思う。
いきなり、あたしは床に引き倒されていた。
床に広がっているエステリオ・アウルの血だまりが、そのまま、あたしを捕らえる罠になった。鮮血の状態から、粘性を帯びはじめた血糊が、ドレスの背面に染みこんで、あたしの動きを止める。
セラニスは、身動きを止められたあたしの上にのしかかってきた。
「エステリオ・アウルのはただの妄想だったけど。実際にやってみたら、どう感じるんだろうね? 試してみようか、月宮有栖? アイリス?」
「何をするつもりだっ」
「やめろっ!」
叫んだのはヴィー先生とマクシミリアン。
二人とも、まっとうすぎるくらいの正義漢だ。
セラニスの意図を、カルナック師もリドラさんも察しているだろう。
カルナック師の傷はどれくらい深いのだろう。
噴き出す精霊火が、あたりいちめんを青白い光に包み込んで、目映いほど。
そして、あたしは。
いやでも、セラニスが何をしようとしているのかを、知らされる。
血だまりに埋められ。
セラニスは、あたしのドレスの裾に手を入れて、足を開かせた。
下履きも、はぎ取られる。
彼の指が触れたあとには、血の手形が残る。
ドレスの胸元に。足の間に。
「いや! アウル!」
「おかしなこと言うね、アイリス。きみのアウルは、ここにいるだろ?」
きょとんとして、セラニスは瞬きをした。
あたしを、しっかりと体重で抑えこんだままで。
仰向けに押さえつけられた、あたしは。
成人男性は、こんなに大きかったのかと思い知る。
それに比べてあたしは、なんて小さい。なんて無力なんだろう。
いつもは守護精霊たちがいて危険から守ってくれたのに、お爺さまが広間で奇妙な爆発を起こしてから、誰の姿も見えないし、呼びかけにも応えてくれない。まさか、消えてしまったの?
身体が、動かない。
動かしたい、逃げたいと必死に思っているのに。
麻痺しているとかじゃない。
どうしても、動かない。
圧倒的な力の差に。絶望する。
「ずいぶんおとなしくなったね、月宮有栖? さっきまでうるさく何か叫んでいたのに。抵抗もしないの? 無駄だとわかったのかな」
あたしが、今、押さえつけられているように。
四歳の誕生日に、エステリオ・アウルは誘拐されて売られて、半年もの間、虐待を受け続けた。
あたしが感じている絶望感を。
アウルは、どれだけ深く、身にしみて感じていたのか。
それなのに、あたし、何を言ってたんだろう。
アウルのことは何でも知ってるなんて。
思い上がりもいいところだ。
ごめんなさい。アウル。ごめんなさい。命をかけて、愛してるって言ってくれたのに。あたしは、まだ、あなたに何も返していない。
せめてもっと。大好きだって、あたしも愛してるって、言っておけばよかった。
涙だけが、溢れてこぼれた。
「まあいいや。へたに抵抗されたら、うっかり殺しちゃうかもしれないしね。それはつまらない。そうだ、月宮有栖。この身体は、アウルのだから。だから、安心して身をゆだねるといいよ」
自分勝手な理屈で、セラニスは、動かしているのは自分だけど、肉体はアウルのものなのだからとあたしに言い聞かせるように伝えてきた。
まるでわけがわからない。
「でもヘンだなあ。人間の男って、こういうときなんか身体の状態が変わるんだよね。それでなんか楽しいことやってるよね。でも、どうしたのかな。全然、楽しくなってこないなあ……胸が、痛いだけだ」
セラニスは、つまらなそうに嘆息する。
薬指にはめた指輪には注意を払わないけれど。それが、アイリスの指輪と共に、銀色の光を放っているのに気づいたとしても、ささいなことと、気にはとめないだろう。
「楽しくならないし、面倒になってきた。もう、殺しちゃおうかな?」
それはむしろ、あたしにとっては、救いのように響いた。
まだ、彼は、血糊の手形をあたしのドレスや足につけただけ。
本当のエステリオ・アウルとだったら、あたしはいつか、結婚したいと願ってた。けれど、アウルの身体に入ったセラニスには、どこに触れさせるのもいやだ。
いっそ、殺してくれるなら、そのほうが、ずっとずっとましだ。
「諦めるな、アイリス」
ふいに、力強い声が響いた。
それと同時に。セラニスの腹部に、剣が生えた。
赤く燃えてくすぶって、煙をあげる、刀身が。
あれは。
マクシミリアンくんの、炎の剣!?
彼がカルナック師から頂いた。炎の精霊の宿る剣が。
セラニスを後ろから刺し貫いていた。
諦めるなと言ったのは、カルナック様の声だったのか。
「なっ! なんだこれ?」
遊びを邪魔された子供のように、セラニスは叫んで、目を丸くした。
そんな子供っぽい表情、ほんとのエステリオ・アウルなら、しないです!