第4章 その49 アウルの傷口(修正)
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目の前が真っ赤に染まった。
あたしは、あたしの、アウルは。
エステリオ・アウルの手でテーブルに載せられていたあたしは、身を乗り出して床を見た。
どくどくと流れ出る鮮血が床に広がっていく。
血の海に、アウルは身を横たえて。
ぴくりとも動かない。
叫び声が出た。
声になっていたかどうかわからないけど。
夢中でテーブルから飛び降りた。テーブルから床は、あたしの身体にはかなり高くて、足が痛かったけど、どうでもいい。
「アウル!」
あたしは彼に駆け寄って、起こそうとして、止められた。
止めたのは、リドラさんだった。
「動かすな。剣が貫通してる。動いても抜けても出血多量で死ぬ」
低い声だった。
険しい顔。初めて見る表情だ。
ヴィー先生も、マクシミリアンくんも、そばにやってきた。二人とも、無言だ。
マクシミリアンくんは、ずっと、カルナック様の姿を目で追っている。すごく心配そうな顔をして。
マクシミリアンくんも……さっき、セラニスの口から、カルナック師の過去のことを、聞いてしまったのだ。
いったい彼は今、どんな気持ちでいるのだろう。
だって、わかるもの。カルナック様のこと、大好きだって。
あんなこと聞かされて。どんなに苦しいか。
「無茶なことをしたな。アウル」
それまでずっと、感情をあらわにしなかったカルナック師が、激しい動揺を浮かべて、アウルのそばに屈み込んだ。血だまりに濡れるのも厭わずに。
血がどんどん流れ出るにつれて、鮮血の赤に染まっていたアウルの髪から色が抜けて。しだいに、もとの、レンガみたいな褐色の髪に戻っていく。
「髪の毛が、もとの色に……?」
もしかして血と一緒にセラニスが出ていったのかと、あたしはつかの間、希望を抱く。
「だがセラニス・アレム・ダルがこの場からいなくなったわけではない。おそらく、意識がない、乗り移れる器を探しているはず。リドラ、ヴィー。異変があればすぐに知らせろ」
指示してから、カルナック師はアウルの身体に手をかけ、あたしに言った。
「アイリス。ひどい傷だ。見るな。忘れられなくなるぞ」
「いや! 構わないわ、傷を見せて」
あたしはかぶりを振る。
かたときもアウルから離れたくない。
「そうか。覚悟のある子は好きだよ」
カルナック師が、あたしの髪を撫でて、それからアウルを仰向けにさせる。
息を呑んだ。
喉に、深々と短剣が突き刺さっている。
「これを抜けばもっと血が出る。気をつけて」
カルナック師がアウルの傷口に手をかざすと、青白い光の球体が集まってくる。
リドラさんが、緊張した声で問う。
「お師匠さま。それは精霊火……ですよね?」
その問いには、畏れの色がにじむ。
「傷を塞ぐためにセレナンの力を借りる。精霊火は後で外に出すが……傷の深さによっては、しばらくは抜けないだろうな」
ごくりと、喉が鳴った。
ああ、あたし、緊張してる。
生ぬるい、いやな汗が額や首筋や背中をつたう。
精霊火は、精霊の魂。
それに人が触れるのは、普通にはできることではない。
あたしは何度もセレナンの女神、スゥエさまに助けてもらったから、むしろ親しみがあるくらいなのだけれど。
同じ『先祖還り』のリドラさんでも、精霊火には抵抗があるのだろうか。
アウルの傷口に精霊火が群がるように集まって、吸い込まれていく。
こ、これは……確かに、神秘的というより、少し怖いかも。
人間以外の存在が身体の中に入るのだ。
精霊火に覆われた喉から、カルナック師が、短剣を引き抜いた。
とたんに鮮血が噴き出すかと思ったけれど、精霊火が覆っているのがもう一つの皮膚のようになって傷を塞いでいると、カルナック師が言う。
「精霊火で塞いでいる今のうちに傷口を治癒させる。アイリス、エステリオ・アウルの身体に触れていなさい。どこでもいい。セラニスが奪ったのか、生命力がほぼ失われている。このままでは死ぬ。ここにいる者の中では、きみの魔力が一番適合する」
もちろん躊躇わなかった。
あたしはエステリオ・アウルの頬に顔を寄せて、口づける。
彼の心臓の鼓動を感じた。
すると、彼の手が、ゆっくりと動いて。
あたしの頬に触れた。
その唇が、開く。
「カルナック様! アウルがなにか話そうとしてます」
けれど声は出ない。
喉に穴が開いているのだから。
「待って! お師匠さま! エステリオ・アウルが、『治すな』と言ってる!」
リドラさんが声を上げた。ティーレと組んでいるだけあって、彼女も唇の動きを読めるらしい。
「もう遅い!」
カルナック師が舌打ちする。
あたしを抱きしめるエステリオ・アウルの腕に、急に強い力がこもった。
「つかまえた。月宮有栖。アイリス。……わたしの、イーリス」
にやりと笑う。
その髪が、再び、鮮血の赤に染まった。