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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪夢でもハッピーでも世界なんて終われ

作者: よーへい

 1

 クリスマスを控えた、十二月のはじめの寒い金曜日の夕暮れどき、細身で髪の毛が藍色の青年が一人、魂取駅前の歩道橋のはじっこに立ち、手すりに寄りかかりながら通学カバンを開けた。

 守矢もりや 良平りょうへいはモスグリーン色をした鞄から、水が入ったペットボトルをとりだし、家から汲んできた水道水で胃薬『パロンシン』を飲む。

――こいつも、職業病、っていえるのかな。

 疲れた顔でため息をつき、鞄にペットボトルをしまう。目をつむり、右手で胃の辺りを押さえ、痛みが治まるのを待つ。すると、すぐ近くから、良平を呼んでいるような声が聞こえた。

「すみません、おじさん……さっき、なにをしてたんですか?」

 どきりとして、良平は目を開け、周囲をみまわす。じっさい、彼の顔はふけていて、『おじさん』に見えないこともない。しかし、歩道橋の石畳のうえに、ほかの人影はみあたらない。

 そもそも、死刑執行人には、他人から無視される能力があるのに、僕が急に話しかけられるなんて、変だもんな――そうか。

「気のせいだな。さすがにまだ、おじさんはないだろう。いや……まずいな。ストレスが強すぎて、ついに幻聴が聞こえるようになったのか?」

「気のせいですませないでください」

 幻聴らしい声に否定された。「おじさん、下をむいて。そう……うら若い乙女が立ってますから」と、丁寧な言葉づかいをする幻聴だった。

「はあ、うら若い乙女、ですか」と、良平は気の乗らない返事をして、いわれたとおり下を向く。

 少女がひとり、良平の足もとに立ち、こちらを見あげていた。

 身長は、百三十センチ程度だろう、良平の胸の高さに少女の小さな顔がある。腰まで伸ばして紫色のリボンで束ねた黒髪と、顔の割に大きな両目がしずかにひかっている。近くに住んでいる、小学校高学年の子だろうか。

 ――子供だから、『無視される』能力が適用されない、ってことか。

 そういえば、良平が同居しているしょうひびきも、初めて会ったときから、彼を見ることが出来たっけ。『無視される』生活に慣れているせいで、良平は突然のことにとまどう。

「こんばんは」と良平はかぶっていた白いニット帽を取って、小学生に挨拶した。「きみは……客観的にいって、乙女というよりも、育ちのいいお子さん、って感じだね」

 すると少女が、両手を腰にやって、不満そうに首をかしげた。本人は、自分を乙女と認めてほしいみたいだ。

 良平は口論が嫌いだ。納得いかないけど、妥協しよう。言葉を選び、できる範囲で肯定する。

「……うん。きみも、うら若い乙女といえないこともない。もしかして、そのまま、結婚式に招待できるかもしれない。うん、うん。そうとも、こんなに素敵な乙女には、めったに、お目にかかれるもんじゃない」

 といって、子供に媚びるため、良平はほほ笑んでみせた。しかし、聞きおわると、その子が悲しそうな目でこっちを見た。

「おじさんは、あたまがわるいんですね。……大丈夫ですか?」

「いっしょうけんめい、いったのに……」

 少女の言葉が、良平の心に刺さる。小学生に脳の心配をされてしまうとは情けない。

 しかし、子供相手にムキになってはいけない。良平はかぶりを振って、じぶんの頭の悪さをみとめることにする。

「努力してるんだけど、あんまり大丈夫じゃない」

「努力がまだ足りないんです、おじさんは大丈夫です。あきらめずにがんばってください」

 子供がさらに言葉のナイフを投げつけ、腕をくんで首をたてに振った。奥歯を噛みしめながら、良平はどうにか苦笑いを浮かべてうなずく。

 そこで会話が途切れたので、心が砕けないうちに、良平は何事もなかったように立ち去るため、回れ右をした。

「おじさん。質問に答えてないこと、気づいてますか?」

 少女に追求され、良平はこっそり舌打ちをする。たったいまの質問を頭のなかで反すうし、ふり返る。

「『なにをやったの?』だったね。僕はなにもしてない。強いていえば、パロンシンを飲んだけど……そっか、きみもパロンシンがほしいんだな。ひと袋だけ、あげよう」

 といって良平は通学カバンのファスナーを引っぱる。

「いらない……ごめんなさい」

「あ、そう……」と彼はファスナーを閉めた。

 すると子供が、大きな猫みたいな目を細め、「『なにもしてない』、ってほんとうに? おじさんが何にもしてないのに、さっきおじさんの前にいた男の人の魂が消えちゃったんですか?」といった。子供らしくない、理論的な追及だ。

「あたしのいってること、わかります?」

「……わかる、わかるよ」と良平は二度返事をして片手で額を押さえる。少女の発言の意味をふかく考えるため、道の端に座りこんで空をあおいだ。

 日が暮れかけた空は灰色ににごっている。地べたに腰をおろす人がめずらしいのか、少女がきょとんとした顔で良平を見る。

 どうやら、この子供には、さっき良平が魂を刈ったことが見えたらしい。

 ――国家機密なんだけど、子供相手なら、だいじょうか?

『死刑執行人』の話なんて、子供から聞いたって、突拍子もなくて誰も信じないだろうし。良平本人も、いまだに半信半疑でいるくらいだ。

 悩んだすえ、良平は顎をかきながら返答する。

「ぼくがやったことは、そう、きみのいうとおり、人の魂を刈ることだ」と良平はつとめて客観的に、自分自身を語りだした。

「ぼくは死ぬことが決められた人間の魂を切りはなす。すると、その人間は近いうちに生きる力をなくして死ぬ。きみにはぼくの斧が見えたかい?」

 良平の問いに子供がコクリとうなずく。

「あれがぼくの仕事道具だよ。あの斧は体に触れず、人の魂をじかに切ることができる」

「どうして、なんのために……おじさんはそんな怖いことをしているの?」

 と少女が聞いた。いつの間にか、その子は良平と同じように地面にすわって、こちらを向いている。

 しようもない話を信じる子だなあ、と思いながら、良平は肩の力を抜き、答えつづけることにした。ほんとうは、関係者以外には身分を教えてはいけないのだが、相手が子どもで、興味を持って聞いてくれるので、つい口が軽くなる。

「なんのためにか……まあ、ぼくの、お給料のためだよ」と、しずかな声が灰色の空に吸いこまれた。「ぼくは、死刑執行人なんだ」

 少女が無言でまばたきをした。その視線に息苦しさを感じて、良平は目を逸らし、道路の反対側をながめる。クリスマスを間近にひかえた街が、イルミネーションをちかちかさせながら、青年と子供を静かにとりかこんでいる。

「きみはどうして、僕のやったことがわかったの?」

「だってそれは」と少女はためらうような声でいう。「おじさん……おじさんはあたしが……霊とか妖怪とかを信じてる、っていったら笑いませんか?」

「いや。笑わないよ。だって、ぼくの仕事は、その霊、というか、魂を体から切りはなすことだからね」

 といって良平は首を振る。少女は一度目をつむり、また目をあけて口をきいた。

「あたしは……霊とか、妖怪とかが……ときどき見えちゃうんです」

「ああ、そういうことがあるのか」と良平は眉をあげてうなずく。「きみは霊感があるのか。あれか、霊能力少女ってやつか。……どうりで分かるはずだ」といって興味をひかれるまま、子供の容姿をあらためて観察した。

 明るい茶色のコートの端から、白いブラウスと紺色のスカートをのぞかせ、足元もおもちゃみたいな小さな茶の革靴をはき、良平の通っている高校の制服みたいな、大人びた格好をしている。肌は明るい白で、両目が好奇心に光ってこっちをみていた。

 ごく稀に、霊が見える体質を持って生まれてくる人間がいると、先代の『死刑執行人』の女性から、良平は聞いたことがある。

「だけど、きみは苦労しただろうね。そこらじゅうに、死人の姿が見えるわけだろう?」

「それは……昔はたいへんでした。ほかの人の見えないものが見えるから。でも、小学生の頃に、神社の神主さんにお願いして力を抑えてもらって、いまはほとんど力がなくて……」

「ん?……ごめん、ちょっと待ってくれ」と、良平は不思議に思って、話に割りこんだ。「『小学生の頃』」って、どういうことだい? ……いままさに、きみは小学生じゃないか。そんなむかしのことじゃ……っ」

 話の途中で、少女の右手がすごい速さで動き、良平の脇腹を下から上へ突きあげた。「グウウ」とカエルみたいな声をあげ、彼はみぞおちを押えて背中を丸める。

「ばか! ばか! 小学生じゃなくって高校生です! もう、最近のおじさんは、女を見る目がないですねっ」

「いや、その」とあらい息をはきながら、良平は涙目で反論する。

「客観的に、いってだね……この場合は、ぼくに女を見る目がない、というより、きみが、あまりにも、若作りすぎる、というほうが正しいはずだ……そうじゃないか?」

「正しくありませんっ」

 と自称高校生の子供は、一言で否定して、腕を組み、そっぽをむいた。でも、良平が痛むおなかを押えながらせきこむと、彼女はかがみこんで、心配そうに顔をのぞきこんできた。

「ごめんなさい、おじさん。大丈夫ですか?」

 自称高校生が意外に気をつかってくれたので、良平はびっくりした。

「ああ……ぜんぜん、大したことはないんだ。その、ただ喉がつかえただけでさ……ほら、ほら」

 しどろもどろに言って立ちあがり、両腕で力こぶを作ってみせると、自称高校生の顔に明るい表情がもどった。ふと、彼女は思いついたように良平の名前を聞いた。

「ねえ、おじさんは、なんて名前なんですか?」

「え……?」急なことに戸惑うと、自称高校生はすぐに理由をいう。

「あたし、オカルトに興味があるんです。昔から霊が見えちゃうから。おじさんもそういうのに関係ありそうですから」

「そういうことか、わかった。ぼくはね……そうだな……ウリ・ゲラーっていうんだ」

「あ、そう。ふーん……で、名前はなんですか?」と少女がこれ以上無いくらい、冷めた声で聞きかえす。オカルトに興味がある、という言葉を試したのだが、ほんとうらしい。

「うーん、どうして嘘だってばれちゃうんだろう」

「おじさん、もう一発、もらいたいんですか? 今度はアバラをもらいますよ」

「いや、いらない」と良平は遠慮した。「……ほんとうは、守矢 良平っていうんだ」

「守矢 良平ですね、うん。良平、良平、良平……おじさん、名前を呼んでるんだから、返事してください」

 催促されて、また戸惑い、良平の声はかすれた。

「ええ、返事? ああ――はい」

「よし」といって少女がほほ笑んだ。やわらかそうな頬がふっくりと丸みをおびる。

「あたしは、藤原ふじわら 御小兎みことといいます。魂取高校二年生です。よろしくお願いします」

 といって、御小兎が右手を差しだした。良平はコートで埃をはらってから、おっかなびっくり握手する。温かくて小さい、白くてやわらかい手だった。にぎった手を放し、少女の言葉を頭のなかで反芻し、良平はまた混乱する。

「高校二年生……え? 飛び級?」「ちがいます。それ以上いわれたら、泣きますよ」

 少女がきつい目で良平をにらんだ。

「だけど、魂取高校二年生っていったら、きみはぼくと同級生じゃないか」そう良平が言うと、御小兎が驚いたように口をあんぐり開けた。真っ赤な舌がのぞく。

 やがて「ぷっ」と吹きだし、わざとらしい仕草で片手を口元に当てる。そして、こちらを上から下までじろっと見て、首をふる。

「おじさん、ムリに若ぶらないでください……え? 教師ですか?」

「ちがうよ、生徒だよ。この新品の通学カバンを見てよ。先月、引ったくり犯に財布ごとひったくられて、借金して買ったばっかりなんだ」良平は鞄を肩から外して御小兎の顔の前にかざす。「教師だったら、わざわざ学校指定の通学カバンなんて買わないだろ?」

「うわあ……」と御小兎がまだ手で口を隠したまま、哀れそうな視線を良平にむけた。

「ごめんなさい、あたし、三十代後半のおじさんかと思っていました」と、御小兎はさっきまで良平に勘ちがいされたことの、仕返しのようなことをいう。育ちがよさそうな見た目とはぎゃくに、気が強いらしかった。

 良平は自分の顔に手のひらをあてて「そうかなあ……」とつぶやく。少女がそれを見て満足そうにうなずき、手すりに片手をかけた。

「おじさん。それじゃあまた、学校で会いましょう」

 というと、御小兎が立ちあがって石畳を歩いていき、やがて階段を下りて小さな背中が見えなくなった。良平は思い出したように腕時計に目をやり、繁華街からはなれた自宅にむかって、歩道橋のうえをのろのろ進んでいく。

  

 さかのぼること、ちょうど二年前のクリスマスの日、良平は『死刑執行人』に就職した。

 少年刑務所のなかは、寒かった。それでも良平にとっては、電気の止められた自宅にいたときよりましだった。冷たい壁に背中をあずけて、うとうとしていると、看守のしずかな声で来客を告げられた。

 心当たりなど一つもなかったが、言われるままに立って、良平は駅の待合室くらいの広さの面会室に入った。部屋の真ん中が強化ガラスで仕切られていて、その手前の椅子に座るよう促される。

「どうも、こんにちわ……ええと、はじめまして。」

 やや低い、ハスキーな、でもあたたかい感じの声が聞こえて、三十前後の見知らぬ女性が、ガラス窓の向こう側に姿をあらわした。すらっとした体を黒いジャケットとパンツで包み、黄色いセーターを胸元にのぞかせている。

「あなたは」何かいおうとして、その途中で良平は息を呑んだ。目のまえの女性は、海のような藍色の髪を伸ばしていた。良平の頭で直感が働く。

 ――警察じゃあ、ない。

「君を引き取りにきました」

 と、その青い髪の女性はいった。いきなり過ぎだろ。良平は耳を疑った。

「引き取りに、って。あなた、ぼくのことを知ってて言ってるんですか? ぼくは……私生児で、戸籍がないんだ。それに……」

「あなたが実のおじいさんを殺そうとしたことでしたら、知っています。それから、義理のおばあさんと、その娘つまり、おばさんも殺そうとして、重傷を負わせたことも知っています。……合っていますか?」と女性は低く抑えた声でいった。

 良平は顔を伏せて答える、「いや。本当に、殺そうとしたのは、じいさんだけ。ところがあのじいさんが、自分の命は惜しくない、って口ぶりだったから、悔しくて……予定を変えて娘さんのほうを狙ったんですよ。他の人は、逃げようとしたときに傷つけちゃって……あの娘さんには、悪いことをしたと、思ってます」

 話しているうち、良平の頭に、祖父を殺そうとした晩のことが甦ってきた。良平の家は貧しかった。祖母と母親と、三人で暮らしていたが、二人とも体が弱かった。父親は家におらず、その顔も名前も、良平は知らない。一度だけ聞いたとき、「いないよ」と母は答えた。

 ――どうすれば、よかったのか……。

 やがて祖母が年老いて寝たきりになり、看病についた母親も疲れて寝込みがちになった。祖母は昨年の冬に亡くなった。祖母が死ぬと母親は緊張の糸が切れたのか、酒の量が増えていき、一週間前に寒い部屋のなかで冷たくなっていた。良平は自暴自棄な気持ちを起こし、話に聞いたことのあった祖父の家を訪ね、裕福な祖父を見て殺したくなり、襲いかかったが、けっきょく捕らえられて、今いる建物に送られたのだった。

「……そうだったんですね」といって女性は椅子をひき、良平とむきあって座る。それきり、肯定も否定もなく、青色の目を光らせる。そう、女性は瞳もまた藍色だった。

 良平は混乱した。女性の表情から感情を読もうとしても、彼女の品のいい整った顔にはほほ笑みしか浮かんでいない。いまのところ、彼女は椅子のうえで長い足を組み、こちらをただ観察しているように見えた。

「知ってて、どうして、ぼくを引き取るんです?」と良平はそれだけ聞いた。

「警察に知り合いがいて、いきさつを聞きました」といって、女性が目を伏せた、「そのおじいさんに捨てられたせいで、あなたのおばあさんと母親は失くなったんでしょう? あなたがしたことは、復讐だった……それに、他に生きていく方法もなかったんですから、動機は理解できます」

「そんな風に、わかるものですか?」と良平はうたがった。「じっさい、僕は、ばあちゃんと母さんが死んで、あのじいさんを殺すしかなくなっちゃったけど。……あなたは、人を殺そうとしたことなんてないでしょう?」

「いえ。あなたは殺人未遂ですけど、わたしは実際に人を殺しています」

 女性の上品な顔がゆがんで、目もとが寂しそうにふるえた。

「わたしは、跡継ぎを探しているんです。……笑わないでくださいね。あなたを、次の『死刑執行人』に指名させてください」

といって、女性は説明をはじめた。

「死刑執行人は、国家公務員です。管轄は警視庁。警察官の一種になります」

 良平は面食らった。首を振りながら女性にたずねる。「待ってよ、まず、その、死刑、執行……っていうと、ギロチンで首を落としたり、電気椅子のスイッチを入れたりする、あれですか?」

「ちがいます。電気椅子の操作をする官吏は、私のほかにいます。私の仕事は、人間の魂を刈ることです。魂を刈られた人間は、数日で死亡します。刈りとった魂は、所定の手続きを経て、黄泉の神にささげられます」

 女性は舌を滑らかにうごかし、良平にとっては意味不明な説明をする。良平はぎょっとして、聞きかえした。

「待って、待って」「はい」「まず、魂って、なんです?」

 良平には、根本からしてわからなかった。つくり話を聞かされてるみたいだ。

「人間は、入れ物としての体と、中身としての魂に分けることが出来ます。二つは本来、切りはなせないものですが、私は特殊な道具で体と魂を切断します」

 むちゃな話だと思った。魂なんて存在しない。仮に在ったとしても、見たことがない。見えないものは切れないだろう。この女性は、あてずっぽうでその道具を振り回すのだろうか。良平は納得しないで聞いた。

「あなたは、魂が見える、んですか?」

「見えません、でも」といって女性が鞄に手を入れた。

「この『森夜』があれば、誰でも魂を見ることが出来ます」

 女性の手が、白い包みを取りだした。布をほどくと、なかから柄の短い斧が姿をあらわす。彼女が『森夜』と呼んだものは、全体が赤黒く古びていて、おどろおどろしい雰囲気の斧だった。

 柄は長さ五十センチ、刃渡りは十センチほど。柄に血液が染み込んでいるのか、赤黒くぬらぬら光り、楔形の刃はさらに真っ黒で、光を吸っているように見える。手斧の周りだけ、空気の質が違う。

 しかし、恐ろしくきれいだ、と良平の目には映った。『森夜』の美しさが、女性の話を信じる気持ちを起こさせる。

「『森夜』は、大昔、神を奉る儀式の生贄のために、無数の命を絶った斧です。あまりに多く血を吸ったため、この世のものでありながら、あの世と繋がる物になりました。手にした人間に、魂や霊を見せ、それらを斬る力を与えます。私にも……あなたにも」

「いやいや、待ってください」と良平はあわてた。まるで、『森夜』を自分が持つと決まったような言い方だが、まだ承知する訳にはいかない。『死刑執行人』ってなんだよ。

「その、黄泉の神に捧げる、っていってたけど……」

「はい」と女性が目を細めて良平を見る。

「もしも、捧げなかった場合、どうなっちゃうんです?」

「黄泉の神に襲われて、他の人が死にます」

「それって、同じですよね。執行したら、死刑になった人が死んで、執行しなくても、他の誰かが死ぬんでしょう? 意味がないような気がします」

「そうでもありませんよ。死刑になるのは、そのままでも死んでしまう可能性が高い人です。それに、神様のやりかたは荒っぽいので、あまり公になるべきではありません。もしも、我々がいなかったら、神がやってきて、自由に魂を食らうでしょう。それほど、数は多くないでしょうが、どうなると思いますか??」

 女性が反対に聞いた。いつの間にやら、我々、という呼称を混ぜている。考えこみながらから、良平は答えた。

「客観的に見て、騒ぎになって、国とか政府が働いて、何かしらの対策を……」

 そこまでたどりついて、口をつぐむ。まさか、そのための『死刑執行人』なのか。

「察しが良くて助かります。あなたのいう『何かしらの対策』が、まさに私です。神様は金や力でどうなる問題ではないですからね。しかし、なるべく穏便に、秘密裏に済ませたい、という理由で我々がいるんです。これでも、由緒正しい公務員なんですよ」

「死刑執行人って、そういうことですか。国がお金を払って、社会のために、人を殺させる……」

 良平は上をむき、髪をかきむしった。女性の話は信じ難いが、筋が通っているように思える。もし本当だとしたら、なんていう汚れ仕事だろう。……机のうえでは、まだ『森夜』がどす黒くたたずんでいる。

「はい」女性がうなずいて次の話に移った。「加えて、執行人となった者は、黄泉の国に近くなり、普通に生きている人たちから、正常に認識されません。執行人と普通の人間が関わる姿を見れば、彼らは人から『無視』されているように見えるでしょう」

「『無視』だって? それじゃ不便でしょうがないよ」

「不便はありませんよ。買い物なんかは普通に出来ます。ただ、人と話したり……触れ合ったりすることは、難しくなります。でも、まったく出来ないわけではありません」

「そう、なんですか……?」といって良平は息をはく。人を殺して生きる人間が、他人と同じように生きるほうが、無理な話なんだろうけど、『無視』されるってなんだよ。おどろくことばかりだった。

「だけど、僕はあなたが見えるよ?」と聞くと、「あなたは既に、普通の人より黄泉の国に近いのでしょうね」と女性が答える。失礼な気もするが、良平は妙に納得した。自分はもともと、世界に無視されているような存在だろう。

 わかった、と良平はかすれた声でいった。

 女性は小さく頷いた。「ところで、現在、死刑執行人は世襲制です。わたしはそれを運命と思って、受けいれました。でも、出来ることなら、子供たちにはこの職を継がせたくありません」といったところで一度、言葉を切る。こちらを向いている青い両目に、初めて迷いのようないろが浮かぶ。

「あなたの存在を警察から聞き知り、これはチャンスかもしれない、そう私は思いました。戸籍がないことも、後釜にするために好都合です。『死刑執行人』を継ぐことで、あなたは家と仕事を手に入れ、私は子供の未来と自由を手に入れます」

 女性が良平に選択を促してくる。

「いかが、でしょうか?」

 まるで予期していなかった提案に、良平は腕を組み、黙って考えこんだ。あの『森夜』という斧で魂を刈って、人を殺すのが仕事だという。誰もが嫌がるような汚れ仕事だが、だからこそ自分にふさわしいように思える。

 ――その仕事をしていたら、きっと、いまより世界を嫌いになれるだろう。

 良平はこの世界が嫌いだった。祖母と母親を殺し、祖父を守っているこの世界を好きになりたくもなかった。世界から嫌われ、世界を嫌って生きていくために、死刑執行人は良平の適職になりそうだった。

「やります」青い髪の女性と目を合わせ、良平はうなずいた。それから、「じいさんを殺そうとして、失敗して、その子供に重傷を負わせるような人間には、おあつらえむきですね」といって笑った。自分自身に向けた笑いだった。

「ねえ、おねえさん」と女性をなんと呼べばよいかわからずに良平がいうと、「お、おねえさん!?」女性が跳びあがりそうな反応をする。

「おばちゃん、のほうがよかった?」

「おねえさんにして。おばちゃんはダメ、禁止」

「じゃあ、おねえさん。死刑執行人、っていう仕事は食っていけますか?」

 金のこと以外、質問すべきことは残っていない。

「食ってくぶんには、問題ありません。精神的にはきついですが……大丈夫ですか?」

 女性が身を乗りだし、こちらの目をのぞきこむように見る。良平もまばたきせず、相手の澄んだ青い目を見返した。

「大丈夫。食ってくためなら、ガマンするよ」

「ありがとう」と女性が礼をいった、「申し送れましたが、わたしは守矢もりや 幸子ゆきこといいます。あなたの身柄は、わたしが引き受けました」

 がちゃがちゃ、鍵をまわす音と扉を開ける音が聞こえ、看守に促されて良平は立ちあがった。

  2

 羽佐間はざま あやは電気を消した部屋の白い壁紙に背なかをあずけ、膝をかかえて床にうずくまり、ため息を吐き、歯ぎしりする。どうやったら、私はちゃんと死ねるだろうか、と自分の胸に問いかける。

 もう十二月に入っているので、正面にすえられた窓を開けて隣をのぞけば、山田さんの家の庭で、サンタクロースをかたどったイルミネーションがきらめいているだろう。顔を向けるだけでも、にぎやかに光るライトが一つか二つは見えるはずだ。でもいま、綾はそれを見たくない。

 ――コツン……コツン。

 うつむいている綾の耳が、乾いた音をひろった。部屋のガラス窓をノックするような音が、規則正しく鳴っている。と感じている間に、キキィ、と今度はガラスを擦る音が鳴る。

 綾は顔をあげた。ベッドサイドに据えられた大きな窓から、想像通りの赤色のライトと、音をたてて震える窓ガラスが見える。

 もしかして、泥棒、というやつだろうか。綾が床に外しておいた腕時計を見ると、午前二時を差している。その手の輩が活動する時間だ。

 恐怖と、どうでもいい気持ちと、半分ずつ、綾は感じた。

 ――どうなっても、いいか。

 そして、どうでもいい気持ちが勝って、綾は立ち上がり、窓を開け放った。

「どうぞ。あがってください。鍵を壊すの、面倒でしょう?」

 その一言で、泥棒が屋根のうえで硬直した。綾は目を合わせて、うなずく。

「……じゃ、お言葉に甘えて」

 窓枠に白っぽい指がかかり、次に黒いスニーカーが床に乗る。冷たい空気が流れ込んで、綾の顔を撫でる。

「あ」と綾はいまさら戸惑って注文をつけた、「やっぱり、めんどうでも靴はぬいでください」

 泥棒が、無言で靴をぬぐ。それから「それじゃあ……」といって、細身で背の高い体を折り曲げて綾の部屋に入ってきた。ライトの明かりで、彼の姿がぼんやり見える。

 白い毛糸の帽子をかぶって、ちぢれた髪を肩までたらし、ひょろっとした体格の男性だ。窓枠に背中をあずけて、綾の方をむいている。年齢は、三十前後に見えるが、髪形のせいもあり、わかりづらい。肌の色はしろく、光の加減か、髪の毛が濃い青色に見える。

 男の人は帽子をとらないで、居心地悪そうに会釈をした。まあ、泥棒を迎え入れる家なんて、初めてだろう。似合わないことをしている、という気持ちが態度に出ている。

「はじめまして。夜分おそく、もうしわけない」

「はい。もうおそいんで、用件からどうぞいってください」

 綾は面白がってすすめた。どんな言い訳をするんだろう。でも、その人は気がすすまない様子で、窓のまえに立ち、下唇を片手の人差し指と親指でいじりながらちょっと考え、答えた。

「実はぼくは、あなたを殺すことに決まった者です」

「へえ?」と綾の声がうらがえってしまった。

 ――泥棒じゃないの? っていうか……殺す?

 急に綾は青年に興味をおぼえた。暗がりにたたずむひょろっとした人を見つめる。

「『殺す』なんて、きみは殺人鬼? はたまた殺し屋さん……? でも、あたしなんて殺してたって、一円にもならないでしょう?」

 質問された泥棒が腕組みをして、天井を見た。またなにか、考えているぞ。よく見ると、着ている服は魂取高校の男子制服だった。おじさんにも見えるけど、綾とおなじ高校生みたいだ。

 腕組みしたまま、青い髪の人が、いいづらそうに口を開いた。

「なぜなら、あなたの罪が裁かれたからです。……ぼくは死刑執行人なんです」

「しけいしっこうにん、さん……?」

 意外な単語を耳にして、綾は混乱し、男の人とおんなじように腕組みをしてしまう。

「っていうことは、あたしが、死刑。……うーん、うーん」

「はい。申し訳ないんですけど」

「あ、いいのいいの。別に死刑になったって、いいんだけど」綾は目を閉じて首を横に振る、「たぶん、間にあってます。だって、わたし、自分で死ぬんだもん」

 今度は男の人が混乱する番だった。

「うそでしょ?」

「うそじゃないもん。ついさっき、わたしは死のうとしたんです。でも、失敗しちゃったんです」

 綾はそういって、力なく笑ってみせた。それから、証拠を見せるために立ちあがり、ドアの脇にある電灯のスイッチを押した。淡いオレンジの光が部屋を照らす。同時に、綾と泥棒はおたがいを見てびっくりした。

 天井から垂れさがった黒いロープの下に、パイプ椅子が横向きにたおれている。泥棒は窓枠からはなれて部屋を横ぎり、パイプ椅子のわきにしゃがみこむ。目つきをするどくしながら、泥棒が椅子と天井と綾を交互に見る。

「もしかして、首吊り自殺未遂、ですか?」

「うん。この首の筋が縄のあとなんだよ。わたしって不器用だから、けっこう、むずかしい」

 綾はうなずき、そんなことをした自分が恥ずかしくなり、照れかくしに笑った。泥棒の視線が彼女の首に向けられているのは、ロープの食い込んだあとが紅い痣になってるからだろう。片手で首をさすりながら、綾も疑問を口にする。

「ねえ、どうしてきみの髪の毛は青いの?」そういって、綾は泥棒の方へちかよった。

 深い海みたいにあざやかな青色の髪に、綾の視線が釘づけになる。くるくるカールした毛先が、光を反射してきらきらしていた。白いニット帽に右手が伸びた。

「この色は、私が死刑執行人である証です。ほかの人とぼくは、この色で区別されるんですよ」

 青年は区別されることを嫌がっている風に、細い声で説明した。でも、綾はその髪の色が気に入った。こんなにきれいなものは、長いこと目にしていないような気がする。

「ねえ、よく見てみたいから、この帽子を脱がせてもいい?」

「いいですよ」「ありがと」

 男の子がちょっとかがんで頭をさげ、綾は右手でニット帽をとった。藍色に近い青色の髪がふさふさと生えている。

「きれいだね」といって、綾は髪の毛に手でふれ、一とつかみを握ると、思いきり引っぱった。

「ちょっと、ちょっと! 痛い痛い痛い痛い!」

「うわ、ごめんっ、カツラを帽子でおさえてたんじゃなかったんだね」

 そういうと、綾は両手をはたき、指に絡まった青い毛を払い落とす。

「ぼくはクセ毛だから、帽子がないと、見られたもんじゃないんです」と死刑執行人が目に涙をうかべて言う。「本当は、バッサリ切っちゃいたいんだけど、この髪が人目につくように、伸ばさないといけないし……」

「それじゃあ、目だってしょうがないんじゃない?」

「問題ないんです。だってぼくは、普通の人には相手にされないんです。通常、死が定められて、『死刑』と決まった人だけ、ぼくを他の人と同じように見られるんです」

 といって泥棒は目元を服の袖で拭いた。泣き止んでもまだ、その顔が悲しそうに見える。

『相手にされない』というのは、どういうことだろうと、綾は思った。誰からも話しかけられないとか、そういうことだろうか。思えば、青い髪の生徒がいたら、学校中で知らない人はない筈なのに、綾はそんな生徒の話を聞いたことがない。こんなにきれいな髪なのに、誰からもまともに見られないとは、もったいない。

「それじゃ、あたしに君の姿が見えるのは、あたしの死刑が決まったから、ってこと?」

「はい」といって、青年は背負っていたリュックサックを下ろした。手斧、というんだろうか、長さ五十センチくらいの片刃の斧をひっぱり出し、青年が赤黒い柄を片手でにぎる。

 おもわず、目が吸いつけられる。それは綾が渇望しているもの――死――の空気をまとっていた。赤黒い柄が、血を塗りたくったように輝いている。どす黒い刃は照明をうつさず、周囲の空間にまで黒い色が染み出してきそうだった。

 彼は右手の斧の柄を自分の右肩に乗せ、とまどっている様子で聞いた。

「こいつで、僕はあなたの魂を刈ります。覚悟は、いいですか?」

「とっくに覚悟できてる」

 真夜中に斧を持参し、見知らぬ家に忍び込んできておいて、いまさら覚悟もなにもないものだ。綾は目つきをきつくして、青年をにらんでやった。

「あなたみたいな人、初めてですよ。……それじゃ、後ろを向いてもらえますか? 魂は人の背中につながっているんです」

「これでいい?」といわれたとおりに綾は青年に背を向ける。山田さん家のライトで、壁紙がいまは緑色に光っている。

 ヒュッ、と耳元で、美しい刃物が風を切る。つづいて、魂を切り落とす小気味のよい音。

 ――ザンッ。

「あなたの魂をいただきました。これで、通常なら一週間から十日で、あなたは死亡するでしょう」

「ふうん」といって、綾は腕を曲げ伸ばしながら、首をかしげる。

「何にも変わったところがないけど、いいの? もしかしてきみ、失敗したんじゃない?」

「失敗してませんよ! あなたの魂は体から離れたんです。ほら……こいつですよ」

 青年がいつの間にか透明な瓶を手のひらにのせていて、綾に見せた。青黒い液体が、小瓶のなかで渦巻いている。吸い込まれそうな深い青だった。

 綾が瓶から視線を外すと、青年はそれをポケットにしまって、背中をむける。

「それじゃ、お邪魔しました」

 自称『死刑執行人』の青年が、窓枠をまたいで、部屋から出ていこうとする。綾は忘れ物に気づいて声をかける。

「きみきみ、帽子、忘れてるよ」

「やあ、ありがと」といってさしだされた手に帽子を渡そうとしたとき、初めて綾の目に青年の顔がちゃんと見えた。尖った顎と、形のいい鼻と、まつげの長い一重の目が、色白な顔のうえで調和して配置されている。

「……もしかしてきみ、ちょっと格好いいんじゃない?」

「いやいやいやいや。あなた、この状況でなに言ってるんですか」

「またまたまたまた。あたし、お世辞はいわないからね。それに、状況と美しさは関係ないのだ」といい、綾は青年にお願いした。

「ねえ、ちょっとだけ、きみの髪の毛しばってみても、いい?」

 え? とまだ不思議そうな顔をしている青年の巻き毛を首の後ろでまとめ、ゴムで束ねる。細く尖った顎や白くてきれいな頬がはっきり見える。

 ――このほうが、ずっと男前だ。

「うん。行ってよし!」といって綾は満足し、ニット帽を青い髪の毛のうえにのせた。

 青年はくすぐったそうにしていたが、肩をすくめ、はにかむようにほほ笑んだ。

「ありがとう。それじゃ」

 そういって、今度こそ綾の部屋を出て行った。

 残された少女は独りで、くすくす笑いだした。夢でも見てたような気がする。でも、夢で無い証拠に、彼女の手のひらに青い海の色をした髪の毛が一本はりついていて、綾はそれを読みかけの本のあいだに挟んだ。

 窓のそとでは、山田さん家のイルミネーションがちかちかしている。


 良平の家は魂取駅から北へ歩いて三十分ほどの、住宅地の隅にひっそり建っている。屋根も壁もふかい藍色で塗られた一軒家で、まわりを囲うコンクリのブロック塀は、ところどころ崩れている。鉄骨が何箇所かむきだしになっていた。

 午前二時半過ぎ、良平は自転車をとばして綾の家から戻ってくると、白い息を吐きながら、古い鉄製のアーチをくぐった。庭に並んだプランターの横に、義理の母親の白い自転車が停めてある。そのとなりに黒い自転車を立てかけ、手袋とニット帽を外し、藍色のドアをそっと開けた。

「おかえりー」と控えめな声が奥から聞こえた。幸子さんを起こしてしまったんだろうか。良平は脱いだ黒のローファーを丁寧にそろえて並べ、玄関から居間にあがる。

 この家に住んで二年になるが、まだ自分の振る舞いに慣れていない。それまで十四年間、狭くてきたないあばら家に住みつづけて染みついたクセは、なかなか抜けない。

 良平が居間の戸を引くとちょうど、なかで明りがついた。

「ただいま」

「ぁ……おつかれさまー、良平」

 台所の方から、幸子さんが良平に声をかけた。あたりまえだが、眠そうだ。それでも、語尾がやわらかく、のんびりとしたあたたかい声だと、良平はいつものように思った。

「お腹がすいて起きちゃったから、スープを温めてるんだけど、あなたも食べる? 仕事の後は、おなかが空くでしょう」

「うーん」とうなって、良平は腰をおろし、緑色のモッズコートを脱いで手袋と一緒にカーペットにのせ、コタツに足を入れた。まずさきに、冷えた体を温める。

「えー? わかりにくいよ、その返事っ。食べるの、食べないの? どっちなの?」

「うーん」「わかりにくいってばーっ」「食べる」「……よっし」

 幸子さんが平皿に盛ったトマトスープをお盆にのせ、居間に入ってきた。良平とおなじ藍色の髪を背中までのばし、首の後ろで束ねていて、それが灯りの下でつやつやしながら揺れる。

「ごはん、まだある?」と聞きながら、良平はコタツの上の炊飯器を開け、戸棚から小さめの茶碗をとり、ごはんを盛った。獲物と話して緊張したせいか、ひどく腹が減っている。

「あるよ……って、もう自分でよそってるじゃない。ぶっ、しかも山盛り」

「食べますか? まだ半分ありますよ」そういってから、良平はしまったと思った。見逃してもらえるといいが、ダメだろう。

「む。やりなおし」と幸子さんが見逃さずにいう。守矢家では敬語はご法度、らしい。

「はいはい。まだ半分あるよ」

「ふっふっふ、よし。ぐーっど」といって、幸子さんが親指を立てて笑い、コタツのむかい側へ腰をおろす。もともと細い目が、白い糸みたいに一本の線になる。

 良平が守矢家の人間になってから、二年が経つ。

 二年前、警察署の狭い部屋のなかで、人生のどんづまりにいた少年の前に、守矢 幸子がやってきて一つの提案をした。彼女の家業――死刑執行人――を受け継ぐという条件をのんで、良平は守矢家に籍を置くことが決まった。

「翔と響が起きてこないといいけど」

 ふと気になって、良平はアクビをしながらそういった。義母には、小学校四年の息子の翔と、二年生の娘の響がいる。

「それはどうかな」といって、幸子さんが横をむく。目線の先で、少年と少女が眠そうに目を擦っていた。

「だめじゃん」良平は茶碗を置き、肩をおとした。

「ハラ減った……俺も食っていい?」と翔が寝ぼけ眼で聞いたが、この時間だ、いいわけないだろう。と思ったら……。

「いいに決まってるわよ。児童の正当な権利だわ」と響がめんどくさい権利を主張しだした。二歳下の妹なのに、響のほうがまるで子供らしくない。

「寝る子は育つ。子供らしく寝るように、幸子さんからもいってやってくれ」

「なにいってんのよ、兄さん。ママも食べてるわよ?」

 そう指摘されたので幸子さんを見ると、本気で食べていた。「わたしって、一眠りすると、おなか空くのよねえ」とかいいながら、すでに大きな平皿半分を平らげている。

「市民平等の原則にのっとって、私たちもスープを要求するわ」

「しょうがない。食ってもいいけど、自分でよそえよ」

「ちっ」と舌打ちしながら、響が翔を連れて台所に入っていく。俺に手伝わせるつもりだったのか……。

 良平はあきらめて見送り、スープをすすった。うまかった。トマトの酸味が疲れた体にしみわたる。

 子供たちがいなくなったのを見計らったように、幸子さんが聞いてきた。

「……で、仕事はうまくいった? 昨日と今日と、たてつづけに二件なんて初めてでしょう」

「たぶん、できた」とうなずき、良平はリュックサックを開き、二つの小瓶をコタツにのせた、「でも、自信がないから確認してもらえる?」

 昨日の夕方に刈った魂と、先ほど刈りとった少女の魂だった。透明な瓶のなかで、どす黒い液体が渦巻いている。見ていると意識が吸い込まれそうに感じる。幸子さんが手に取って瓶を光にすかし、真剣なまなざしで観察する。

「よし。きれいに刈れてる。あなたは仕事がていねいよね」

「ありがと」良平は胸をなでおろした。二日続けて人を殺すのは、精神的につらい。

「『執行人は魂を傷つけないために、完璧な技術を身につけなさい。そうすれば、人は穏やかに眠れるから』って、きびしい先生に叩きこまれたよ」

「だれなの、そのひと」「幸子さん」

「ぶー、ぶー、」と幸子さんが年がいもなく頬をふくらませ、ブーイングをとばす。

 良平はおもわず吹きだしそうになり、片手で口を押さえる。口のなかのごはんを飲み込み、湿った声でつづけた。

「おれは、あの斧を持つとき、いまだに体じゅう震えそうになるよ」

「そうね。あなたはひとの命を奪うんだから、そうでなきゃいけないの。『決して慣れてはいけない。しかし、心を揺らしてもいけない』……わたしも父さんから教わったなあ」

 そういうと、幸子さんが遠くをみる目つきで天井を見た。

 スープを口に運びながら、いまの会話について、守矢家の家業について、良平は思考をめぐらせた。

 死刑執行人という仕事がある。一般には、電気椅子等の方法で、死刑を宣告されたひとびとに、刑を執行するものとされているだろう。

 それに加えて、この世にはもう一種類の死刑執行人が居る。彼らはひとの魂を刈りとり、その魂を黄泉の神にささげる。魂をなくしたひとは通常で一週間から十日ほどのあいだに死んでしまう。

 刈られる対象となるのは、黄泉にふさわしい、深く病んで、死に侵された魂だ。

 司法の網にかからないが、非道な行いをしている者。自殺志願者、未解決の殺人事件の犯人――。黄泉の世界を遠ざけ、世界を安全にするために、千年も昔から続けられているそうだ。

 死ぬことが決まった人間に、無用な苦痛を与えず、自然に、植物が朽ちるように死なせるのが、執行人の仕事だった。執行人は死と関わりつづけるため、その家ごと他者と区別される。それに、いちどでも魂を刈った者は、髪が藍色に染まり、もとに戻ることはない。

「だいじょうぶ。俺はビビリだから、慣れそうにないよ」

 と良平はつとめて明るくいった。幸子さんに心配をかけたくはない。

 幸子さんは死刑執行人だったとは信じられないくらい、おだやかであたたかい雰囲気の人だった。自分から提案したこととはいえ、彼女は良平を、二人の子供と同じように扱ってくれている。その態度と関係に報いるためにも、良平は仕事をしなければいけない。

「神社にも寄ってきたの?」

「いや。二つまとめて見せるつもりだった。明日、行くよ」

「うん、わかった。これなら、文句いわれないでしょう」

 といって幸子さんが小瓶を返したので、良平は元通りリュックサックのポケットにしまう。刈りとった魂を黄泉の神に納めるのは、魂取神社の神主の仕事だ。文句を言われなければいいが、と緊張した気持ちになる。

「すーぷ、すーぷっ、とまぁーとぉ、すぅうぷぅううー」

 と、トマトスープの歌を口ずさみながら、翔が戻ってきた。子供は緊張感がないなあ、となごんでいたら、響が深刻そうな顔で良平の隣にすわった。

「いまの話、わたしは興味深く聞かせてもらったわ」

「うそつけ。おまえもスープのことしか頭にないだろ。ほっぺにトマトがついてるぞ」

「なんですって……」といって頬に手をあてるが、なにも付着しない。当然だ、嘘だからな。

「くっ。純真無垢な子供をだますなんて、兄さんは最低ね。死ねばいいのに……」

「はいはい、ごちそうさまでした」

 適当に受け流し、食事がすんだので、良平は汚れた食器をじぶんで洗った。

「寝られそう?」と幸子さんが背中ごしに良平に聞いた。彼は首をかしげて答える。

「わかんないや。羊でも数えてみるよ」

 おやすみ、といって良平は頭をさげて居間を出た。三人分の「おやすみなさい」が返ってくる。

 部屋のドアをあけ、寝巻きを着てベッドに入る。目のまえに、ほんの数時間前に魂を刈った少女の姿がチラつく。首筋についていた、赤い縄のあとが見える。眠くなかった。

 ――客観的にいって、人を殺したばかりの人間がすやすや寝られるはずはないね。

 頭がさえていて、きんきんする。部屋はあたたかいのに、肩がぞくりとが震えた。ひとの命を奪った日は、いつもそうだ。


 苔むした幅のせまい階段をのぼると、古ぼけた赤い鳥居と、石造りの小さな社が建っている。日曜日の昼さがり、良平が鳥居をくぐり、建物の裏手の喫煙所にまわって、社の主人を探そうとしたところ、後ろから声をかけられた。

「いよう。いつも時間通りって、おまえは素晴らしく勤勉だよな」

「こんにちは。べた褒めされるのって、気持ち悪いですよね」

 振りかえると、神主のはやし 大地だいちが微笑を浮かべて立っていた。背丈は良平とおなじくらいだろう、肩幅の広いがっしりした体を、黄色がかっている古めかしい白装束で包み、しわの少ない角ばった顔に、黒縁眼鏡をかけている。五十歳をすぎて白髪の目立つ長い髪の毛を、後頭部で結ってまるめてあった。

「なんだよ、少年。せっかく人が褒めてやってるのに、素直じゃないな」

「……客観的にいって、十七歳はもう少年じゃありません」

 良平が疲れた顔していうと、大地が落ちている石ころを足先で転がし、答える。

「ちいっちぇえやつだなあ。だいたい、客観的な話をはじめたら、俺もおまえもそこに転がってる石ころも、たいして変わりゃしねえだろ」

「そりゃ、客観的というより、哲学の領域になりますよ……」

「同じことなんだよ。人は哲学するために、客観的になるんだろ」

 良平は答えに困って、顎に手をあてた。大地はにやにやしながら、彼の答えを待っている様子だ。実に面倒だった。あきらめて、お手上げのポーズをし、息を吐く。

「はあ、降参します。あいかわらず、大地さんはめんどくさいなあ……」

「だてに年は食ってねえよ。そもそも、おまえが褒め言葉を素直に受けとりゃあよかったんだ」

「むう」といって良平は帽子を深くかぶりなおす。むかついたが、口では勝てないのでガマンしよう。

 大地は見た目がいかつく、負けず嫌いで押しが強い。そのうえ日本の神の研究が趣味で、理屈っぽい。今まで会ったなかで、良平がいちばん苦手な人間だ。苦手なものには関わらない。それが無理なら逆らわない……。

「わかりました、つまり、素直に受けとりゃいいんですか?」

「そうだ」「……アリガトウゴザイマス」「くくく、よろしい」

 大地が日焼けしたたくましい腕をくみながらうなずく。ムカつくけど怖いからいえない。

「それで、褒められにきたんじゃなくて、お前は魂を納めにきたんだろう? ここじゃなんだから、あがっていけよ」

 といって、大地が鍵を出して裏口を示した。神主の後をついていき、良平も靴をぬぐ。二人してうす暗い社のせまい廊下を、ニスの匂いにつつまれながらあるき、北の角にある書斎に入る。

 良平は立てかけてあるパイプ椅子をひろげた。大地が書斎の椅子に背すじをピンと伸ばして座る。

「こいつです。幸子さんも見てくれてます」といって、良平は肩掛けカバンを開け、整理された机のうえに小瓶を二つ並べた。大地が手にとって、それぞれ光に透かすように見る。

 天井からつるされた裸電灯が、四畳ほどのせまい部屋を照らしている。本棚と机と椅子だけの質素な書斎だ。木材と紙のほこりっぽい香りがする。

「問題ない、ありがたく受けとるぜ。こっちはまた、ずいぶんときれいな魂だな。……若かったんだろうなあ」

 大地がめずらしく、感じ入った声でいう。

「わかるんですか」と聞くと、神主はうなずいた。

「仕事で長く見てるからな。大まかに持ち主の姿を想像するぐらい、できるさ。もうひとつは、四十くらいの男だろ」

 当たっていた。そういわれて、良平も昨夜の少女を思いうかべる。首筋のピンクの線、死をよろこんでいた表情、きれいだね、と彼を褒めてくれた声。つい感傷的になり、胃が痛んだので、頭を振って、パイプ椅子から立ちあがる。それがぼくの選んだ仕事だ。

「なんだ、急いで帰らなくってもいいだろ? 今日は客が来るから、ちょっとゆっくりして、おまえの顔を見せてやってくれよ」

「お客?」心当たりがなかった。「僕にですか?」

「ちがう。おれの客だけどよ。……なんだ、なんか期待したのか?」

 といって、大地が大きな手のひらで良平の背中をバンバン叩く。大げさでなく、部屋の空気がびりびり震える。

「いたっ、いたたっ、いたいいたい痛いって! ちょっと待って!」

「よーし、ちょっと待ってやろう」

「いや、そうじゃなくて」といったあとで良平は言い直した、「大地さん、お願いですからやめてください」

 大地が満足そうな笑みを浮かべて、両手を下ろす。背中の芯がまだ震えているように感じた。とんでもないバカ力だ。

 大地はもともと東北の農家の次男だったのが、日本の神様や霊魂に興味があって、北海道から沖縄まで、体を鍛えながら日本じゅうを歩き回っているうちに、神霊と深く関わりたくなって、神主の職に就いたそうだ。

 神と人と自然をつなぐため、山篭りして滝に打たれることもあり、体の鍛えかたが常人とかけ離れている。神を体に降ろすこともできるともいっていた。いっそ人間じゃないだろ。

 良平が背中をさすっていると、表から大地を呼ぶ声が聞こえた。お客さんが来たらしい。

「おおーい、おじいちゃん、居ないんなら、帰るよーっ」

 二人が表へ出ると、冬の陽だまりのなか、小柄な少女が境内の前庭に立っていた。

 その少女に、良平は見覚えがあった。というか、一昨日、駅前で話をした。たしか、藤原 御小兎という名前だった。金曜日と同じコートを羽織り、デニムとスニーカーを身に着けている。髪の毛は下ろしていて、長い黒髪が風に流れ、光りながらゆれていた。

 まさか、彼女が大地の孫とは意外だった。しかし、そう思って見れば、髪の毛のツヤなんかに、似た雰囲気が感じられる。

「『おじいちゃん』ですか。……お孫さんなんですね。いいですね、なんかそういうのって、心があったまりますよねぇ」

 と良平はしみじみいった。可愛い孫が訪ねてくる、それを誰かに見せたい、自慢したい。……いい話だ。

「む……孫?」と、大地がこっちを向いて困ったような顔をしながら、眉間を指で押さえた。

「はい。可愛いお孫さんですねえ」

 照れることないのに。そう思って、良平は大地と御小兎を交互に見る。

「うふ……おじさん、うまいこといいますね」

 といって、少女が良平のほうを向いた。聞こえたらしい。なんか、肩がふるえてるぞ。

 祖父と孫は、どちらも顔を引きつらせている。笑ってすませたいけどそうもいかない、という風だった。

 ジャリ、と砂を鳴らし、御小兎が良平ににじり寄ってきた。笑顔を作ってるんだけど、本気の目をしている。目の前で、少女の身が低く沈む。危険を察知し、良平は両手で顔をかばった。しかし無駄だった。

「……孫なわけ、あるかーっ!」

 素早く的確なショートアッパーが繰りだされ、良平の鳩尾にめりこんでいた。彼は体を「く」の字に折って膝をつく。なにこれ、痛すぎる……。

「なんで、どうして、こんな目に……?」

 良平はダンゴ虫みたいに丸くなり、涙目で聞いた。

「あたしは、高校生なの! 小学生じゃないって言ったでしょっ!」

「わりいな。おれも歳は食ってるけど、まだ孫ができるほどじゃあねえ」

 明るい前庭の上で、御小兎と大地が握手を交わす。良平は視界がぼやけて、二人から遠くはなれていく感じがした。


  3

 御小兎は良平をぶちのめしてから大地と話をして、神社を出るとすぐ、綾にメールを送って夕飯に誘った。

 夕食どきだというのに、牛丼屋『北開楼』は空いていた。御小兎と綾は魂取駅前商店街の外れのこの店『北開楼』のボックス席で向きあい、牛丼並盛をつついていた。時間は午後八時をまわったところだ。

『北開楼』は二人の行きつけのたまり場だった。カウンターとボックスそれぞれ十席程度の、ひろくも狭くもないお店で、そこそこ流行っているが満席になることなく、いつ来ても二人で座れる。四十過ぎの声の大きい店長さんは、長居していても嫌な顔ひとつ見せない。料理はどれも安くて量がそこそこ多く、手作りっぽい味が魅力的だ。

 御小兎が紅ショウガを丼のまんなかにどかどか乗っけると、綾が苦笑いする。

「え、綾ちゃん、紅ショウガ、嫌いだったっけ?」

「嫌いじゃないけど、最近、その色が気になっちゃうんだよねえ」

 綾と御小兎が『北開楼』に来るのは、二ヵ月ぶりのことだ。高校に入学した頃は、もっとひんぱんに来ていた。ハンバーガーより牛丼の方が美味しいし、体にもいいという点で、二人の意見が一致したのだった。

 御小兎にとって、綾は初めての友達で、親友だった。少なくとも、一年前まではそうだ。でも、いまは分らなくなっている。

「そういえば、話したいことがある、ってメールだったけど、どうしたの?」

 食べはじめるとすぐ、綾が手を止め、思い出した顔つきで聞いた。

「ああ、あーっと」御小兎はうろたえて理由を考えたけど、なにも思い浮かばない。本当の理由は――魂をとられたんじゃないか、なんて――話すにはあまりに現実離れしている。

「えーっと、その……綾ちゃんは元気?」

「うん。用事って……それ?」

 といって綾がきょとんとした顔をする。それから、肩をふるわせだした。

「ぶっ、あはははっ。それを聞くためによびだしたの? もーっ、おっかしいなあ」

「ごめんなさい。だって、虫が知らせたというか、急に心配になったの。だめ?」

「えー? 別にいいよ。いいけど、あー、おかしい」

 綾がおなかを抱えて、こっちを見る。御小兎は恥ずかしさが込みあげて、ふいと横をむく。すると、急に白い手が伸びてきて、少女の頭をぐりぐりなでた。

「まあまあまあ、かわいいんだからあ、もーっ」

 そういいながら、目に涙を浮かべている。クリーム色のブラウスの胸元にのぞく、淡い水色のスカーフが、綾の首にぴったり巻きついていた。

 綾がいつもと変わらない風に、笑っている。それを見て、御小兎は苦しくなった。牛丼の味が消えて、出会ったころのことを思いだす。


 物心がついた頃から、御小兎は霊が見えた。妖怪も見えた。

 例えば、小学校のクラスメイトと道を歩いていて、御小兎がおばあちゃんに呼びかけられ、話を聞くために立ちどまっても、その生徒におばあちゃんの姿は見えない。例えば、御小兎が河童の勝太郎と話しをしているとき、他の子供からは、独り言を話しているように見える。

 そのせいで友達が居ないのだ、ということに両親が気づき、小学五年生のとき、大地に霊能力を封じてもらった。

 ところが、御小兎は一人のままだった。クラスメイトは相変わらず少女を恐れたままで、少女もまたクラスメイトが怖かった。

 ――どうして、綾はだいじょうぶなんだろう。

「はじめましてー。……よっこいしょっと、狭いバスだねえ。……はいこれ、あげる」

 中学になり、一学期のハイキングで、御小兎に初めての友達が出来た。

 綾はのど飴を渡しながら話しかけてきた。御小兎は話し慣れてなくて、「はじめまして」を返すのに、三十分もかかった。まるでしゃべれなかった。でも、綾はニコニコしながら隣にいて、お昼ご飯をいっしょに食べた。帰りのバスでも隣りの席に座った。

 ――なんでこの人、こんなに耐えられるの?

 綾は、御小兎をいつも許してくれた。待ち合わせに遅刻しても、切符の買い方を間違えて電車に乗れなくても、敬語がうまく使えなくても、綾は奇跡的な我慢強さで、御小兎が失敗しなくなるまで、隣で待っていた。

「御小兎って、なんでこんなにかわいいんだろ?」

 綾に言わせると、御小兎が時間をかけてがんばっているところを見ていると、小動物的でたまらなく可愛い、らしい。謎だった。

 ともかく、中学生のあいだ、二人はほとんど毎日いっしょにいて、くだらない話で笑っていた。

 高校生になると、綾はファミリーレストランでアルバイトを始め、店長のおじさんと付き合いだした。

 綾との距離がゆっくりひらいていくのを、御小兎は感じ取った。それでいいんだと、御小兎は自分に言い聞かせた。綾が自分といてくれることが、そもそも不思議だったのだ。

 御小兎にも、いい加減に変化があり、以前に比べて、彼女は他人を怖がらなくなっていた。いっしょに出かける友達は出来なくても、クラスメイトとはちゃんと話をする。それも綾のおかげだとわかっている。なぜなら、人間が他人を許せるものだってことを、綾が教えてくれた。

 それに、綾が幸せそうに見えたから、離れていてもうれしかった。ほんとうに、さ。もしかして結婚しちゃうのかな、なんて想像させるくらい。うれしそうな雰囲気を感じたから。

 二年生に上がるころには、二人は月に一度、話をするかしないかぐらいの仲になっていた。

 御小兎は吹奏学部に入ったけど、周りのレベルの高さにびっくりして退部したり、新聞配達のアルバイトをしようと思ったけど、年齢を疑われて不採用だったり、見学に行った科学部に、その場の勢いで入部して、だらだらと部室に入り浸ったりしていた。それでも、御小兎の頭のすみには、いつだって綾が居た。

 いまから二ヶ月前、綾から、ファミレスの店長と別れた、という話を聞かされた。

「けっきょく、若い子じゃあ、だめだったよー!」といって、綾は大げさに机に突っ伏した。無理しているような明るい声だった。

 いまと同じく夕方、いつもの『北開楼』で、二人は牛丼特盛をやけになって食べた。でも、他に変わった様子はなく、嘆きおわると、その日も綾は御小兎の頭をなでて笑ってたっけ……。


「御小兎って、なんでこんなにかわいいんだろうねえ?」

 御小兎は我にかえった。綾がまた彼女の頭をなでている。それから、急にさみしそうな顔をして、「ごめんね。心配させちゃうよね、あたし」と今度はつぶやくようにいう。

 急な変わりように、御小兎にはなにも答えられなかった。

「なーんて、だいじょうぶ、だいじょうぶだからねっ」

 御小兎の頭から手をはなして、綾が明るくうなずく。二ヶ月前と、よく似た表情に見える。ころころ変わる綾の仕草に、御小兎はついていけない。綾がなにを考えてるか、よくわからないよ。

 ――あたしの思いすごしならいいけど。

 今日の昼間のことだ。本を借りるために神社の書斎にあがり、大地が本を探しに行っているあいだ、机に並んだ小瓶が御小兎の目にとまった。内部に満ちている夜そのもののような色の液体に、目が吸い寄せられ、彼女の体は震えだした。

 その液体のなかに、綾が居るように感じたのだ。

 ――これって、綾ちゃんにとって、すごく大事なものなんじゃない……?

 神社を出ても不安が消えなかったので、御小兎は綾を呼び出した。メールの返信があるまで、すでに彼女が死んでしまったんじゃないかと、気が気でなかった。

 ところが、綾はいつもの様子で、ほほ笑んで御小兎の頭をなでている。化かされたような、不思議な気がした。

「急にごめんなさい、ありがとう。ほんっとうに、心配だったの」

「いいよう。久しぶりに、『北開楼』の牛丼が食べたかったもん。おいしかったー」

 と店の前で言葉を交わし、おたがいに手を振ってわかれる。

 くすぐったいような気分で、御小兎は彼女の背中を見おくる。そのとき、はげしい悪寒が、御小兎の全身をつらぬいた。

 ほんの一瞬のことだ。周囲の人たちの背中には魂があるのに、綾にだけそれが無いのが見えた。

『のっぺらぼう』という童話で、人の顔がない、ということに驚いて腰を抜かすシーンがある。魂がない人というのは、顔のない人と同じくらい、御小兎には怖ろしかった。

 限りなく死に近い、その状態に、御小兎は覚えがあった。一昨日、老けた顔をした死刑執行人が斧を振ると、綾と同じように、中年男性の魂が消えていた。

 ――あいつだ。たぶん、良平だ。

 御小兎は鞄から携帯電話をとりだし、良平の住所を聞くために、電話帳で大地の名前を探しはじめる。焦りと恐怖がごちゃ混ぜになって、ちいさな体のなかで渦まいていた。


 その夜十一時半ごろ、良平が歯磨きを終えて、横になろうと布団をめくった時、玄関のチャイムが鳴った。無視して寝ようと思ったけど、布団に入ったところでもう一度、鳴る。それだけでなく、ドアをゴンゴン叩く音が聞こえてくる。

 良平は仕方なく起きあがり、パジャマの上にコートを羽織った。

「たのもう! たーのーもーう!」 

「どこの道場破りだ!?」といって良平がドアを開けると、御小兎が立っている。良平を見つけると、片手を腰に当て、もう片手で彼の顔を指した。

「あーっ、出ましたね、極悪人! あたしはあなたにいいたいことがあります! ……覚悟はいいですか?」

「いや、だめ。ぜんっぜんよくない。なぜならぼくは眠い。明日にしてください。ごめんなさい。おやすみなさい」

 といって、良平はドアを閉めた。ゴンゴンゴンゴン、と再度ドアを叩く音がひびく。

「まちなさい! 明日なんてだめです! 人は、失った時を、二度と取り戻せない生き物なんですよ?!」

 いいかたが詩的で、いやにうざかった。しかし、ゴンゴン鳴り止まないので、たまらない。近所迷惑になるのが嫌なので、良平はしぶしぶドアを開けた。

「こっちの話を聞く気がないんだったら、いちいち僕に断らないで、はじめから用件を言えばいいのに……」とせめて嫌味をいっておく。

「だって」といって御小兎がほんの少し語気をよわめる、「こんな夜更けに押しかけてきて、相手の合意もなしに文句をいおうなんて、まるで迷惑千万なやつじゃないですか」

「きみ、いちおう自覚はあるんだね……」

 良平がため息をつき、どうしたものかと思案していると、背後から声をかけられた。

「あらま、楽しそう。おふたりさん、こんな時間になにしてるの?」

 振りむくと、黒地に白猫模様のパジャマを着た幸子さんが、二人を見ていた。片手を口にあててアクビをし、反対の手をあげて背伸びすると、藍色の髪が肩から胸元のふくらみにかけて流れる。

 良平は目をつむって、生つばを飲み込んでから弁解した。

「起こしちゃってすいません。この子が押しかけてきて、話があるっていうんですが……」

 そこで、あらためて訪問の理由を知らないことに、良平は気づく。

「ごめん。きみ、なんの用事なんだっけ?」

「む、むーっ」と急にうなり声をあげ、御小兎がだまった。視線が幸子さんに向けられてるところをみると、ほかの人間に聞かれたくない話なのか。

「もう、だめじゃないの」

 まったくだ。もっといってください幸子さん、と思ったけど、良平の見積もりは甘かった。

「このクソ寒いのに、お友達を玄関に立たせたままお話しちゃあ、いけません。……さあお嬢さん、狭い家だけど、あがっていってちょうだい」

 きょとんとする二人を置いて、幸子さんが、「お茶を入れますからねー」と楽しそうにいいながら引っこんで、台所からヤカンに水を入れる音が聞こえだした。

「えーっと、あたし、あがっちゃっていいんですか?」

「うん。もう、すきにしたらいいよ……」と投げやりに言い、良平はサンダルを突っかけ、歩いていって開きっぱなしになっている門を閉じた。

「ぁ、ごめんなさい……ありがと」

 消えてしまいそうな声に、良平が振りかえると、少女はもうドアの前にいなかった。玄関をの鍵を閉め、無造作に散らばった小さな茶の革靴をそろえてから、自分もサンダルを脱ぐ。キッチンから、紅茶のティーバックをパリパリ開ける音が聞こえてくる。

 十分が経ったころ、三人は幸子さんの入れてくれた紅茶をすすりながら、居間の古ぼけたコタツを囲んでいた。良平と御小兎が隣に並び、向かいに座った幸子さんが、砂糖を三杯入れたカップのなかをスプーンでかき混ぜる。

 さっきから、幸子さんが笑顔で御小兎に話しかけ、緊張をほぐそうとしている。良平は二人の話を聞いて、御小兎が訪ねてきた理由を推測する。紅茶はカモミールだった。

「本当に、ごめんなさい。起こすつもりなんてなかったんです。つい、我を忘れて……」

「謝らなくっていいっていってるじゃないの。若い二人なんだから、色々とあるわよ」

 ぺこぺこ頭を下げる御小兎を、幸子さんがかばう。しかし、方向が間違っている。なにもありません。

「そうそう、挨拶が遅れたわ。私は良平くんのお母さんで、幸子っていうのよ」

「はいっ、あたしこそ申しおくれました。……御小兎といいます」

「御小兎さん、うんうん、可愛い顔に、可愛い名前ねえ、それで、二人はどんな関係なの?」

「ええー? あたしとおじさんの関係ですか?」と御小兎が良平を見てとても嫌そうな顔をした。「……赤の他人です」

「そうなの?」と幸子さんが聞きなおす。「赤の他人は、夜の十一時半にドアを叩きながら『たーのーもーう!』なんて言わないものよ。そういうのって、ヤクザか道場破りでなければ、友だちやなんかが、悪ふざけでするものでしょう?」

 御小兎がだまって、良平を睨んだ。どうなの、あたしたち友だちなの? と目つきで訴えている。良平が小さく横に首をふると、少女が納得した様子でうなずいた。ふたり同時に、口を開く。

「「ちがいます、赤の他人です」」

「そうなの? ……でも、気が合いそうね、あなたたち」

 ――これは、ラチがあかないな。

 御小兎の様子を見ながら、良平は小さくため息をつく。ついさっき玄関で吠えていたときの剣幕が、いまは感じられない。こちらから尋ねたほうが、話が早そうだ。苦情のつづきを聞かされるのはは嫌だが、死刑執行人になると決めたときから、良平は他人に恨まれる心構えで生きてきた。

「それで、こんな時間になんの用事なんだい? きみは、『いいたいことがある』っていってただろ」

「……うん、いった」と少女が答え、腕組みした。

「まず、確認させてください。うちの高校の二年四組で、羽佐間 綾って子、知ってますか?」

「知ってる」と良平はうなずく。急に息苦しさを覚えた。

「綾ちゃんは、あたしの友だちなの」御小兎の声がふるえる、「おじさんは綾ちゃんの魂を刈ったんですか?」

「うん。昨日の夜、僕が刈った。彼女は……長くても、一週間程度で死ぬだろう」

 それを聞くと、少女が体をこちらに向けた。

「どうして、どうしてよ?」

「だってそれは――」死刑執行人の手で魂を刈られたものは、と説明しかけて、口が止まる。それは一昨日にも話したことだった。

 なぜ友人が死刑にされてしまうのか、と御小兎は聞いている。その説明には、ひどく骨が折れるだろう。だって、どんな説明をしても、ひとの命を奪う行為に正当性なんてない。良平もまた、近しい人の命を失う辛さは経験していた。

 泥をはき出す気分で、良平は口をひらく。犠牲者の友人ならば、理由を知り、殺人者を糾弾する権利があるだろう。

「羽佐間 綾は、これまでも、いまも、自殺未遂をしていて、心が壊れそうで、自殺してしまう可能性が高いんだ。そういう、死に近い魂を刈って……黄泉の国の神へ捧げるのが、死刑執行人の仕事なんだよ」

 そういって、良平は御小兎の反応を見た。信じられないものを見る表情が浮かんでいる。彼女が無言ではげしく首を振るので、良平はつづけて説明する。

「黄泉の国の神、って想像つくかい?」

「つきません。神様なんて、そもそも居ませんよ。百歩ゆずって居たとしても、生贄みたいに人を殺すなんて、あたしから見たら異常行為です。反則、だめ、絶対禁止」

「きみが否定しても、黄泉の神はいるよ。それから、もし人間が神になにも捧げなかったら、神は勝手に降りてきて、人の魂を強引に食べるんだ。……それを防ぐための死刑執行人なんだ」

 といって、良平はまた御小兎の様子をうかがう。いま少女はうつむき、前髪に顔がかくれていて、考えはわからない。顔をあげず、御小兎が途切れとぎれに確認してくる。

「まいったな。いまの話は、ぜんぶ本気なんですか? 綾ちゃんが、自殺、しようとして……そのせいで、魂を取られて、生贄にされてしまう……?」といった声は濡れていた。

「うん」と良平は罪悪感に顔を歪めて、うなずく。

 ぎぎぎ、という歯ぎしりの音が、少女の唇からもれる。御小兎はマグカップの取っ手を持ち、体の向きを直して紅茶を一口飲んだ。心を落ち着けようとしている風に、良平には見えた。やがてカップを置くと、「おじさん、あたしは質問が二つあります」といった。

「綾ちゃんが、どうして死のうとしてるのか、その理由はわかりますか?」

「いや、知らない。昨日の夜まで、自殺しようとしてたってことも、知らなかった。僕が自分のことを死刑執行人だって名乗ったら、『自分で死ぬから、間にあってます』って彼女はいったんた」

 良平は昨夜を思い出して答えた。まるでそれが聞こえなかったかのように、御小兎はぼう然とコタツの板に視線をむけた後、また聞いた。

「……もう一つ。おじさんは、黄泉の神様というものを、見たことがありますか?」

「うん」といって守矢 良平はうなずく。一度だけだが、仕事をはじめたばかりのころ、神主の大地の体に降りた黄泉の神の姿を、見たことがあった。白銀色をした、全長五メートル位の狼の姿だった。

 御小兎が顔をあげる気配がした。体が再び良平のほうを向いている。色の濃い黒目が光るように感じた。

「――黄泉の神様の魂は刈れますか? 戦って、綾ちゃんの魂をあきらめさせること、出来ませんか?」

 と少女がまっすぐ良平を見て、真剣な声で尋ねた。少年は口をあけたまま、答えにつまる。気持ちを落ちつけるために、紅茶を一気にカップ半分飲み干した。

 ――そんなこと、できるのか?

 黄泉の神と戦うなんて、これまで考えたこともない。人を殺しつづけるこの仕事に疑問を持たなくもないが、死刑執行人とはそういうものだ、と割り切っていた。混乱して、良平は思ったことをそのまま口にする。

「僕にはその発想はなかった。……戦う、って急にいわれてもなあ」といい、助けを求めて横をむいた、「いや、どうにかなるもんなんですか?」

 幸子さんはカモミールティーを静かにすすっていた。二人とは反対にすずしい顔をしている。

「あたしはおじさんに聞いてるんだよ。見たんだったら、どうだったかわかるでしょう?」

 良平は途方にくれた。「……そういわれても、その時は『森夜』を持っていなかったから、魂があるかどうか見えなかった。あの斧を持っていれば、見えるだろう。でも、戦うなんて……無理だろう」

「どうして無理なの? あたしは神様に勝とうっていうんじゃないんです。もし戦えば、魂の一つくらい諦めてもらえるかも知れないじゃないですか。おじさんが無理なら、あたしが戦います。あの斧、『森夜』って言うんですね。それを貸してください」

 とさっきまでよりさらに身を乗り出して、御小兎がいった。良平は頭が痛くなってきた。残念ながら、『森夜』を貸すのは職務規定違反だった。かといって、自分が黄泉の神と戦うのも現実離れした考えに思える。しかし、少女のまなざしは、友だちを助けたいという切実さがあり、無視するのも胸が痛い。板ばさみだった。

 もう無理、手に負えない。良平は弱りきった声で、幸子さんに丸投げする。

「幸子さん、あのう……どうにかなります?」

 紅茶を飲み終えた幸子さんが、引き締まった表情で良平の顔を見た。それから彼女は無言のまま、カップを持った右手を頭のうえに上げたかと思うと、ソーサーをめがけて二度、勢いよく打ちつける。

 カンッ、カンッ! という甲高い音が、深夜の居間に響きわたった。

「せっ……」「せ?」「静粛にいいいいいっ!」

 誰だっけ、この人。そう思って良平はコタツの向かい側を見た。幸子さんがピンと座り、なぜか半笑いでカップの取っ手をにぎっていた。なんだろう、ちょっとイラッとするぞ。

「判事、藤原 御小兎くんっ、被告人守矢 良平の罪状を読みあげなさい!」

 ――なに、これ? なんの裁判なの?? 

 いつの間にか、良平は被告人にされていた。急な事態についていけないので、同志を求めるつもりで隣を見る。しかし、御小兎はすでに判事の顔をしていた。

「罪状っ!?……はっ、裁判官どの!」と御小兎が思いだした様子で挙手をする。裁判官どの、って幸子さんのことか……。「この際、はっきり言わせてもらいます!」

「被告人守矢 良平は、罪もない少女の魂を奪いっ、命を亡きものとし、あまつさえその魂を黄泉の神に売り飛ばそうとしています! これはっ、殺人っっ、殺人事件ですっっっ!」

 そういって御小兎が胸をはり、人差し指で良平の顔をさした。だからこの二人、なんでノリノリなの?

 良平はたまらなくなり、二人に聞き返す。

「きみたち、ぼくが被告人だっていうのか? それなら、弁護人は? 裁判なら弁護人がつくはずじゃないか」

 すると、幸子さんがどこから出しているか分らない声で被告人を呼んだ。

「被告にぃいいいいいいんっ!」

「はいっ?」とおもわず良平は背筋を伸ばす。

「あなたは弁護人を雇ったのですか!?」

「いや、なにしろ、急な裁判だったもので、雇ってないけど」

「雇ってないなら、自己弁護! 人類は古代から裁判の場で意見を戦わせ、正しさを主張し、個人の権利をもぎとってきたのです!」

 と、さっきの御小兎よりも、さらに理屈っぽくてめんどくさいことを言う。古代や人類単位で説教をされたら、一介の高校生にどんな反論が出来るだろう? 

 痛む額を手で押さえてやり過ごそうとしたが、裁判官が追及の手をゆるめてくれない。

「被告人は、けっきょく、やったんですか、やってないんですか、どっちなんですか!」

「やったかやってないか、っていわれたら、そりゃまあ……やったよ」

「あーっっと!」と御小兎がいい、得意そうな様子で、コタツの板を拳でたたいた。マジでむかつく。「認めた、認めましたよ、この男! さささ、裁判官っ、被告人は、いまや自らの過失を認めるにいたりました! 彼のあわれなる魂に有罪判決を!」

 良平はこの裁判ごっこにげんなりして、「誰が、あわれなる魂だよ」と小声で反論するにとどまった。

「あんたよ! 殺人の罪を自覚しながら、誰に裁かれることもない! これをあわれといわずして、なんといいますか!? さあっ、いまこそ罪を償ってください!」

「もう知らない」

「知らないって、あんたねえ、あんたが殺したんでしょう、この、む、む、むっ、無責任男!!」

 と御小兎が肩を震わせていった。よく見ると、目には涙を浮かべている。幸子さんがそれを見てカチカチとカップで音を鳴らし「被告人、有罪」といい加減に判決を下す。

「助けてよ、なんとかしてよ、おねがい」と泣きながらお願いされた。

「有罪とか助けてとかいわれても」良平は弱りきった声を出した。「申し訳ないけど、僕には助ける方法があるのかどうかさえ、わからないんだ。どうすりゃいいんだか……」

 出来るかどうかわからないから、良いとも悪いとも請け負いようがない。途方にくれて、幸子さんのほうを見ると、彼女は悲しそうに首を振った。

「男の子はねえ、言いわけしたりしないの。めっ」

 めっ、っていわれても。歳をサバ読みすぎているせいで、残念ながら、可愛くなかった。

「言いわけじゃなくって、事実です……」

「だって、だって綾ちゃんが死んじゃうんだよ。ちくしょう、だめだよ、どうしよう……」

 御小兎の目からあふれた涙が、コタツの板のうえにポタポタ垂れる。

「あらあらあらあら」

 日本には泣く子となんとかには勝てない、という格言がある。「わかったよ」といって、良平はカップに残っている紅茶をあおった。

「僕にやれるだけ、やってみる、ひとまず明日、神主のじいさんに聞いてみるよ」

 良平はため息といっしょに言葉をはきだす。

「死刑執行人にできることなんて、たぶんないから。期待はしないでくれ。僕も期待してない」

  4

 月曜日の朝、綾はいつものように、午前四時四十五分に目を覚ました、目覚まし時計を止め、昨夜はなにもなかったかと残念に思いながら、茜色の掛け布団をはねのける。

 一昨日の真夜中、『死刑執行人』を名乗る人が、綾の部屋に忍び込んできた。彼は青い髪のちょっとかっこいいお兄さんで、真っ黒い斧で綾の魂を奪って出て行った。もしかしたら、また会えるような予感がしてたのだ。

 ――死刑執行人が来るかもしれない、なんて期待しちゃダメだね。

 彼女はのんびり起きあがって、整理されている部屋を横ぎり、MPプレーヤーのスイッチを入れた。アクビしながら、弾むようなリズムの音と優しそうなヴォーカルの声を聞き、頭を働かせていく。

 窓のそとで、朝焼けが雲のなかで赤く光るのを、綾は眺める。

 まだ両親と弟たちが寝ているうちに、綾は身支度をはじめる。だって、みんなが起きる前に着がえて、首にストールを巻く必要があるし、できれば朝ごはんも用意してしまいたい。赤ちゃんを降ろして、自分ひとり生きている負い目が、彼女にそうさせる。

 音をたてないように、洗面所と部屋を往復して、着替えを済ませ、綾は階段を降りてキッチンで冷蔵庫を開ける。

 ふと、涙が出てきたことに気づいた。なんだろう、この悲しさ。あたしには泣く資格だって、無いはずなのに。皆寝ているはずだけど、万一を考えてトイレに座り、額を膝につけて、感情の波をやり過ごす。

 ――生まれる前の子を殺してしまった人間は、どうしたら許されるだろう。

 綾は、身ごもっていた子を自分の意志で降ろした。堕胎したあとに襲ってくる罪悪感のことを考えず、ただ恋人とその家族に対して、頭に血がのぼったばかりにやってしまった。

 彼が悪かったわけじゃない。両親の言い分も的を射ていた。綾自身にも非があったとは思わない。それなのに、子供を殺した罪悪感はいつまでも生々しく、日に何度も心をおそう。

 ――ごめんね。どうして、あたしはこうなんだろう。ごめんね。ごめんね……。

 あのとき、なんで殺してしまったのか。なんで許されるなんて考えてしまうのか。理由がわかっていても消えない後悔が、時間をこえて甦り、いまの綾自身までも、徹底的に否定する。

 十五分後、よし、とつぶやいて涙の止まった顔をあげた。

「ああ……もう、なんで、あたし、泣いちゃうかなあ」

 ぐちを言いながらキッチンに戻って炊飯器を開け、少女は残りご飯の量をたしかめる。三合ぶんはありそうだから、新しく炊かなくても、茶碗五杯に足りるだろう。簡単なおかずを準備するため、乾きかけの目でふたたび冷蔵庫をのぞく。タマネギとトマトのオムレツに、レタスを添えればそれなりに見栄えのする一皿になる。昨夜の味噌汁もまだ残っていた。

 献立を決めると、料理を始めるまでのあいだ、綾は食堂の椅子に腰かけ、ぼーっとした。家のなかだったら、キッチンでぼーっとするのが、いちばんいいのだ。部屋にもどると、他人の目がないので、いつ死にたい気持ちがやってくるか、わからない。他人と一緒にいるか、人が来そうな場所にいれば平気だが、夜と孤独は綾の心を追いつめる。

 ――もう、四ヶ月も経ったのに。

 八月の半ばすぎ、綾は妊娠に気づいて、恋人を連れて彼の家に行ったが、両親から二人の関係を否定されたために、その場で口論になった。御両親は、二人が若すぎるし、軽はずみに子供が出来たのは二人に考えがないからだ、というもっともな主張をした。恋人は二十七歳、羽佐間 綾は十六歳だった、じっさい無計画だったせいで、気づいた時にはもう妊娠して二ヶ月近くに差しかかっていた。

 恋人の両親に受けいれられるかどうか、事前の予想では、綾は五分だと思っていた。そこで、たとえ厳しい言葉を浴びても、恋人がかばってくれるはずだと信じていた。ところが、彼は年上らしさを抜け目のないほうに発揮して、両親と綾と双方の顔を立てる態度をとった。

 振りかえれば、恋人は両親と綾と、双方の顔を立てたかったのだろう。だけどあのとき、綾は一人の味方もなく、おなかにいる子供ともども、ご両親から邪魔者のようにみなされた。それなのに、彼が苦笑いをうかべて「しょうがないじゃないですか」なんて、自分の親に敬語で話すのがゆるせなくて、彼女は文句を言った。

「勝手なこと、言わないで」と一度いいだしたら止まらなくなって、終いには彼の顔を平手で思いきり叩いた。涙をこらえながら、頭をさげて外に出ると、夕立が降ってきて、綾の体をぬらした。

 一週間後の夜、綾は娘を殺した。それが自分に出来る、精一杯の抵抗にちがいないと思った。注文した薬を、飲むだけでいいんだから、あっけなかった。

 その日から、彼女の夢に、娘があらわれだした。娘は次の夜もまた次の夜もやってきた。週に五日か六日、女の子と綾はいっしょにいて、出かけたり、家でご飯を食べていたりする。それは夢らしくない、ありふれた日常の風景なのに、ただ、綾に娘がいることだけが、現実とちがった。もしかしたら、手に入ったかもしれないのに、自分自身の手で壊した未来が、夜毎に、目のまえで繰りひろげられる。寝るのが怖くなるまで、そう時間はかからなかった。

 ――私のほうが、死ぬべきなんだよ。

 と、心のなかの自分が自分をののしる。

 ――死んだら、あの子に会えるかな。

 と、会えなくなってしまったあの子に、会う方法を考える。

 さらに一週間後、綾は初めての自殺未遂をした。あの子のために、自分が出来ることなんて、これしかない。そう考え、失敗してしまったけど、深夜一時に真っ暗な部屋に寝そべり、首筋の絞め跡を撫でていると、奇妙に満ち足りた気持ちが、震えている体を満たした。

 ――あたしができることって、これしかないもんね。

 生まれる前に亡くなった子のために、死ぬこと。

 それが、でも、なかなかうまく出来なくって、まだ死に損なっている。

 二階から、人の起きる物音が聞こえてきて、綾は我にかえった。鼻をかんで、蛍光灯のスイッチを引っぱる。この時間になれば、人目があるので、もうだいじょうぶだ。

 綾は食堂のテレビをつけて立ちあがり、朝ごはんの準備にとりかかった。日が暮れるまでは、生きていられるだろう。


 月曜日の昼休み、良平は校庭の隅で弁当を食べたあと、渡り廊下を歩いて教室に戻りながら、大きなアクビをした。夜遅くはじまった裁判のせいで、昼ごはんを食べたとたんに、元から細い良平の目は閉じてしまいそうになる。

「あのー、こんにちわ」

 と、良平は後ろから誰かに呼び止められたような気がした。彼は首を振った。学校のなかで『無視』されることがないとは思えない。死刑執行人の特殊な力のせいで、良平は誰に話しかけても空気のようにしか扱われない。まして、話しかけられたことは、これまでにまだ一度もなかった。

「気のせいだな」

「ええー? ちがいます」

 おかしいぞ、会話が成立したような感じだ。いや、そんなはずが無いぞ。そうか。最初に呼び止められたような気がしたのが、そもそも気のせいってことだろう。

「これはつまり、空耳だな」

「ちがいますよ」

 ――空耳は、返事なんてしないはずだけど……?

 またひとつアクビをして、渡り廊下をてくてく歩く。天気がよくて、まぶしいくらい白い光が、廊下のタイルに跳ね返っている。

「ねえってばー、二年D組、守矢 良平くん、だよねっ?」

 名前をフルネームで呼ばれて、良平は足を止めた。しかし、そんなはずは無い。すると……? なるほど、ぼくと同姓同名のクラスメイトがいるにちがいない。明日のホームルームは、点呼の名前を聞くため、久々に起きていることにしよう。そう自分を納得させる。

「ちょっと、ちょっとー、なんでなのー?」

 すると、女子生徒が一人、早足で彼を追い越した。追い越して、立ちどまって、振り返る。少女の目が、こちらを見つめているように見えたので、良平は背後を振り返ってみた。『トイレはきれいに使ってね』という標語のポスターが貼ってある。そうか。彼女はこれを見ているわけだ。美化委員会の関係者なのかもしれない。

 急いでいるわけではないので、壁際に寄って立ち、良平もポスターをながめた。見たところ、平凡なカラーコピーだが、専門家にとっては価値があるものなのだろう。デザインとか文字のレタリングとか、最新の技術で描かれているのかもしれない。

「ねえ、良平くんはこのポスターが好きなの?」

 いつのまにか、女子生徒が良平の隣にならんでいた。やはり、よほどポスターに興味があるんだろう。それはいい、人の興味の対象はさまざまだ。

 ――しかし、なんでこの女子生徒は、さっきから僕の名前を口にするんだろう。

 自分に話しかけているという可能性もあった。本当ならうれしいことだけど、間違いだろう。これまで何度も、良平は話しかけられたと思って勘ちがいし、その度に無視されて落ち込んできた。

 だが、しかし――すると、とつぜん閃きが湧いた。今まで知らなかっただけで、もしかしたら「良平」という名前には、なにか別な意味があったのか。同音異義語、ってわけだ。そうとわかれば、謎でもなんでもない、ただ自分の名前の同音異義語を、女子生徒が口にしているだけだ。

「ふう、くだらない」

 といって、良平は知らないうちに入っていた肩の力を抜いた。

「あ……そうなの? あたしはてっきり、良平くんが美化委員会の関係者で、ポスターの専門家で、この平凡なカラーコピーが実は最新のデザインとかレタリングの技術で描かれてるのかと思っちゃったよ」

「なにいってるんだい。それは、きみのことだろ?」 

「ちがうよう、あたしは美化委員じゃないし、ポスターデザインにも興味ない、ない。良平くんが見てるから、そうなのかなー、と思ったの」

「なんだって? すると、同音異義語じゃなかったのか……? ということは、そうか、人違いのほうだったんだ」

 まったく、名前の同音異義語だなんて、まぎらわしい、馬鹿げた考えだった。そうだ、はじめから、人ちがいだったと考えたほうが、よほど自然な説明になる。

「待って、自己完結しないでよう。人ちがいじゃないよーっ。だって、きみは守矢 良平くんだよね、二年D組のっ?」

「いや、ざんねんだけど、人ちがいだよ。二年D組には、守矢 良平って名前の生徒が二人いるみたいなんだ」

「……どういうことなの? 今朝、D組の名簿を見たけど、一人しかいなかったよ」

 女子生徒の言葉を聞いて、良平は腕をくんで首をひねる。

「なんだって? 二年D組に、守矢 良平は、僕だけ……? ということは、どういうことになるんだろう?」

「どうもこうもないってばーっ。簡単だよ、きみが、きみが二年D組の守矢 良平くんなんだよっ」

 少女がそういって、こちらをまっすぐ見すえ、指で彼をさし示す。良平は信じられないという顔をして、まだ振りかえってポスターを気にした。

「ポスターじゃないってばっ、興味ないよ、ただのコピーだよっ」

「ということは……もしかして、もしかしたら、きみは僕を呼んでたのか?」

「もしかしなくても、そう、きみだっ」

 少女が断定した。ためしに良平がポスターから一歩ぶん離れると、女子生徒の指も彼を追いかけてきた。どうやら本当らしい。

「ということは、僕はものすごく失礼なやつじゃないか……なんてこった」

 といって、良平は天をあおいだ。天井のタイルに青黒いしみがあった。雨漏りが心配になったが、それよりも女子生徒に謝らないといけない。つばを飲みこんで、彼女に向きなおり、腰を百度ぐらいに折り曲げる。

「あのですね、このたびは、ほんとうに申し訳ございません。心から、深く反省いたします。僕は人に名前を呼ばれることに慣れてないもんですから……どうか、許してください」

 女子生徒はそれを聞くと驚いて片手をぶんぶん振り、「おおげさすぎるようっ、いいよ、もう、ぷ……く、あ、あはははは!」と笑い声をあげた。

 先に失礼をしたのはこちらだから、文句は言えないが、いくらなんでも、笑いすぎじゃないだろうか? 

 誠意をこめて謝ったつもりだったのに、おもしろいといわれてしまうとは、やっぱり、慣れないぶんだけ不自然さがあるということなんだろうか。しかし、なにか釈然としない。そうだ、僕はちゃんと謝ったはずだ。腰なんか、曲げすぎてちょっと痛いぐらいだ。

「はあ、はあ、ああ、おっかしい。ごめんね、だって、きみの反応がおもしろすぎるよ……ふう」

 おなかを抱えてながらそういって、ゆっくり体を起こすと、女子生徒が良平を向いて挨拶する。

「えーと、あたしはね、二年C組の羽佐間 綾だよ。よろしくっ」といい、続けて聞いた。「……きみ、死刑執行人なんだよね。あたしのこと、覚えてる?」

「ああ、一昨日の……そうだったのか」

 暗やみの中で光っていた、首筋の赤い痣が、良平の目のまえによみがえってくる。いま、彼女の首には、黄色いマフラーが二重に巻かれていた。それを見つめて息を止め、溜まった息を吐き出しながら、良平は質問に答え、あらためて自己紹介した。

「死刑執行人で、二年D組の、守矢 良平です。……よろしく」

 そういうと、自分がひどく場違いなことをしているような気がして、良平の胸がちりちり痛んだ。でも、綾はにっこり笑ってうなずいた。

 すると予鈴が鳴って、昼休みの終わりが知らされた。「またねーっ」といって、が良平の先に立って歩きだす。短めの茶色がかった髪の毛を、肩のうえ辺りでふわふわ揺れらし、廊下の角を曲がって少女の姿が見えなくなる。

 無視されていると思って、ずいぶん、失礼な態度をとってしまったようだった。ともかく、怒らせなくてよかったと、胸をなでおろしたとたん、良平は背すじがぞくりとした。

 ――あのひとが、死ぬ。

 自分のしでかしたことが急に怖くなり、肩がふるえ、床のタイルがゆがんで見えた。目を閉じ、何度か深呼吸をし、渡り廊下の壁にもたれかかって気持ちを落ちつける。

 震えが止むまで待ち、額に浮いた汗を手の甲で拭き、良平は明るい廊下を歩きだした。教室に戻ったら、パロンシンを飲もうという気になっている。

 その日の放課後、日直の良平が、黒板消しで板書を消していると、

「やっほー、こんにちは」と綾が挨拶する声が聞こえたが、良平はまた気づかないで、せっせと手を動かしていた。

 すると綾が、今度は挨拶に続いて良平の肩をポンとたたいた。

「こんにちわ、死刑執行人さん」

「む、む」とうなりながら、良平はあわてて振りかえる。教室のなかを見まわすと、良平と綾しか残っていない。

「しまった……こんにちわ。申し訳ない、また人違いかと思って」

「だいじょうぶ。きみしか、いないから」

 といって、綾が片手で口元を押さえて笑う。くちびるの隙間から白い歯がのぞいていて、子供っぽい笑いかたに見えた。

 笑いおわると、掃除したばかりの黒板を向いて、綾がおどろいた声を出した。二年D組の黒板は、緑色のガラス板みたいに、磨きあげられていた。

「うひゃあ、ぴかぴかだよ。これ、何時間かかったの?」

「二十五分ぐらい、かな」と良平は時計を見て答えた。

「やりすぎだよ! あたしなら五分で済ますよ。……きみって真面目なんだねえ」

「いや、真面目じゃないよ。仕事は丁寧にやらないと、意味がない、と教わったんだ」

 良平は気まずい気持ちで首をふった。たしかに、二十五分は、やりすぎだった。……次は、二十分以内で、済ませるとしよう。

「それで……」と良平は黒板消しをプラスチックのかごに片づけて聞く、「ええと、なにか、用事?」

「ううん、特に用はないけど」「そ、そうなの」「でも、いっしょに帰ろうと思って」

 綾は床に投げ出されていた良平の鞄をひろいあげ、持ち主に差しだしながらいう。

「死刑執行人さんの話が、聞きたい」

 鞄を渡すと、綾は先に廊下に出ていく。良平も早足で後を追った。二人並んで校門をくぐり、ひろい歩道を歩くていく。並木の桜は葉を散らして、枯れ木のように立っていた。『話が聞きたい』といいながら、綾は黙ったままだった。

 通学路の角を一つ曲がったところで、良平は気まずくなって質問した。

「きみは……僕が憎くない? 僕が、きみを殺したんだ」

 それを聞くと、綾は歩みをゆるめて、良平を見た。はっきりした口調で否定する。

「ううん。憎くないよ。きみは知ってるでしょう。あたしが死のうとしてたこと」

「そうだった」「こらこら」「でも、死のうとするのと、実際に死ぬことは別だから」

 と良平が指摘すると、綾は目を伏せた。ちょうど四車線の交差点の手前で、信号が赤に変わり、二人は立ちどまる。白いセダンが目の前を横切っていった。青信号になる前に、綾が顔をあげる。ほほ笑んでいたけど、目はうるんでいた、

「だから、わたしはきみに感謝してる。死にたいくせに怖がってた私を、ちゃんと殺してくれたから」

 信号が青に変わった。「ありがとう」といって、綾が歩きだす。

 意外な言葉を投げられて、良平は戸惑い、口を閉じたまま横断歩道をわたった。わたり終えると、また綾にならんで進んでいく。今のところ、二人は同じ道を進み、魂取駅の方角に向かっていた。良平の家は、駅を越えて反対側の住宅地に建っている。

「羽佐間さんは、どこから通ってるの?」と良平は聞いた。それはひどく間の抜けた質問ような気がしたが、綾は気にしない様子で答えた、「もうすぐだよ。あたしってご近所さんなんだ。良平くんはどこから?」

「僕は、魂取駅のむこう側なんだ」良平は道の先を指差した。それから腕を下ろして、今度は間の抜けていないことを聞く。「ねえ、羽佐間さんはどうして、そんなに死にたいの?」

「それは、ね」と答えかけ、綾が急に立ちどまった。目線が細い路地にむけられている。その脇道を行った先に、彼女の家があるのだろう。「あーあ、ざんねんでした、時間切れっ」とわざとらしくいって手を振る。「あたしの家はこっちだから、じゃあねっ」

「ちょっと待って」と良平は助けを求める気持ちで呼び止め、綾に一歩近づいた。いま聞かなければ――死んでしまったら――二度と聞けなくなってしまう。「なんで、君は自分を殺した相手に、礼なんていえるんだ? ……僕は人を殺して、お礼なんていわれたくなかった」

 回れ右の途中で、綾がこちらに向きなおり、「あたしはどうしても、良平くんにお礼がいいたかったの」と予想より明るい声をだした。

「良平くんは真面目だから、いつも人を殺した後に悩んじゃうだろうけど、たまには心配しないでもいい人もいるんだよ」

 そういうと、もう一度手を振って歩きだし、綾の姿は建物の陰にかくれて見えなくなる。良平は両手を脇に垂らして立ちつくした。少女の言葉があまりにも優しかったので、しばらくぼう然としていた。

 ――自分が死ぬことと殺されること、どちらも受けいれて、人殺しに優しくなったりできるものだろうか?


 綾と別れたあと、良平は昨日に続いて魂取神社をたずねた。鳥居をくぐって手を清め、参詣をすませてから裏口で人を呼ぶと、大地が疲れきった顔を見せた。大きなアクビをしながら、「あがっていけ」という。

 社の裏側の角部屋が狭い客間になっている。換気のためか、障子が開け放してある。二人は冷えた畳のうえに並んでアグラをかいた。

「やるねえ」といって、話を聞きおわった大地がわざとらしく口笛を吹く、「神さんをやっつける、ってなかなか良い冗談だな。おまえさんはおもしろいよ」

「冗談じゃないし、面白くもありません」「え、なに……じゃあ本気?」

 大地に聞かれて、良平は返事につまり、魂取神社の軒先をすかして、空を見あげる。杉林のうえに、ぶあつい灰色の雲がひろがっている。

 ――おれは、本気なのか?

 まさか。そういわれてみれば、『神様をやっつける』なんて、すごい字面じゃないか。

「そりゃもちろんぼくは……ぜんぜん、これっぽっちも、本気じゃありません。でも、ほら、可能性ですよ。そう、可能性ってやつは、現実に否定されるまでは、ゼロにはならないはずじゃないですか?」

「よし、否定してやる。ゼロだ」「ですよねー」

 ポン、と肩をたたかれ、良平は苦笑いでこたえる。

「で? おまえ、どうすんだ?」

「ひとまず、無理だって答えを持ちかえって、話してみます。……御小兎は納得しそうにないですけど」

 良平は表情を曇らせる。寒くなってきたのか、大地が肩をふるわせた。

「御小兎にとっちゃ、羽佐間 綾がいる意味はすごく大きいんだよ」

「くわしそうですね……御小兎さんと大地は、じいちゃんと孫以外のどういう関係なんですか?」

「あのこに霊感があるのは知ってるよな?」

「はい。本人から聞きました」

「おれはそいつを封じたんだ。霊が見える人間は、そいつらと遊んでるうちに、霊の世界に誘われることがある。人間さまには手出しできない世界さ。一度、行っちゃったら、帰ってこれないよ。だから、ついて行けないようにした」

 良平は額に手をあてて考える。

「霊の世界。難しいな……神隠しとかいわれてるものですか?」

「そうかも知れないが、俺にもわからねえ。じっさい、行って見てきたわけじゃないからな」といって、大地は立ち上がって戸を閉め、良平にむきなおると、障子にもたれかかって腕をくむ。

「おれがあの力を封じたのは、御小兎が十歳のときだったんだが、それまであの子は、生身の友達がいなかったんだ。羽佐間 綾がはじめての友だち、ってわけだ」

「あのですね、もしかして」と良平は聞いた、「……御小兎さんの友だちって、一人だけ?」

「いまのところ、あとにも先にも、羽佐間 綾だけさ」大地がうなずきながら答える。

「つまり僕は、あとにも先にも一人きりの友だちの魂を刈ってしまったんですね」良平の声が沈む。「いまさらながら、なんとかなりませんか?」

「ほんとに、いまさらだな。ならないよ」

「じゃあ、そもそも、どうして羽佐間さんだったんですか……って、ああ」

「おまえも知ってるはずだろ。羽佐間 綾の心が壊れそうだからだ」

「そうでした」といって良平は頭をかいた。思いつきをいうべきかどうか悩み、けっきょくは口にする。「その、思いつきですけど……羽佐間さんの心のほうを解決できれば、今回は見逃してもらえませんか?」

 良平の提案を聞くと、大地がぽかんと口をあけた。それから口を閉じ、頬をふくらませ、つばをぶーっととばして吹きだす。

「ぶ、ぶわっはっはっはっは!」

 神主らしくなく、手を叩いて、下品な笑い声をあげる。よっぽど突拍子もないことを言ってしまったらしい。よりかかった障子をガタガタゆらしながら、大地が良平に質問する。

「それが出来れば、確かに魂を捧げる理由もなくなるけど、心を解決って、お前は具体的になにか方法でもあるのか?」

 あるわけない。良平は片手を顔のまえで振った。

「いや、まだないです。これから、帰って、考えてみます」

「ほんとにおもしれえやつだな。羽佐間 綾の魂が死を望まなくなれば、黄泉の神さんも食う気が失せるだろうよ」

 といって、笑いすぎてにじんできた涙を大地が指先でぬぐう。それきり、客間のなかがしずかになった。いまはじめて部屋に入ったみたいに、畳の匂いが香ってくる。

 もう質問はなかったので、良平はため息をつき、立ち上がって礼をいう。

「ありがとうございます。参考になりました」

「そりゃよかった。さっきもいったけど、無理すんなよ。あと、時間はないぜ」

「えらく漠然としてますけど、時間はいつだって無いもんですよ。どういう意味ですか?」

「そのままの意味さ。明日の夜、おれは黄泉の神を降ろして、羽佐間 綾の魂を捧げる。そのために断食してるから、おれは疲れてんだ」

 ――たった一日で? こりゃ、無理だ。どうしようもない。

「まあ、やるだけやればいいよね……」

 帰り道、石段にこびりついた苔をつま先で剥がしながら、良平は神社を後にした。


 守矢家に帰ると、見覚えのある靴が玄関に並んでいた。

「あー、おかえりなさい、おじさん」と居間の戸をあけた良平に、御小兎が顔だけ振りかえって声をかける。「おかえり」「おかえりー」、と翔と響も同じように挨拶した。三人はコタツを囲んで、『ブレインステイション』の『ノリオカート』で遊んでいた。

「ただいま」といって、良平は目をぱちぱちさせる、「どういうことだ? なんで御小兎がうちの居間にいて、翔と響のあいだに座って、『ノリオカート』で遊んでるんだ……?」

 返事はない。三人とも真剣な顔つきでコントローラーを握り、ゲーム画面を見つめている。仕方なく良平は、御小兎の耳元によって話しかけた。

「なあ、御小兎、きみはなんで……」

 良平の言葉に、御小兎が一瞬だけ気を取られる。その隙にゲーム画面のなかで、黒い帽子をかぶったノリオに、黄色いヒゲを生やしたゲロッパがぶつかり、ノリオは画面の外にはじき出されてしまった。

「え? あっ……ギ、ギャーッ」

 と御小兎が少女らしからぬ汚い悲鳴をあげて、コントローラーをほうりだす。細いうでを良平につきだし、指差しながら、苦情をいった。

「なんてことっ、おじさん、あたしに恨みでもあるんですかっ? おおお、おかげで、あたしのノリオが、ゲロッパに抜かれちゃったじゃないですかっ。ああ、ノ、ノリオーッ……」

「いや、ごめん、恨みはないけど、イラっとして、つい」

「『イラっとして、つい』って、なんなの。仲間はずれにされて、ムカついたっていうんですかっ? そういう時はねえ、コントローラーを差してスタートボタンを押せば、途中参加できるようになってるんですよ! 知らないんですか!? 持ち主のクセに!」

 御小兎は指先をぷるぷる振るわせてまくしたてた。良平は思わず目をつむる。だめだ、こいつ。

「だって、きみね、ノリオカートをやってる場合じゃないはずだろ?」

「どういうこと? ノリオカートをやってる場合じゃない、なんて。そんなバカなことが……あっ」

 御小兎がなにか思い出した顔をして、それからやってしまったという顔になり、そして何事もなかった風に微笑をうかべると、コタツからさっと立ちあがり、わざとらしく咳払いをし、別人のようにまじめな声を出した。

「ごめんね、翔ちゃん、響ちゃん、あたしは、このおじさんと大事な話をするから、あとは部屋にもどって、二人で遊んでくれる?」

「はーい」「はあい。おねえちゃん、ブレステは持っていってもいいー?」

 と翔と響が返事をして、コタツからのそのそ出てくる。一瞬、間をおいて、御小兎がうなずいた。

「……もちろん、いいわよ。それじゃ、またねーっ」

「いまの妙な間はなんだよ」

 良平の質問に、御小兎が下をむいて首を振る。

「なにいってんだか。ブレインステイションが、ノリオカートが持っていかれたって、そんなの、あたしたちにとっては、どうでもいいことですよ?」

「あ、そう? いや、僕はどうでもいいけど、きみは、ノリノリで『ノリオカート』をやってたろ。だから、さ」

 といって良平は去っていく子供たちの後姿をあごで示した。御小兎が顔を赤くして、前のめりになり、すごい勢いで弁解する。

「ななな、なっ、なに、それ、あれなの、『ぼくはあなたとちがって、そんな子供のおもちゃには興味ありません』ってことですか!? そういいたいんですか!?」

 あまりのはげしさに、良平はちょっとひるんだ。仕方なく、真っ赤になった少女を出来るだけ慰めることにする。

「いや、そりゃ、僕だって、興味がないわけじゃないよ。ノリオカートは、そりゃ、おもしろいさ。大人だって、夢中になる。……ただ、今日はちょっと、忙しいんだ」

 といって良平は気分を変えるためにコーヒーでも入れようと、腰を浮かせた。

「ひとまず、コーヒーでもいれるよ」

「こ、こーひー……」と御小兎が気の抜けた返事をして、コタツにあごを乗せ、難しそうな顔になった。

「……ああ、カフェオレにしとく?」

「う、うん、ごめん。……ありがと」

 いくぶん落ちついた声で、御小兎が良平の背中に礼をいう。良平は肩の力を抜き、台所で湯を沸かし、自分用のブラックコーヒーと、御小兎のカフェオレを作って、ついでに板チョコを割って桜色の小さなお椀に盛り、トレーにのせて居間に戻った。

 コーヒーをすすり、板チョコのかけらをかじりながら、良平は御小兎の言葉を待つ。少女に頭のなかを整理してほしかった。椀に盛った板チョコが、半分にへったころ、御小兎がマグカップをおいて顔をあげた。

「おじいちゃんと話してきたんですか?」と御小兎が聞くので、良平は板チョコをコーヒーで流し込んでからうなずいた。

「うん。神様と戦うのは無理だっていわれたけど、羽佐間さんが死のうとしなくなれば、魂を捧げられずに済むかもしれない」

 といって良平は大地と話してきたことを御小兎に伝えた。

「ねえ、心をどうにかするってことは、悩みを解消するってことですよね」

 御小兎がしずかな口調で、そういった。良平はもう一口、ブラックコーヒーをすすりながらうなずく。

「そうだね。うーん、時間制限さえなければなあ」

「明日の晩まで、ですね。……うん。あたしがどうにかします」

 と少女が両手を祈るように胸の前でかさね、真剣な目でこちらを見る。冗談でいってるわけじゃ、なさそうだ。

「なにか、あてがあるの?」

「うん。綾ちゃん、ちょっと前に彼氏と別れたんです。原因はその失恋だと思います。だから、あたしが綾ちゃんの彼氏になればいいんですっ」

「帰れ」と良平は期待して損した、という気持ちをこめていった。

「うー、ごめん。だって、あたし、その人の名前もわかんないんですよ……」

「そうなの? 失恋のあとって、別れた事情とか、話しこむんじゃないの? 友だちだし」

 そうなんですけど、御小兎がとすまなそうな顔で首を振る。

「あたし、恋愛とか苦手だから、突っこんだことが聞けなくて……駅前の『マイデーリャ』っていうファミレスの店長だったってことしか、知りません」

「店長、だった?」「うん」「いまはいないの?」「他の店舗に配置換えになっちゃいました」

 そういって、御小兎は肩を落としたが、良平は話を聞いて考えが浮かんだ。

「そうか、じゃあ、あれだ」「なに?」

「これからそのお店に行って、どこに移ったか、聞いてみればいいんじゃないか?」

「あー、そ、そっか! いまどこのお店にいるかってことですね」

「うん。……北海道とか、沖縄とかだったら、お手上げだけど」

「おじさんって、思いつきはいいのに、けっこうマイナス思考ですね。だから、ふけてるんですよ」

 図星を突かれて、良平は返す言葉がなく、胃をおさえた。だけど、その理論を肯定すると、プラス思考する人は、御小兎みたいな幼児体型になってしまうんじゃないか? 恐ろしいことだ……。

「じーっ……」考えこんだ良平に、御小兎が険しいまなざしをむける。

「おじさん、ものすっごく失礼なこと、考えていませんか?」

「失礼なことだって? まさか。たったいま、僕は、地球人類にとって、非常に、大切なことについて考えてたんだよ」

「それ、うそだよねっ。う・そ!」

「なんでそう、すぐに、人をうたがうんだ。まったく、これだから、近ごろの若者は……」

「同い年です!」「しまった」

「まあ、ともかく、おれがマイナス思考なのは、期待するのが嫌いだからだよ。いつだって、世のなかは人の期待を裏切るんだから」

「それは……私だって知ってます。でも、悲観する必要もないんですよ。どっちみち、現実は変わりませんから」

 そういって、黒髪のあいだに、御小兎はさびしそうな顔をのぞかせていた。


 魂取駅から電車を乗りついで五駅、『マイデーリャ深山駅前店』は、駅前デパートの脇に、買い物客をあてにしてちょこんと建っていた。街灯に照らされた駅前通りを十分ほど歩き、良平と御小兎は自動ドアをくぐる。

 二人とも、疲れていた。なぜなら、深山町に来るまえに、魂取町のマイデーリャで、綾の元彼氏さんについて、慣れない聞きこみをして神経をつかったからだ。

 深山駅前店で、ドリンクバーとティラミスを一個ずつ注文し、良平がエスプレッソとメロンソーダを持ってくると、御小兎はボックス席のソファーで横になって伸びていた。片足をあげたらパンツが見えそうな姿勢で、むにゃむにゃという。

「おじさん、ありがとう。ごめん……高宮さんでしたっけ? 呼ぶまでのあいだ、三分だけ休ませて」

「うん。じゃあ僕は、呼ぶ前に、どんな話をするか、整理しておくよ」

 といって、良平は学生カバンからメモ帳を取り出し、何を話すべきか考え、書きつける。

・別れた理由はなんだったのか?

・状況の説明。

・死のうとしてることを、知っているか?

・自殺未遂は、つき合ってるときから、有ったのか。

・動機に心当たりはあるか?

「おじさん。はじめの二つはいいけど、後の三つは難しいんじゃないですか?」

 いつの間に三分経ったのか、跳ねるように体を起こした御小兎が、メモ帳を見てそういう。良平は肩をすくめて答える。

「そっか。じゃあ、状況説明して、別れた理由が聞ければいいかな?」

 そうつぶやいて、エスプレッソをすすっていると、ウェイトレスのお姉さんが、ティラミスを運んできた。良平と御小兎は、テーブル越しに目をあわせる。

 店長の高宮 浩太郎さんにお話があるので呼んでほしい、と御小兎が告げると、おねえさんは、はじめ驚いた顔をしたけど、すぐに笑顔を作って、店の奥に引っこんでいった。

 五分も経たないうちに、短髪で角ばった赤い眼鏡を掛けた、三十手前の小太りの男性が、良平たちの席に歩いてきた。胸元のネームプレートに『店長 高宮 浩太郎』と書かれている。

 浩太郎は二人の席の前に来ると、頭を深くさげて、挨拶した。「こんにちは、わたしが、マイデーリャ深山店、店長の高宮 浩太郎です」

「こんにちは、ええっと、魂取高校二年の、藤原 御小兎っていいます」「おなじく、守矢です」と二人も頭を下げた。御小兎が控えめな声でつづける。

「わたしたち、羽佐間 綾さんの友だちなんです」

 その名前を口にすると、浩太郎さんの顔に反応があった。太く尖った眉毛がふるえて、口元から笑みが消える。

「浩太郎さんは、綾ちゃんと付き合ってらっしゃったんですよね?」

 御小兎が背筋を伸ばした姿勢でいう。浩太郎さんがすぐ答えないので、少女は申し訳なさそうな顔になる。

「……個人的なことを聞いてしまって、申し訳ありません。でもあたし、どうしても、綾ちゃんについて個人的な情報が必要なんです」

 浩太郎さんが、迷うように目をつぶり、「……本人に聞けば、いいんじゃないかな?」とポツリと言った。

 良平も迷いながら口を開いた。「以前聞いたんですが、断られました。羽佐間さんはいま、精神的に不安定な状態で、答えを期待できないんです」そういって、浩太郎の顔つきを観察する。なにか、反応があることに期待する。

 浩太郎が押しだまり、額に手をあてて考えだした。やがて、顔をあげる。

「どうして、聞きたいんだい?」

「羽佐間さんが自殺未遂を繰り返しているからです」

 と良平は事実を伝えた。嘘はいっていないし、これで興味をそそられない人間なら、この元恋人からは情報を聞く価値もない。

 浩太郎さんは御小兎と良平の顔を交互に見て、溜息を吐き、「……仕事が片付くまで、待っててもらえるかい?」といった。

 二時間ほど経って、二十二時をまわったころ、浩太郎さんが良平たちのテーブルにやってきて、目配せした。人に聞かれたくない話だったので、三人で駐車場にまわり、赤い乗用車に乗り込む。

「綾は、子供を降ろしたんだ。十二週間だった」と浩太郎は運転席から疲れた声で言った。

「うそ! だって、そんなことしたら、学校で……」と御小兎が声をあげると、浩太郎さんが首を振る。「ちょうど、夏休みだったんだ」

 良平は事実確認のために質問する。

「正確な日付を、覚えてらっしゃいますか?」

「……覚えてるよ。八月の、二十一日だ」

「それじゃあ、夏休みに入る前まで、見た目の変化はなかったでしょうね」といって、良平は後部座席のシートにもたれかかった。

「なんで、なんで、綾ちゃんは降ろすことになったんですか?」

「おれの、力不足だった。おれが家族を説得できなかったし、十七歳の綾と生きていく自信もなかった」

 そういうと、煙草を吸っていいかと浩太郎が二人に聞いて、セブンスターに火をつけた。窓に隙間をあけ、白い煙を外に吐きだす。

「……いちど、綾ちゃんと話をしてもらえませんか?」と御小兎がいった。「だって、綾ちゃんは死んでしまうかもしれなくて、浩太郎さんが、まだ綾ちゃんのことが大事なら、わたしたちには無理でも、綾の気持ちに届くかもしれないから」

「死なないでくれ、って、おれが言うのかい?」

「ちがいます。もしも会ってもらえたら、綾ちゃんが、ちょっとだけ元気が出ると思う」 御小兎がうつむき加減で、気持ちを伝える。「だって綾ちゃんは、店長さんとつき合ってたとき、ほんとうにうれしそうだったから」

 店長さんが目を伏せ、煙草をふかく吸い込み、もう一度、煙を長くはき出す。彼は外を向いたまま、「参ったね」とつぶやいた。

 それきり三人は黙り込んでしまい、良平は御小兎をうながして車から出た。「仕事の邪魔してすみません」というと、浩太郎さんは首を振って力なく笑った。

 細くて白い月が浮かんでいた。マイデーリャ駐車場から深山駅まで歩き、電車を乗り継いでいるあいだ、御小兎がずっとうつむいているのを、良平は苦しい気持ちで見ていた。

 魂取駅前まで帰ってくると、良平は御小兎に声をかけた。

「理由がわかっただけで、じゅうぶん収穫だよ。なんにも期待してなかったし」

「でも、あと、一日しかないよ?」「うん」「どうしたら、いいかなあ」「わかんない」

 良平はアクビをしかけて、片手で口をおさえた。

「一日でも、一年でも、出来ることは出来るし、無理なものは無理だよ。時間が相対的なものだって、アインシュタインが証明してくれてる」

「うわあ。使いかた、まちがってるよ。相対性理論のムダ使いだよ……」

 といって、御小兎が首を振り、「とにかく、明日ねっ」とカラ元気をだして背中をむける。良平も挨拶をかえし、背中を丸めて、コートの衿を立て、ゆっくり歩いていく。

 明日の夜には、綾の魂が黄泉の神に捧げられる。しかし、できることなんてあるのか? 

 いや、ない。自分ひとりなら、完結だった。

 しかし、御小兎は納得しないで、『森夜』を貸すよう、また迫るのだろう。明日が今日より長い一日になりそうな予感がして、良平は歩きながら顔をしかめた。


  5

 マイデーリャ深山店からの帰り道、眠気を感じた浩太郎は、コンビニの駐車場に車を停め、運転席のシートを倒して仮眠を取った。十五分後、月曜日で店も空いていた割りに、今日は疲れたな……と思いながら、シートに埋めていた背を起こし、ダッシュボードの上から煙草を一本とって火をつける。

 禁煙を推奨してるのは、ストレスのない社会で生きてる人たちだろう。いや、ストレスのない人生なんてないだろうけどさ。でも、酒も煙草もなしで生きてけるなんて、よっぽど、やりがいのあるような、いい仕事についてるんだろうな。

 ――べつに、仕事が嫌いなわけじゃないんだけど。

 7mmのセブンスターの煙を吸い込み、吐き出す。浩太郎は二十七歳だった。まあ、たかだか二十七年ともいえるけど、それだけ生きていれば、人生が大していいもんなんかじゃないってことは、知ってるつもりだ。

 高校の同級生から結婚式の誘いのメールが来ているので、返事をしておく。それが済むと、息が詰まりそうになって、浩太郎は助手席に転がっている缶コーヒーに手を伸ばす。まったく、俺はなにを間違って、どうしたらよかったんだろう。

「あのね……赤ちゃんが、いるの」

 子供が出来てしまったのは、自分の不注意だと、浩太郎は思う。いや、出来てしまったなんて思うことが、もうすでに良くないのかも知れなかった。問題は、そのあとのことだった。綾は……あいつは、ああ。

 メールに返事が返ってきた。返事の早い、律儀なやつだった。高校生のときも、そうだったなあ、と浩太郎は思い返す。その律儀さがじぶんにもあれば、浩太郎のいまの現実も、ちがったものになっていたかもしれない。助手席で、まだ、あいつが笑ってたりして、なんて。

 都合のいい想像を振り払うために、コーヒーを飲み干して、また煙を肺に吸い込む。綾は、もういない。

 浩太郎の両親は、想像以上にきびしく、二人の結婚と出産に反対した。両親から見れば、綾は高校二年生で、浩太郎は社会人になったばかりの青二才で、子供を生んで育てる責任は果たせない、といわれた。なにより、子供が出来てしまったという現実が、まったく、浩太郎と綾のどんな弁解からも真剣さを奪った。

「避妊もできずに、無計画に子供を作って結婚しようとするようなやつに、子育てなんて出来ないよ」

 という父親の言葉は、重苦しく、浩太郎にはそれを跳ねのけるだけの気骨も経験もなかった。

 二人はその夜のうちにケンカして、綾が浩太郎の頬を平手で打って、彼のアパートから出て行った。

 それから、あいつはどうしてるだろうか。もう、新しい彼氏が出来たり、してるんだろうか。「子供は、おろした、だから、心配しなくていい」、というメールが、八月の終わりに来た。それが、二人の最後のメールだった。

 浩太郎のほうは、相変わらず、とくべつ良くもなく、ときどき友だちと酒を飲んで騒いだり、旅行に行ったり……つまり、綾と会う前の生活に戻っている。

 ニコチンが血液に溶けて、浩太郎の頭が目覚めてきた。

 ――なんで、今夜は綾のことを思い出すんだっけ?

 夜八時ごろ、学生服姿の二人連れが、浩太郎の店にやってきた。綾が自殺未遂をしているから、原因に思いあたることがないか、教えてほしい、という。だけど、人には話せることと話せないことがある、ということさえ、あの二人はまだ知らないんだろうか。

 綾が死にそうだって? 冗談じゃない。だけど、冗談じゃなかったらどうしよう、と浩太郎は思った。

 ――いや、だからって、いまさら俺がどの面下げて会いに行くんだか。

 浩太郎は煙草の先を灰皿に押しつける。車にエンジンをかけ、ラジオのスイッチを入れると、明るい音が息苦しい気持ちをなぐさめた。

 ガソリンスタンドに寄ろうかと、尻ポケットから財布をだして中身を確認すると、二人連れの学生から渡されたメモ用紙が、浩太郎の目にとまる。折りたたんだ紙をひろげると、小さいが形のいい字で、名前とメールアドレスと携帯電話番号が書いてある。

 ちょっと迷ってから、浩太郎はカバンから手帳を取り出し、メモの内容を書き写していった。


 魂取町の図書館は、町の規模に反比例して、三階建ての立派なつくりをしている。

 火曜日の朝、良平は思いついたことを、大地に電話で相談した。

「やっぱり、黄泉の神様を止めざるを得ないみたいです。弱点とかないですか? 尻尾をにぎると脱力するとか」

「残念ながら、神さんは大猿に変身する宇宙人じゃなくて、狼だ」大地が迷惑そうにいう、「昨日ムリだっていったばかりなのに、なんで年長者の言うことを聞けねえんだ?」

「だってですね」と良平はため息まじりにいった、「僕が戦わなかったら、御小兎って子は、『森夜』を盗んででも神様を止めに入りますよ」

 大げさにいうようだが、御小兎ならやるだろう。綾の事ではなりふり構わないから、たとえ良平が居留守を使っても、窓ガラスを岩で割って不法侵入してきそうだ。

「我が家の平穏を守るため、不本意ながら、戦うときめました。でも、僕はなるべく楽がしたいんです。だから例えば……」といって良平は声をひそめた、「賽銭箱に札束を積んでおけば、寝返ったりしませんか?」

「しねえよ!」と受話器の向こうで机かなにか叩くにぶい音がした。電話を切る直前に、大地が言った。「戦うんだったら、せめてだな、まあ、図書館で伝承でも読んでおけ。神さんのこと、少しは知っておけ」


「いい考えじゃないですか? 賽銭箱に札束」

 といって、御小兎が読んでいる本から、顔をあげた。良平のほうを向き、眠たそうにまばたきする。

 めずらしく意見が一致したので、良平はうなずく。

「神様って意外と俗物だろうと、僕も思う」

「でも、ご利益はなさそうですね」「無いだろうな」

 今度は二人してうなずいた。

 平日の午前中だけど、図書館の席はほどほどに埋まっていた。定年後に読書を楽しむ男性や、絵本コーナーのソファでくつろぐ子供連れのママさんたちがいる。良平と御小兎は閲覧席の角に腰掛け、古い民話の本を広げていた。魂取町の歴史や神様の由来に関係する本だった。

 本のなかで、繰りかえし出てくるのが、黒い神様の話だ。貢物をする、とも書かれている。神に魂をささげることを何千年も前から続けている、という話は本当らしい。興味深い内容だが、文章が古くて読みづらく、あくびをせずにいられなかった。

 御小兎も目をこすりながら、しおりを挟んで本を閉じた。

「参考になった部分は、神様と貢物が大昔から続いてること、お守りは効果があるだろうってことですね」

「お守り? 効果あるの?」良平は首をかしげた。

「おそらく。魂を食べて生きてるってことは、霊の一種だと思います。だったら効き目があるはず」

 御小兎が手を顎にあてて考えながらいう。

「あたしが、霊につきまとわれるのが嫌で、追い払うために使ってものが、うちにあります。お札に祝詞のりと――神様の御言葉――を書いて貼ったりとか、そんな程度ですけど……もしかしたら、黄泉の神様も嫌がるかもしれません」

「いや、それで効果があるんなら、すごいじゃん」良平が感心してそういうと、御小兎が照れたように横をむいた。窓の外を、灰色の自転車が一台、駆けていった。少女はそれを目で追いながら、照れ隠しなのか、今度は身もふたもないことを言った。

「あるいは、いっそのこと、今回だけ無かったことにしましょう。『そもそも神様なんていなかった』。これで解決。どうですか?」

「却下だ」良平は首を振った。「僕も大地さんも、それで稼いで飯を食ってるんだから」

「そんな一般論で、人殺しをしないでください」

 御小兎が不穏なことを言う。良平は思わず左右をきょろきょろ見た。幸い、二人のほうを見ている人はいなかった。ほっとしたのも束の間のことで、御小兎の言葉が、心をちくちく刺してくる。

「わかってる」といって良平はうなだれた。「わかってるけど、これが僕の仕事なんだ」

 ――だからせめて、僕は自分の痛みを慰めるために、御小兎に協力させられてる振りして、羽佐間さんを助けようとしてる。

 自己嫌悪を感じて、良平は真新しい木製の机に顔を伏せ、ニスの匂いをかいだ。『誰かのために』、という名目にすがらなければ、自分の痛みに刃向かう気さえ起こさない、守矢良平という人間。

「しょうがないですねえ」と御小兎の呆れたような声が聞こえた。「反省してるなら、いいです」

「僕は反省なんて上等なことはできてないよ」

「……ただ自分を責めてるだけ、ですか?」

 いおうとしていたことを、御小兎にいいあてられた。良平は気まずくて、「悪かったね」と、とりあえず謝ってお茶をにごす。

「おじさんの気が済むなら、いくらでも責めたらいいんですよ。でも、悪く思ってもないのに謝るのは止めて下さい」

 にごせなかった。優しいんだか厳しいんだか判らないことをいわれて、顔をあげると、御小兎が口元を片手で押さえていた。

「おじさんって、死刑執行人にむいてないんですか?」

「ほっとけ」と毒づいて、良平は読みかけの本を開いて目を落としたが、まだ胸のなかが重くて、集中できなかった。

 御小兎が「ごめんなさい……あと、けっこう子供」と、けっこう、のところにアクセントをつけていう。悔しいがいい返せないので、「くそう」と力なくつぶやいたきり、良平は口を閉じた。

 黙って頬杖をついていると、御小兎が机のうえの本を一つに重ね、ペンやノートも鞄にしまった。それに習って机を片付けながら、良平が腕時計を見ると、十二時をまわろうとしている。三時間近くも図書館にいる計算だった。そりゃ飽きるよね。

 積み重なった十冊ほどの本を、良平が体の前で抱えて本棚まで行くと、御小兎が上から一冊ずつ取って棚に戻していく。最後の二冊は、良平が両手で持って片付けた。肘の内側が痺れたので、手のひらでさすって筋を伸ばしていると、脇腹の辺りを指で突つかれた。

「今晩ですよね」と御小兎が確認する。「午前0時に魂取神社の境内でいいんですね?」

 良平はうなずいた。大地が神を降ろすのは、午前0時に神社の境内、といつも決まっているから、今晩も同じはずだ。

「効くかどうかわかりませんけど、あたしはお守りを作って持っていきます」御小兎が含み笑いをした。「おじさんは、百万円の札束を忘れずに持ってきてください」

 そういって、良平の返事も聞かず、図書館の出口の方へどんどん歩いていってしまう。でも、現金引き出し額の上限を超えてるから、たぶん無理だな。

 ――五十万で、いってみるかな。

 なんて空想しながら、良平はゆっくり図書館の出入り口から外に出る。門のところで、御小兎が赤レンガの塀に寄りかかってこっちをむいていた。

「遅いですよ。おなか空いてないんですか?」

「いや、むしろペコペコだよ」といって良平は胃の辺りをさすった。御小兎は昼ごはんをいっしょに食べるために、待っていてくれたらしい。あんがい、羽佐間さんのこともあるし、仲間思いのいい人なのかもしれない。

「働いてるおじさん、何かおごってください」「え、弁当じゃないの?」「もちろん持参してますけど、タダなら『ほっとほっと』の唐揚げ弁当が食べたいんです」「お断りだ」

 単純に財布にたかりたい人だった。気持ちはわかるけど、クセになると面倒なので、無視しておく。でも彼女は最初から期待していなかったらしく、不機嫌になることもなく、良平の隣を歩きだした。二人並ぶのがやっとの、アスファルトの狭い歩道だった。

「サボってたのがばれたら、先生に怒られますよね」「そりゃ、怒らなかったら先生の意味がないだろうな」「でも、おじさんに監禁されてたっていえば、許されますよね」「きみは許されるけど、ぼくが捕まるんじゃないか?」「いいじゃないですか」

 ぜんぜんよくないことを、とりとめのない口調で言って、御小兎が大きなアクビをした。紅い舌とまっ白な歯が見えて、良平はどきりとする。

 コートのファスナーを首元まで引きながら、空を見る。白っぽい灰色をしていた。それから学校につくまでのあいだ、二人は疲れていたしおなかも空いていたので、くだらないことばかり話した。

 校門まで行くと、ちょうど昼休みの最中だった。外出していた生徒のふりをして門をくぐり、中庭のベンチに座って弁当をひろげ、二人でゆっくり食べた。食べ終わると、放課後にもう一度会う約束をして、良平は御子兎と別れた。

 帰りのホームルームが終わると、良平は教室の前で綾をつかまえ、昇降口で御小兎を待って、三人で商店街の『北開楼』に行った。二人の行きつけの店だそうだ。

「なんで牛丼屋?」と聞くと、「安くて旨くてくつろげるから」という答えが返ってきた。牛丼屋でくつろぐ高校生ってなんだよ。まあ、良平としては座って話ができれば文句はない。

 二百五十円の牛卵定食と、五十円のチビおにぎりを二個頼んで、いちばん奥の狭いボックス席を囲う。ほうじ茶を一口すすって、御小兎が綾にむけて口を開いた。

「昨日、わたしとおじさんで……高宮 浩太郎さんに会ってきた」

「そう」と綾が湿っぽい声で返事をする。

「いろいろ、聞いた。別れた理由とか、ごめんね、その……えっと……」御小兎が言葉に詰まったので、良平は控えめに後をついだ、「きみが、子供を降ろしたことも」「ばかっ」

 御小兎の右手が拳をつくって風を切り、良平の鳩尾に突きささった。

「ごほっ、なんか、わるいこと、言った?」と涙目で良平は聞いた。ものすごい痛い……。

「ごめんね、綾ちゃん、無神経な言葉が、胸に突き刺さったよね?」

 良平には返事をしないで、御小兎は綾を慰めることをいう。

「わたしは、だいじょうぶだけど……」と綾のほうが良平を心配してくれた。「良平くん、だいじょうぶ? グーパンチが手首までお腹にめり込んでたよ?」

「そうだったのか……」「おじさんはだいじょうぶです」「だ、だいじょうぶな根拠は?」「全力で手加減しました」

「日本語、まちがってるよっ」

 良平より先に、綾がおどろいた声で、突っこみを入れた。御小兎が心外そうな顔で首をかしげる。

「日本語のことより、いまは浩太郎さんのことです」

 良平を殴ったことが無かったみたいに、御小兎が話題を戻した。釈然としないが、手加減無しの拳が怖かったので、良平は鳩尾をさすりながらうなずいて、話をあわせることする。

「うん。……羽佐間さん、まだ、高宮さんに会いたい?」

 時間が止まったように、綾の動きがなくなり、黙ってテーブルの上の一点を見つめる。しばらくして、綾の目から涙がこぼれた。目を伏せ、ハンカチで目元を押さえながら答える。

「ごめん、ごめんね、うん、だいじょうぶ。だいじょうぶじゃないけど、だいじょうぶ」

 綾が泣き止むのを待って、良平は声をかける。

「悪いけど、『だいじょうぶ』っていうのは、客観的に見て、どちらとも取れる回答なんだ。あの人を連れてくるかい? それとも今は止めておく? その……きみが死んでしまう前に」

「まだ、いい。殴っちゃうから、止めとく」

 今度ははっきり辞退すると、綾が泣き顔のまま、口元だけゆるめて笑った。それを見て、良平の胸も、ほんの少し軽くなる。彼女の表情は、人殺しにはもったいないくらい優しかった。

「わかった。それから、もう一つ、話しておきたいことがあるんだ」と良平はうなずきながらいった。「羽佐間さんはこのままだと、死んでしまうけど。今夜、僕と御小兎は、きみの魂をささげる神様と戦って、止めてみようと思う」

「どういうこと?」と綾がすっかり掠れた声で、たずねる。

 良平はあごを掻き、綾に状況を説明する。

「死刑執行人が刈った魂は、黄泉の神への捧げものだから、今晩、神主の大地さんっていう人が、神様を降ろして――つまり、呼び出して――、羽佐間さんの魂を神様に与えるんだ」

「うん。……そうしたら、あたしの魂は、神様に食べられちゃうんだね?」

「そうだよ。だから、今晩、大地さんが神様を降ろしてから、僕たちが邪魔をして、魂をあきらめさせるつもりだ」

「……どうやって、神様を邪魔するの? 危なくないの?」

「話し合う。話しあってムリなら、戦ってみる。うまくいく自信はない。戦ってムリそうなら、ごめん、逃げる」

 いいたいことをいい終えて、良平は口を閉じた。いつの間にか、綾が顔をあげてこちらを見ている。目尻がまだ光っていた。、まぶたを震わせて、理由をたずねる。

「なんで、きみは、そこまでするの?」

「苦情対応も、死刑執行人の仕事のうちなんだ。僕が羽佐間さんの魂を刈ったことに、友人の御小兎さんが苦情をいっている。人殺しをする者として、僕にはこの件に対応する責任があると思ってる」

 と用意して置いた言葉をいって、良平は御小兎に視線をむけた。白いほっぺたが、ぷっくりふくれる。

「最低な理由ですね」「なぜ?」「あたしがケチをつけたから仕方なく助ける、といってるように聞こえます」「その通りだよ」「人殺し」

「ねえ、いいよっ……やめて?」と綾が割りこんだ、「ごめんね。もう、だいたい、理由は分かったもん」といって、まだ泣き止んでもいないのに、無理やり笑顔を作ってみせる。

 もらい泣きしそうになったので、良平は下唇をかんでこらえた。自分にいい聞かせるつもりで言葉を吐く。

「なんていってくれてもいいよ……僕は僕の罪を自覚してるし、罪から逃げることは諦めてる」口にするのが怖くて、後半は調子はずれな声になった、「人殺しの十字架を背負って、ずうっと、立って、歩いてくよ」

「あきらめたら、苦しくない?」と綾が聞いた。「いや、苦しい」

「じゃあ、同じじゃないですか」と御小兎がいう。「同じだから、いいんだ」

 良平は目をつむって答える。

「諦めても、諦めなくても、人は罪からは逃げられない、けど、あきらめてしまえば、幸せを求めて裏切られる絶望とは無縁でいられる。生きてるだけで苦しいから、苦しみは一つでも少ない方がいいよ」

「あー、あー、ごめんなさい、ぜんっぜんわかりません」

「あきらめても苦しいままだけど、せめて、新しい苦しみを背負わなくて済むんだ」

「むう」と御小兎がうなって目を細めた。

「なんか、ずるくないですか?」「うん。ずるでもしなきゃ、やってられないよ、死刑執行人ってのはさ」

 良平が素直に認めたので、御小兎が目つきをやわらげ、「いちおう、自覚はあるんですね……」といって肩をすくめる。

 疲れてきたので、良平は背もたれに寄りかかって、ほうじ茶を一口飲む。「ねえ、でも」と綾が指先で良平の肘にふれて聞く。「なんで、それでも、そんなに優しくできるの?」

「……ぜんぜん優しくない。優しい人間は、人殺しを続けたりできない」

 良平は『やさしい』といわれるうれしさを隠して、ゆっくりと何度も首をふった。

「でも、いまは、助けてくれようとしてるんだよね?」

「ちがう。助ける意志があるのは、御小兎だよ。僕に意志なんてない、まあ……道具みたいなもんだよ」

 助けるなんて口にするのもおこがましいので、精いっぱい自分を否定しておく。すると今度は作り物でなく、綾が笑った。

「く、ぷっ、ああ、おかしい」

「おもしろいことなんて、なにもいってないのに……」

 居心地がわるく、良平は体を揺すった。御小兎をみると、こちらも口を手でかくして笑っている。一人だけ宙ぶらりんにされ、彼は目を閉じて今夜のことを考える。とはいえ、大した案があるわけでもなく、せめて五十万円の札束が神様の心を動かすことに期待するばかりだ。

 良平が目を開けてもまだ二人はくすくす笑っていた。しょうがないので、冷えた牛玉定食を箸でつつく。定食といっても、牛丼の具の卵とじと、ニンジンと大根の漬物と長ネギの味噌汁だけの簡単なものだが、どれも自家製らしく味がいい。

 こんなとき、せめて食事が喉も通らなければ、同情も引けるのだろうが、良平は食い意地が張っていて、食べはじめるととまらなかった。貧乏暮らしが長いので、そう育ったのだ。

「お粗末さまでした」と綾がいった。チビおにぎりも、良平が気づかないうちに机のうえから消えていた。

「それじゃあ」と良平は『北開楼』を出たところで綾に頭を下げた。御小兎には「また今夜」といって手を振る。御小兎がこっちでなく、綾のほうを向いてうなずいた。

「あたしも行きたかったのに……」といって綾は頬と鼻をふくらました。

 お店を出る直前、自分も神社に行く、と綾がいいだしたので、二人がかりで思いとどまらせたばかりだ。どちらかといえば良平より御小兎のほうが熱心に説得していた。友人の異変に気づけなかった後ろめたさが、そうさせるんだろう。

 商店街の出口で二人と別れ、良平は自転車で夜道を走りだした。冷たい大気が体じゅうの肌をぴりぴりさせる。手袋していても凍える指を、コートのポケットのなかで温めるたび、彼は財布にさわっては五十万円の札束と御小兎のことを考えた。


 午後の十一時五十五分をまわったころ、森の空気が急に張りつめたように感じられ、良平は両腕に鳥肌がたった。魂取神社の社の正面で、やぐらの上に乗せられたかがり火が盛んに燃え、オレンジ色の炎が境内をぼんやり照らしている。かがり火の前にござが敷かれ、そのうえに大地が正座して、低く響く声で、単調なリズムの呪文を唱えつづけていた。小さな鐘の下に据えられた賽銭箱に、真新しい札束がのせておいてある。

 境内で他に目につくものは、かがり火と社のあいだの、二十センチ四方の古い祭壇だった。ニスを塗った黒い木の台座のうえに、魂の入った小瓶が二本並んでいる。かがり火が照りかえり、瓶の表面がぴかぴか光っていた。

 良平と御小兎は杉の木の幹に隠れて、黄泉の神が現れるのを待っていた。暗がりのなかで御小兎を見ると、だまってうなずき返すのがわかる。御小兎には霊感があるから、きっと良平より敏感に、なにかが起きそうな気配を感じているだろう。良平は鞄から『森夜』を出して、霊が見えるように準備する。

 やがて、呪文を唱えおえたらしく、大地がござに両手を突き、ゆっくり立ちあがった。木陰から首だけ出してのぞいていた良平は、おどろいて目をこする。大地の体から黒いガスのような瘴気が発散されているようで、全身が灰色に煙って見えた。いやな感じだ。

 御小兎が小声でなにか呟きながら、怯えたように震えだした。

「だめです、だめ、ちくしょう、ちくしょう……」

 良平は木陰に御小兎をおいて出ると、早足で境内を横切り、大地と祭壇のあいだに立った。

 大地が首をまわして良平を見た。瞳孔が猫みたいに開き、光っている。

「なんのつもりだ? たったいま、俺は黄泉の神を降ろしたところだ。神の食事の邪魔だ、どけ」

「昼間もいいましたよね。わるいけど、僕たちはその食事を、邪魔しにきたんです」

 といって、『森夜』を持つ右手に、良平は力をこめる。瘴気を出してはいるが、大地の姿に変化はなく、いつもの白装束で、頬がやつれているだけだ。落ちくぼんだ両目だけが、炎を映しているせいか、赤黒くかがやいている。容姿のせいで、良平は危険に気づくのがおくれた。

「そうか」と大地が別人のように静かな声をだした。「……わたしは食事以外に興味はないが、きみが争う気なら、排除させてもらおう」

 その言葉が地の底から響いたように聞こえた。次に良平は風が鳴る音を聞いた。ゴウっという音をたてて、空気の塊が、良平の体めがけて飛んでくる。

 良平は反射的に背すじをそらし、手斧を体のまえに立てて、その塊を受けとめた。衝撃が全身に伝わり、勢いよく後ろにたおれ、境内の硬い地面のうえを五メートルくらいゴロゴロ転がる。中庭の端にある狛犬の石像にぶつかって、ようやく動きがとまる。

 空気の衝突を受けた瞬間、懐から火花があがり、なにかが衝撃をやわらげてくれたのを、良平は感じていた。あれはきっと、御小兎のお守りが効果を発揮したんだろう。、

「う、ぐぐ……痛て、て」とうめきながら、良平は手斧を杖にしてどうにか立ちあがる。手足はなんとか動くけれど、体じゅうが痛い。

「驚いた。とてもいい反応と、うたれ強さだ。きみは鍛えられているな」

 と、また先ほどの声が、良平の後ろから聞こえた。痛みをこらえてぎこちなくふり返り、神社の鳥居の真下で、うずくまっている巨大な影を見つける。

「やあ、こんばんは」と白銀の狼の姿をした神様が、良平に挨拶した。

「こ、こんばんわ」良平はふるえ声で返事した、「……ええと、あなたが、『黄泉の神』様ですか?」

 と聞きながら、良平は境内の中庭をはさんで神様を観察する。全長五メートルくらいの狼が、四肢を折りまげて鳥居の下に座っていた。頭をぐっともちあげて、大きな両目でこちらを見ている。全身をおおう硬そうな毛並みは、黒から白、白から黒へと明滅していた。痛みと現実感のなさに、良平の口に乾いた笑みがはりついた。

「そうだ」と狼がうなずいた、「人間と話すのは、ひさしぶりだな。なにか、用事があるのかね?」

 神様の声は、怖くはないがどこから出ているかわからない、不思議な奥行きのある声だった。良平は生つばを飲んだ。「……実は、お願いがあります。そこの魂を一つ、見逃してもらえませんか?」

 神様が祭壇に目をやって、首をかしげた。

「話がちがうな。この男は、今夜の食事は二つだといっていた」

「はい。でも、今夜は一つで納めていただきたいんです。代わりといっちゃなんですが、そこの五十万円を差しあげます」

 良平は賽銭箱の上を指でさした。

「わるいが、要らない」と断って、神様がアクビをする。「あれが百万円でも、同じことだよ」

 ――ちくしょう……。誰だ? 効果ある、なんていったやつは。

「でも、魂が一つあれば、しばらくは持つんでしょう? だって、ふだんは一つずつしか捧げていませんから」

「確かにそうだが、私は食いだめができるんだ」と神様はいう、「それに、一度例外をつくったら、他の例外も認めなければならないだろ? 今回だけ、という訳にはゆかなくなるんだよ」

 相手の理屈が正しいので、良平は返事に困り、腕を組んだ。それを見て、神様が提案する。

「どうしてもというなら……そこにいる娘を、身代わりに食っていいなら、過去にも例があるから、認めよう」

 といって、狼が境内の端に顔を向けた。

 いつの間に出てきたのか、御小兎はかがり火の側に寄って立っていた。神様の目で射抜かれると、「な……っ」とかわいた悲鳴をあげ、顔をこわばらせる。

「すみませんが、それは僕が認めませんね」

 腕組みをほどき、良平は一歩前に出て、黄泉の神をみすえた。

「なぜだ?」と狼が片方は黒く、もう片方は白く光る目を良平にむけて聞いた。

「羽佐間さんが死ぬのは、もともと決まってたことです。しかし、御小兎はちがう。例外を作りたくないのは、僕も同じですから」

「そうか。きみにも事情があるのだね。お互いに不自由なものだな……。しかし、それならなぜ、君はまだそこに立っているんだ? 道をあけたまえ」

「ダメです。申しわけない」

「なんだい、否定が好きだね。きみは、神に歯向かうという、命がけの反抗期を過ごしたいのか?」

「まさか。反抗期なんて無意味です。僕は、いつでも、親にも教師にも社会にも従順な羊さんでいたいですよ。しかし、ですね……羽佐間さんは、僕の友だちかもしれないんです」

 良平は、狼の顔色をうかがいながら、個人的な事情をいった。神様が首をかしげる。

「ほう、ほう。それで?」「いや、それだけです」「……それだけだと?」

 神様が動揺したように、言葉をつまらせた。

「うん」と良平はうなずく、「だめですか?」

「ごめん」と神様がみじかい謝罪の言葉を口にして、良平の体を十メートルばかり吹きとばした。

 良平は宙を舞い、境内のわきに並んでいる杉の木のうちの一本に、背中からぶつかった。今度こそ、体じゅうが痛くて立ち上がれない。地べたにドンと落ち、木の幹に背中をあずけた長座りのかっこうで、良平はなりゆきをながめる。

 邪魔者がいなくなった境内を、まっしろく、まっくろく光る狼が、悠然と祭壇まで這いすすむ。二つ並んだ小瓶の前で足をとめ、細長い舌でふたを外し、中身を舌で巻きとって口に運ぶ。先に会社員のおじさんの魂、次に綾の魂が、順に食べられた。

 そして、食事を終えた神が、二人の人間をふり返って動きを止めた。水に溶ける粉みたいに、狼の姿が夜の闇にひろがって消える。

「おれが『ムリするな』って警告したのに、おまえらは見事に無視したな」

 神様が消えたあとの祭壇の前で、腕組みした大地が、苦い顔をして立っていた。


  6

 翌朝、神社の床の間のはしっこで、つめたい空気に頬を撫でられ、良平は薄暗いうちに目を覚ました。薄い布団のあいだに横たえられている体を起こし、となりを見ると、御小兎が寝息をたてている。

 良平の意識は、神様が闇にとけ、大地があらわれたところで途切れている。大地が二人を運んでくれたんだろう。壁際に置かれていた通学カバンをみつけ、携帯電話をさぐって時刻を確認すると、六時十五分だった。体じゅうがぎしぎし痛んだので、良平は床に手をつき、肘と膝をてこにして、ゆっくり立ちあがる。

 隣りの御小兎は、まだ目覚めそうになかった。布団をまたいで、良平は廊下に出た。

 トイレを探して用を足し、床の間のまえに戻ってくると、大地が障子にもたれかかり、杉林のほうをむいて縁側に立っていた。良平を見つけると片手を挙げ、「よう」という。

「おはようございます」と良平はいい、気まずくなって視線を落とした。杉林の下草に交じって、季節はずれのつゆ草が咲いている。白っぽい朝の日差しが、葉っぱの先をぼんやり光らせていた。

「さて」大地がわざとらしく咳払いした、「おまえには事情を説明する義務がある。昨夜、おれが神を降ろしてるあいだ、おまえらは何をやった? どうして、ふたりして境内に転がってたんだ? そこまで引っぱってきて寝かせるのは、大変だったんだぜ」

「……覚えてないんですか?」良平は反対に聞いた。神を降ろしているあいだは、なにも感じなくなるのだろうか。

「覚えてねえよ。神さんが来たら、俺はほとんど消えちまうんだ。本物の巫女なら、会話したりできるだろうが。……俺の場合は、夢うつつっていうか、ぼんやりとした意識があるだけさ」

 大地がそう答えてアクビをした。つゆ草を見ながら、良平も答える。

「僕は、羽佐間さんの魂を食うのは止してもらえないかって、神様にそうお願いしただけです。でも、だめでした。断られて、吹き飛ばされて、杉の木にぶつかって動けなくなりました」

「おいおい」と大地があぜんとした顔になり、白髪まじりの頭を抱えた。

「お前、マジで黄泉の神と交渉したのか。冗談だと思ってたぜ……。よく打撲で済んだな」

「やっぱり、危なかったですか?」と聞くと、大地の表情が固まった。

 どうやら、危ない橋を渡ったみたいだ。昨夜のことを思い返してみる。もしも、最後に吹きとばされた先が木の幹でなく、狛犬だったら……あるいは、背中からでなく頭からぶつかっていたら……命がなかったかもしれない。良平の肩がぶるっとふるえる。立ったまま肩を抱いているうち、神様と会話を交わしたことも思い出された。

 ――意外と、人間らしい神様だったな。

 良平は昨夜の経験を踏まえ、いまトイレに行くまでのあいだに思いついた、現時点での計画を口にしてみた。

「困ったな。話が通じそうだったから、もういっぺん、頼んでみるつもりなんですよ。ダメですか?」

「止めてくれ。死人を出すつもりか?」

「ちがいます。死人が出ないようにですけど」と良平はいい、大地のほうを見た。ごつごつした指が、ヒゲの伸びた顎をなでている。

「羽佐間 綾、か……けっきょく、あの子の魂は食われたのか?」

「はい」良平はまた下をむいた。そうだ、まちがいなく、綾の魂は食われた。気持ちがふさぐのを感じる。ため息が白くにごって、朝の大気にとける。

 すると、障子の向こう側から、「でも、あの神様は『食いだめ』っていってました」と御小兎が代わりに返事をした。良平が障子を開けると、御小兎は布団から上半身を起こしていて、こちらと目があうと、にやりと笑ってみせた。

「実際、他の魂もたくさん背負ってましたから……綾ちゃんの魂が消化されるまでに時間がかかると思います。その前に神様の体から魂を切りはなせば、助かりませんか?」

 と御小兎が聞いた。大地がひきつった笑みを浮かべ、髪の毛を搔きまわしながら、聞きかえす。

「おいおい、『他の魂も背負ってました』ときたか。御小兎、おまえ、魂が見えるようになったのか。……戻ったのか?」

「え?」「え、じゃねえ」「……そういわれれば、見えます」「いまも、見えるのか」

「はい、すごくたくさん……ううう」と御小兎はうなり声をあげながら、縁側から社の裏手にひろがる森をじっと見た。小さな肩がびくびくゆれるのを良平は見た。

「あそこの平べったい石のうえに、着物の男の子でしょう? 杉に寄りかかってる、疲れてるおばちゃんでしょ、あ、奥のほうに歩いていくおじいちゃん……」

 そういって、御小兎が指差しながら数えていく。ところが途中で目をつぶり、震えながら頭をぶんぶんふりだした。

「バカやろ、もろに見るんじゃねえ。ちょっとずつ目を慣らすんだよ」といって、大地が御小兎にかけよる。

 良平があっけにとられているうちに、大地に抱きかかえられながら、御小兎はグッタリと動かなくなった。

「いわんこっちゃねえ、あーあー」

「御小兎、だいじょうぶですか?」良平が二人の様子をのぞくと、大地がため息混じりに答える。

「モグラが何年ぶりかに外に出たようなもんだ。目がつぶれちまうだろ?」

 良平は思わず顔をしかめる。「そういうもんですか。納得しました」

「ショックが大きすぎたんだろうな。黄泉の神を見るってことは、三千年分の死霊の塊を見るようなもんだ。俺だって、おっかなくて遠慮したい」

 大地が御小兎の体を元通りに横たえ、布団をかける。掛け布団には白地に藍色の葉と蔓の模様が描かれている。御小兎はすでに寝息を立てはじめていた。

「寝かしておいたほうがいいですよね」「そりゃそうだ。むしろ今度は起こしても起きないだろう」「……すると、親御さんに連絡しないといけませんね」「当然お前だ」

 大地が人差し指を良平の鼻先に突きだした。

「まいったなあ。説明も必要ですよね」

「自分ではじめたことなんだから当然だ。御小兎の家は理解があるから、だいじょうぶだろ。話がこじれちまったら、あとでフォローぐらいはしてやる」

「わかってますよ」といって良平は大地の人差し指を片手でさえぎる。「家族への報告も、学校へも、公務員の僕がやります。自分で蒔いた種っていうか……蒔いたのは御小兎で、僕は水やりした程度ですけどね。家の番号も、羽佐間さんに聞きます」

「へえ」「なんです?」

「根性は座ってるよな」といって大地が眉をあげた。

「なんですか、それ?」と疲れた顔をして、良平は聞く。

「日本語さ。褒め言葉だよ」といって、大地が頬のこけた顔を揺らして笑う。

 礼をいう気が起こらなかったので、大地から目をそらし、良平は寝ている御小兎の布団の方を見た。藍色の布団のまんなかが、規則正しく上下している。それを見ているうちに気分が不思議と落ち着いたので、湿った息を一つ吐き出し、彼は身支度をはじめた。

 社を出る間際、「学校が済んだら、もう一度、ここに来い。俺もやり方を考えてみるからよ」と大地がいった。あれこれいっても、やはり御小兎が心配なんだろう。目が覚めるまで寝かせておいてやれ、ともいうので、御小兎本人も、まだ広間で眠ったままだった。良平は礼をいって神社を出た。

 まだ早朝だった。魂取神社の石段の表面には、所どころに白い霜がはりついている。良平が腕時計を確認すると、六時半を過ぎたところだ。少し早すぎるかと迷ったが、御小兎の家の場所を聞くため、綾の携帯に電話を掛けることにする。

「はいはい、おはよう。どうしたの、こんな早くに」と綾がコール一回で出て、それからあわてた声で聞く。「そうだよ! 昨夜どうだったの、大丈夫だった?」

 良平は思わず背筋を伸ばし、低い声を絞りだした。

「……いや、ごめん。やっぱり説得は出来なくて、戦ってもまるで歯が立たなかった。だから……羽佐間さんの魂は、取り返せなかった」

「うん。いいの、それはぜんぜんいいんだけどね」といい、綾が心配そうに聞く。「二人は、無事? 怪我とかしてない?」

「怪我は大したことないんだけど、御小兎がちょっとね」と良平は今朝起こったことを話した。事情を説明して、これから御小兎のうちへ話しに行くので、家の場所を教えてくれないかと頼むと、受話器の向こうで、困ったようなうなり声があがった。

「うーん、どうかなあ。あの、気を悪くしたらごめんね……? たとえばね、知らない男の人が、いきなり押しかけていって、娘さんは霊がまた見えるようになりました、どうのこうの、なんて話、信用してくれるかな……? 良平くん、御小兎のご両親とは初対面なんでしょう?」

 そういわれれば、綾のいう通りだった。娘が外泊した翌朝、見知らぬ青い髪の男がやって来て、いきなり霊の話をはじめたら、家族を動揺させてしまうだろう。

「ごめん、深く考えてなかったけど、客観的に見たら、そうだね」

「むしろ、どう考えて、なんとかなるっていう結論が出たのかなあ」

 綾がわざとらしくため息をついて、提案した。

「しょうがない。おねーさんが、いっしょに行ってあげよう」

 良平には断る理由がない。綾と駅前で待ち合わせ、二十分ほどかけて、二人いっしょに御小兎の家まで歩いた。御小兎の家は、駅をはさんで良平の家と反対側の住宅街、まだ新しい区画のまんなかに建っていた。淡い黄色でぬられた壁がやさしい印象の建物だ。

 玄関の呼び鈴を押すとき、良平は胃がきりきり痛むのを感じた。すぐにドアが開いて、顔も体も丸っこい形の四十前後のおばちゃんが姿をみせる。御小兎にはほとんど似ていない母親だった。御小兎の母親は、綾を見つけるとほっとした様子で声をかけた。

「おはよう、綾ちゃん」と挨拶したあと、表情を曇らせて聞く、「もしかして、御小兎、綾ちゃんの家に泊まったの? あの子ったら、何にも連絡なくて、昨日の夜出かけたみたいで、さっき起こしにいったら、部屋に誰もいないでしょ? ……うう、もう帰ってこないかと、思ったのよう」

 とずいぶん感情的に聞くのを、綾がやんわりと否定する。

「いえいえ。実は御小兎はいま、大地さんの神社で寝てるんです」

「大地さん……魂取神社で? なんでまた?」

「実はその」といって、綾が良平を横目で見た。「昨夜はぼくら、用事があって、大地さんのところに泊まったんです」と良平はあとを引き継ぐ。嘘はいってないよね、うん。

「そうだったの? あの子、なにがあったのかしら。……ねえ、どんな用事だったの? ほら、御小兎って、昔っから、トラブルに巻き込まれやすいでしょう。またそういう関係なの?」と母親がひどく困った声を出した。相当、心配性だなあ、このひと。

「それが実は」といって、良平は綾を指でつつく。「大地さんに相談があって。その……最近、霊が見えることが多いから、なにが起きてるか知りたいっていって、昨夜、その話をしたら、封印が解けかかってるってわかったんです」

「ああ、ああ、そうだったの! それで大地さん、徹夜でまた封印してくれたの」といって御小兎の母親が手を叩いた。「なんだか、大地さんにはいつも面倒かけて、悪いわねえ。あなたたちも、つき添ってくれたの? ありがとねえ」

 母親は心配症だったけど、そのぶん立ち直りも早い性格のようだった。うまいことその場をしのげたので、良平と綾は目配せして、安堵の笑みをうかべる。

 お礼をいってくれる母親に、ちょっと後ろめたい気持ちで頭を下げ、二人は御小兎の家の門を押して出た。

 住宅地の角を一つ曲がったところで、良平は綾に声をかけて立ちどまった。「ごめん、ちょっと待ってもらっていい?」と声をかけ、通学鞄から胃薬とペットボトルを取りだす。胃がシクシク痛んでいた。

「わたし、それ飲んでる人、はじめてみた……効くの、パロンシン?」

「効くよ。もう、これを飲んでないと、一日たりとも、正常な生活が送れないくらい、効くね」

「麻薬じゃん、それ」「いや、胸がスーッとするだけ」「頭はフワフワしない?」「しないよ」

 アルミとビニールの子袋の端を指でちぎり、粉薬を舌にのせ、水といっしょに流し込む。胃の痛みがとたんにやわらぎ、良平は親指を立てて見せた。綾がふっと吹きだし、それが合図だったように二人はまた歩きだす。

 御小兎の家から魂取高校へは、住宅地を出たら、バス通りに沿って進むだけの一本道だ。頭上には、よく晴れた明るい水色の空がひろがっている。風は肌を刺すように冷たいけれど、日差しがぽかぽかと暖かい日だった。

「ねえ良平くん、神社から、直接ここに来たんでしょ?」

「うん。そうだけど?」と良平は質問の意図がつかめなくて首をかしげる。

 歩きながら、綾が鞄をごそごそやりだした。「うーん……うわ。……ごめん、あんこがはみ出ててもいい?」と手になにか隠し持って聞くので、良平は深く考えずにうなずいた。

「はいこれ」といって、アンパンが二個入った透明な袋を、綾はこちらへ差しだした。教科書に押しつぶされたのか、たしかに潰れて、こしあんがはみ出ている。緊張がほぐれたせいか、アンパンを見ると、急に朝飯を食べてないことを思い出し、空腹におそわれた。

「……いいの?」「うん。なにも食べなかったら、逆に胃に悪いでしょ」

 袋を受け取り、おまんじゅうくらいの大きさのアンパンをかじる。特にめずらしくもない薄皮のあんぱんだけど、じゅうぶん美味しい。良平は三口で食べ終わり、残ったほうを綾に返そうとしたら、「いいから、もう一個食べなさい」といって押し戻された。申し訳ないと思いながらも、空腹の任せるまま、それもすぐに平らげた。

「ごちそうさま」と良平がいうと、綾は手のひらをうえにして片手をこちらに差しだす。

「はい」「え。……まいったな、いくら?」「ちがうちがう、お金じゃなくて袋のほう。だってきみ、ゴミ袋とか持ってないでしょう」

「ほらほら」と綾がもう一度催促するので、良平はなにもいえずにゴミを渡した。申し訳ない気がしたが、綾は白いゴミ袋にそれをしまい、楽しそうに目を細めて笑う。その顔に見とれかけ、彼はすぐに目をそらした。別の高校の制服を着た、男女の二人連れが、手をつなぎながら歩道をすれちがっていく。

 ――羽佐間さんが死んだら、あの笑顔も、アンパンも、ないのか。

 そう思い、くちびるを噛み、良平は綾に視線をもどす。茶色い髪を風になびかせて、道ばたの不動産屋の窓に張り出されている賃貸の広告を真剣にのぞいていた。あと二三日で死ぬ人のふるまいとは思えない。

 ――どうして、羽佐間さんは、こうなんだろう。

 困惑した気持ちで、良平は綾の斜め後ろをついて歩く。何かを聞かなきゃいけない、いわなきゃいけないと思うけど、何といっていいかわからない。気づけば魂取高校の校舎が、通りの先に見えてきた。

 校門の手前まで来ると、綾が不意に立ちどまり、振りかえってほほ笑んだ。

「ねえ良平くん、あたしはあと何日くらいで死ぬの?」とまるで陰を感じさせない声でいう。

 良平は息をとめて立ちすくんだ。あとから登校してきた生徒が、ふたりをすっと追い越していく。綾の笑顔があまりに自然で、彼女が死ぬことを受け入れていることが――殺したのは自分なのに――悲しくなり、良平の胸は無責任な感傷で痛くなる。

「きみは……」と良平は答えようとして考えこんだ。「きみは、黄泉の神に魂を消化されて、あと二三日で死ぬだろう。けどさ」と先をつづける。

「そのうえ、そもそも君を殺したのは僕なんだけど。だからきっと、僕にはこんなこという資格なんてないんだけど……それでも、僕はまだ君に生きててほしいって、思う」

 と勝手なことをいい、良平はうつむいて足もとを見つめた。革靴の甲に日差しがあたり、弱々しく光っている。綾の反応が怖くて、顔をあげられない。すると、綾の手が良平の頭に触れ、おびえる気持ちを慰めるようになでた。

 良平は恥ずかしくなって、片手を挙げて彼女の手の甲に重ねたが、やわらかい手のひらがお構いなしに青色の頭を撫でつづける。

 だんだん顔が熱くなってきたと感じたころ、ようやく綾が撫でるのを止めた。「まだ待って、顔あげないで」と強めの口調の指図をして、良平の前から少女の気配が消える。

 良平が思い切って顔をあげると、もう綾は道を曲がり、他の生徒に混じって門をくぐろうとしていた。

 いまの『待って』は、何のためだったんだろう。ただ、いっしょに校舎に入るところを周りの生徒に見られて、気まずい思いをするのが嫌だっただけかもしれない。人殺しから生きてほしいなんていわれて、呆れて怒ったのかもしれない。あるいは、彼女は泣いていたのかもしれない。綾の声は震えていたように聞えた。

 両手をコートのポケットにしまって、良平も歩きだす。門の脇の花壇に生えた枯れススキが、冬の日差しで白く光っていていた。


 放課後、神社にむかう前に、良平は一度自宅に寄ることにした。夜更かしのうえに弁当も忘れてきたので、昼飯はツナと明太子のおにぎりを買って食べたが、午後の授業の間じゅう腹が減ってしようがなかった。

 玄関で靴を脱ぐとき、見覚えのある小さな革靴が、良平の目についた。おそるおそる居間の戸をひくと、御小兎がコタツにもぐっていた。当然のようにコントローラーをにぎりしめ、翔と響のあいだに陣取り、ノリオカートで遊んでいる。どうなってんの、こいつ。

 良平は前回のように怒られるのがいやだったので、戸棚から出した大福を食べながら、足音を立てずに近づき、御小兎の脇に腰をおろした。「邪魔よ。はっきりいって」と目の前を横切られた響が恨めしそうにいう。

「はいはい、ごめんねごめんね」といい加減に詫びながら画面を見ると、ちょうど、赤い帽子をかぶった『ノリオ』が一着でゴールテープを切った。甲羅を背負った『ゲロッパ』がすぐ後につづき、三十秒ほど遅れて三着の『ケンージ』に旗が振られる。

 良平は誰にともなく聞いた。

「おつかれ。ねえ、これって誰が勝ったの?」

「おれだよ、兄ちゃん」と翔が静かに答え、勝者の余裕をただよわせた。響は首をかしげ、「三位か。まあ、勝者がいれば敗者がいるのは必然よね」と自分を納得させていた。

 一方、御小兎はがっくりうなだれて、「おかしいわ! なんで、どうして、何度やっても勝てないの……っ」という。

「結果じゃなくて、きみの悔しがりかたが、おかしい」

 呆れ声で指摘して、良平がリモコンでテレビの電源を切ると、すぐ横で抗議の声があがった。「まだ勝負はついていません!」「むしろ、ついたばっかりじゃないのか? ……はあ」

 ゲーマーの相手をしてもしようがない。良平は響と翔に部屋にもどるように話し、ついでに『ブレステ』も持っていくように頼んだ。二人はケーブルを床に引きずりながら、居間から出ていく。戸を閉めながら、響が目ざとく聞いてきた。「兄さん。大福はまだあるんでしょうね?」

「あと三つあったよ。きっと、一つは幸子さんのだから、残しておくように、ね」

「あら、ママはダイエット中なのよ。気を利かせるべきだと思うわ。……くっくっく」と含み笑いを残して、足音が遠ざかっていくのを良平は聞いた。それから、御小兎にむかって座りなおす。御小兎はコタツにお尻をいれ、両肩に包まった毛布を胸の前でかき合わせた格好で、顔だけ向けてこちらを見た。目線が合うと、やっちゃった、てへっ、とでもいうようにニコッと笑う。

 良平は思わずため息をつき、「御小兎。きみさ、何のために来たの?」といった。

「何のため、ですって。……あたしが遊びに来たように見えますか?」

「うん。だって遊んでたじゃん?」

「だってしょうがないじゃないですか!」

「逆切れしないでよ、もう……。体は平気なの? いきなり気を失うから、大地さんとふたりでびっくりしたよ」

「すいません、あたしは平気です。おじさんこそ、怪我してるんじゃないですか? だいぶ遠くまで、吹きとばされてましたよね」

「うん。まあ、打ち所がよかった。打ち身と、膝と肘と背中をすりむいたぐらいで済んだよ。……あのお守りが効いたのかもね」

 良平は長座りしたままで、手足をぐいと伸ばして見せた。全身にぴりぴりした痛みが残っているが、顔をしかめるほどでもない。

「本当ですか?」と疑わしそうな様子で、御小兎が念を押した。体を良平のほうに向け、目をのぞきこんでくる。

「平気だって。ぜんっぜん、平気」といって良平が視線を合わせると、御小兎は、「……よかった」といって目をつむる。

「あの、相談です。あとおねがいです。……綾ちゃんを助けるために、もう一回、体を張ってもらえませんか?」

 良平は、無言で大福の残りを口に入れてのみこんだ。いいともわるいともすぐには判断がつかなったので、御小兎を見たまま、つづきを待った。

「あの神様を見たとき、その体じゅうに魂がくっついてたというか、貼りついてたのが、あたしには見えたんです。おじさんは見えなかった?」

「いや、わかんなかったな。もう、必死で」

「使えないですねえ」と御小兎が目を細めていう。なんてムカつく言いかただろう。しかし良平がムカついている間もなく、御小兎は提案する。

「ともかく、神様の体が魂の集まりだってことが、あたしには見えたんです。っていうことはですね、もう一度狼さんを呼んで、その体から綾ちゃんの魂を取りかえせば、綾ちゃんは助かるんじゃないでしょうか?」

「あの威圧感、というか、いやな雰囲気の正体は、神様に食われた魂、ってことか」良平はうなるようにいった。「黒い絵の具と白い絵の具を、なんども重ね塗りして、他の色を見えなくした色みたいだったな」

「……おじさん、綾ちゃんの魂の色、覚えてますか?」

 それは覚えていた。きれいな、といったら失礼かもしれないけど、とても澄んだ藍色をしていた。

「きみは、羽佐間さんの魂が、その、一番上に乗ると思う?」

「いえ、わかりません、新しく食べられた魂が一番上に来るのか、それとも下になるのか……。でも」と御小兎が提案する。「見分けられると思いません?」

 良平は御小兎と目をあわせ、寒くもないのにぶるっと震えた。綾の魂をもう一度とり返すという考えが、不可能ではなさそうに思えてきて、興奮で胸がどきどきと鳴る。

「……羽佐間さんの魂なら、色を覚えてるから、見分けられるかもしれない」

「かもしれない、じゃ困ります。見分けてください。失敗は許されないんですよ」

 うなずいたが、保証のない方法なので、良平は渋面をつくった。しかも、これでだめなら、今度こそ羽佐間さんは消える。

「でも、いまの話には、欠陥がある。……そもそも、誰が黄泉の神様を呼ぶんだ? 大地さんは、協力してくれそうにない」

「あたしがいますよ」といって、御小兎が自分自身を指した。「今日、ずーっと考えてたんです。昼過ぎに目が覚めてから、ぜんぜん眠れなくて、昨夜なんにも出来なかったこと、綾ちゃんが死ぬこと、また霊が見えるようになったこと……何でもいいから、あたしに出来ること。そしたら、あたしが神様を降ろして、おじさんが魂を取りかえす、ってことを思いついたんです」

 御小兎が片手を良平の腿にのせて、体をこっちに近づける。息を吸いこむ音が、いやにはっきり聞きとれた。

「いまのあたしは、霊の姿が見えるぶん、黄泉の世界の近くにいる筈なんです。知識も経験もないけど、おじいちゃんに相談して教えてもらって、やってみる」と御小兎はいい、学生服の上から腿に爪を立てる。「だから、おねがい。もういっぺんだけ力を貸してください」

 真剣な口調に気おされて、良平はすぐ答えられず、一度深呼吸して気持ちを落ちつけようとした。御小兎のほうは顔を伏せて長い髪をたらし、こちらの返事を待っている様子に見える。

「わかった。神様から、羽佐間さんの魂を刈りとろう」と承知して、良平は御小兎の頭に軽くふれた。見た目より硬く、つるつるした髪の毛だった。

「ありがとう」といいながら御小兎が良平の手を払いのけ、体を引いた。手がはなれたあとも、腿のあたりが熱をもっていて、それが気まずかった。

「あとですね、おじいちゃんにはわたしから話したいんですけど、いけませんか? ……やっぱり、これはあたしのわがままで、おじいちゃんにも迷惑かけてるから、ちゃんと自分で説明したいんですよ」と御小兎は、間をおかずに至極まっとうなことをいった。良平のことなど、まるで気にしない様子をしている。なんかくやしい。

 良平は先に立ち上がり、「……じゃあ、行くか」といって鞄の紐を肩にかけた。

「え、話を聞いてなかったんですか? おじさんは待っててください」

「聞いてたよ。だから、僕は自転車で神社まで送るだけ」さっき脱いだばかりのコートをまた羽織る。「きみ、病みあがりみたいなもんだろ?」

「申し訳ないですけど、遠慮しときます」といって、御小兎もコタツから脱けでてくる。

 良平は玄関の鍵を閉め、「いらない」といい張る少女を、無理やりに自転車の後部座席に座らせる。いつもより余分に力をこめてペダルをこぎはじめると、背後であがる声がやんで、静かになる。冷たい空気が二人の頬をなでて行く。

 魂取神社への道すがらの約十分間、良平は考えごとをした。御小兎は、どこまでも御小兎だった。それなら僕はなにをしたらいい、と自分に聞いたが、返事は返ってこない。

 神社に着くと、良平は御小兎を見送り、自分は石段の端っこに日なたを見つけて腰をおろした。「待ってなくていいですから。一人で帰れますから!」といわれたが、大地の返答が気になるので、御小兎が社から出てくるまで、石段に座って待つことにする。

 ――ひとまず、大地さんに任せよう。

 神様や魂について、いちばん詳しいのは、大地だった。御小兎の考えに間違いがあれば、きちんと指摘してくれるだろう。安心したら、眠気が襲ってきたので、良平は両膝を腕でかかえ、ひざ頭に顔を埋めて目を閉じた。


 魂取神社の社の裏手は、昼でも薄暗い杉の森がひろがっている。森の入り口に大きな古杉が立っているのを風よけ代わりにして、灰皿と水の入ったバケツとパイプ椅子を置き、大地がそこを喫煙所として利用している。

 御小兎と大地は、その古杉の脇にパイプ椅子を並べて座っていた。良平の家で話したことを、大地にも同じように説明してから、御小兎は機嫌をうかがうように聞いた。

「怒ってますか、おじいちゃん?」

「……怒ってはいねえ」大地が腕組みして首を振る。「怒ってはいねえが、おまえ、そもそも、神を降ろす、迎える、ってことが、わかってるのか?」

「わかってるつもりです。おじいちゃんがやってるとは思いませんでした」

「普通は女の役割だからな。俺が特殊なんだ」

 といって大地が白装束の袂から煙草をとり出してふかすと、枯葉や枝で足元がでこぼこしているせいで、パイプ椅子が後ろに傾いた。錆びた音をたてながら姿勢を正し、鼻を鳴らしてつづける。

「だいたい、神を降ろすって、こういっちまうのは簡単でも、やるのはそうでもねえ。無事に済む保証がねえんだ」

「……やります。無事にすまなくてもいい」

 と御小兎はいう。パイプ椅子に浅く腰かけ、背筋をピンと伸ばし、視線はまっすぐ杉林の奥にむいている。口にした言葉の重みを感じてか、唇とあごが怯えるようにふるえた。大地がそれに気づいて顔をしかめた。

「逆に、私に出来ない理由がありますか?」御小兎は気丈にいい放ったが、声はところどころで細くなった。「……わたしは霊感があって、神を迎えて送ることの理屈もわかってます」

「おれはな、能力に文句はねえ。お前ならうまく神様を降ろせるさ。保証してやる。でもな」

 大地が煙草を灰皿で潰し、ため息と煙を長く吐き出した。御小兎をなだめるよう、小さな肩に手のひらを置いていう。

「お前の体がもつかどうか、不安なんだ。神を迎えるには、巫女はふらふらになるまで断食しなきゃならない。いっちゃ悪いが、お前は体力勝負には向いてない、って自分でも思わないか?」

「思いますけど、向いていなくても、あたしはやるんです」

 そういうと、御小兎は大地のほうを向き、まだ震えている目で皺の交じった顔を見つめる。大地が一度、唾をグビリと飲み、口を開く。

「まいったね、どうしてそこまでできるんだか。ひとつ、じいさんにもわかるよう、教えてくれねえか?」

 大地に問われると、御小兎が泣き笑いの表情を浮かべ、短い息を吐いた。「別に、大した理由なんかじゃないんです」と吐き捨てるような口調でいう。

「たとえば、このまま何日後かになって、綾ちゃんがいないとして」

 ぽつりぽつり、絞りだすように言葉を区切り、御小兎はいう。

「……きっとね、あたしは忘れちゃうんです。大切だった友達を、簡単に思い出にして、生きていってしまうんですよ」

 御小兎の声は時どきふるえたり、小さくなったりするが、大地に向けた目を逸らしはしない。

「おじいちゃんには、そういうこと、ないですか? すごく大事だったものが、あっという間に、単なる思い出になっちゃったこと」

 大地が答えないでいると、御小兎はかまわずにまた口を開く。

「あたしは、それがあったから、たぶん怖いんだと思います。また同じように失くしちゃうことが」と御小兎がいい、そこでまた大地のパイプ椅子がガタンと鳴った。

「だから、たぶん、これは綾ちゃんのためじゃなくて、自分のためです。それだけのことだけど、あたしにとっては大事なことなんです」

 御小兎は大地から視線を外し、パイプ椅子の背にもたれかかった。

 大地が気分を落ち着けるように、新しい煙草に火をつけ、木々の隙間に煙をゆっくりくゆらせる。じっくり味わった後で、まぶしいものでも見るように両目を細め、答える。

「好きにやってみな」と大地が少しがさつに言う、「おれだって、忘れちまうことも、そのまま生きていっちまう怖さもあるさ。だから……お前さんは死なないでくれよ」

「はい。保証は出来ませんけど」と御小兎がうなずいた。

 それで会話に一区切りがついて、二人は二分か三分、じっと黙り込んだ。白い煙が、枝のあいだを縫って空に溶けていく。大地がタバコ臭い息で沈黙をやぶる。

「おまえは黄泉の神さんについて、どこまで調べた?」

「どこまでって、図書館で、魂取町の歴史を読んだだけで……まだぜんぜんわかりません」

 御小兎が自身なさそうに言うと、大地がごつごつした手のひらで御小兎の背中をなでる。

「ちょっと、俺についてこい。書斎に風土記やら巻物やら、資料がある。今から、みっちり教えてやる」

 御小兎が苦しそうに顔をしかめながら、ゆるくほほ笑み、逃げるように立ちあがった。パイプ椅子を律儀にたたみ、杉の巨木にたて掛ける。大地も立って白装束にこぼれた灰を払い、椅子を片づけた。湿った幹をおおうように、深緑色の蔦が幾重にも巻きついている。

 二人はうなずきあい、前後に並んで、社の裏口に向かって歩きだした。

 

 肌寒さと、肩を揺さぶられる感覚で、良平は目を覚ました。「おい」と声をかけてきたのは、大地だった。「わりいな、御小兎じゃなくってよ」良平の隣りにしゃがみこみ、こちらの肩に手をおいて笑っている。

 良平はまだ寝ぼけている頭を左右に振った。「そうなんですか、じゃあ御小兎は……?」「あいつは勉強中だよ。あと二日で神様を降ろせるように、今から断食と暗記の特別コースだ」そういうと、大地が良平の頭をポンと叩き、境内のほうに歩いていってしまう。

 良平も立ち上がったが、はぐらかされたような、肩透かしをくらったような、そんな気持ちだった。大地の姿は、社の壁の陰にかくれ、もう見えなくなっている。仕方なく、良平はまた自転車にまたがった。

 帰り道で、良平は行きと同じ考えごとにふけった。

 ――御小兎がどこまでも御小兎なら、僕はどうして僕で、人殺しなんだろう?

 薄暗くなった玄関を自転車で引いてくぐり、良平が家に帰ると幸子さんがいつもと変わらない様子で迎えてくれた。「おかえりなさい」と「お疲れさま」だけをいって、あとは鼻歌をうたいながら、台所に引っ込んでカレーライスを作っていた。

 夕飯を食べ終わり、午後九時をまわったころ、台所の流しに幸子さんと並んで洗い物を手伝いながら、「相談があるんだ」と良平は切りだした。

「うん」と幸子さんは静かにうなずいた。昨夜の無断外泊について、夕飯のあいだになにも触れなかったのは、良平のその言葉を予期していたみたいだった。

 幸子さんが鍋の底についた焦げを擦りながら、良平のほうに顔を向ける。ご飯の前にシャワーを浴び、紺のボーダーのパジャマに着がえた体から、甘い匂いがただよっている。「このまえの、えーと、御小兎ちゃんと、話してたこと?」と、手元を見ずに鍋を回転させながら首をかしげた。

「いや、でも、うん」と良平はあやふやに返事して、手のなかの濡れたマグカップを布巾で拭く。それから後ろを向き、カップを食器棚の奥に逆さに立て、また幸子さんと並んで次のコップを手に取って聞く。

「幸子さんは、あんなふうに……『人殺し』って、いわれたことはある?」

「どうだったかな」と幸子さんがうそぶいた。

「……教えてください」と良平が食器拭きの手を止めて聞くと、「どうだったかな」と幸子さんは繰りかえし、困った顔で鍋についた泡をお湯で流した。「教えてよ」ともう一度聞くと、幸子さんも伏せて置いて両手を拭いた。「あるよ」

 幸子さんが流し台に肘をつき、良平のほうに体を向けた。パジャマの襟元から、まっ白い鎖骨のふくらみがのぞいている。

「何回もあったよ。ぜんぶあわせたら、十回ぐらいじゃないかな。あたしは人殺しだから、『人殺し』といわれることを受けいれて、生きようって決めた」

 幸子さんは断固とした調子で語り、続けて良平に聞いた。

「相談っていうのは、そういうことなの? 人に恨まれて生きていくのがいやになったの?」

「ちがいます。恨まれるのはかまいません。それで、結果的に、誰かを死なせないように、思い直したことはある?」

「ないわ。私は一人を殺さないようにしたら、自分が他の人も残らずみんな、殺せなくなってしまう気がしたの」

 良平は視線を天井に向け、幸子さんの言葉を頭のなかで繰りかえす。一人を助けたら他の人も助けたくなる、という理屈は正しく思える。次の言葉を探しているうちに、幸子さんが別な質問をした。

「ねえ。いまのあなたは、どうして人を殺せるの? 二年前と同じで、いまでも、ただ食っていくためなの?」

 聞かれたくないことを聞かれた。良平が軽く目を閉じて、自分自身に問いかけると、きたない答えが返ってきた。でも、それが昼間も探していたことの答えのように感じたので、迷ったあげくに良平は口にした。

「きっと僕は、人を殺すことが、そこまで嫌じゃないんだと思う」とひどく乾いた声がでた。「どうして、僕は僕で人殺しなのかって考えたけど、『殺せる』ってことが理由なんだ。本当に嫌だったら、こんなにザクザク殺したりできないし、きっともっと苦しんで、自殺しようとしたりするんだと思う。僕は人を殺した次の日でも、何もなかった顔していられる。せいぜい……胃がシクシクするだけで」

 低い天井を見つめたまま、良平はそういった。

「正直ね」「どうだか。この気持ちが本当なのかも、わからない」「でも、嘘はいってないんでしょう?」

 良平は黙って視線を落とし、うなずく。見ると幸子さんも、流し台に背中をあずけて斜め上をむいていて、「それを、正直っていうのよ」とその姿勢のままポツリといった。

 良平は落ちつかない気持ちで布きんを持ち、幸子さんが洗ったばかりの鍋を抱えて拭く。底がぶ厚く、大きくて重い鉄鍋だった。外側からさきに拭き、ひっくり返して内側を拭いていると、また幸子さんがこっちに向き直るのが見えた。。

「ねえ……それでもあなたは、羽佐間さんを助けたいんでしょう?」

「それ、知ってたんですか?」と聞きかえすと、幸子さんが芝居がかった調子で、「ふっふっふ、母には、何でもお見通しなのよ」とおどける。

「羽佐間さんが死ぬのは、嫌なんだ」良平は拭き終わった鍋を伏せた。「たかが二三回、話しただけだけで、大して仲良くなったわけじゃないし、人殺しのくせに勝手だって、自分でいくら自分を責めても。……やっぱり、あの人が消えちゃうのが怖いんだ」といって、すっと目を伏せる。それに、綾が死んでしまったあとで、御小兎をとどう話していいかわからなかった。だったら、話さなければいいとも思うが、それも出来る自信がない。どんな風に僕は御小兎を見ることが出来るだろうか。

「ひどい矛盾じゃないの、それって」そういって、幸子さんが言葉と裏腹にふっと笑い、腕組みしてこっちを見る。ゆっくり、優しい調子でまた聞いた。「あなたは、自分が人を殺すってことが、わかってた? 知らない誰かを殺すんじゃなくて、目の前にいる人を、わたしやあなたを殺すのとおなじだってこと、わかってた?」

 良平は肩を落として歯ぎしりをした。自分が気づけていなかったことを指摘されて、悔しかったのだ。「わかってた、つもりだったよ。……でも、やっぱりわかってなかった」「過去形なのね。いまは?」

「昨日の昼間に、気づいたよ」といい、目を伏せて短いため息を吐く。「羽佐間さんと話をして、あの人は、僕なんかを許してくれたから。……だから、生きていてほしくなったんだ」

 それを聞いて、幸子さんが顎に手をあて、しばらく黙った。良平も下唇をきつく噛んでいた。

「もしもね、うまく助かったとして、もう一度、羽佐間さんが選ばれるかもしれないわよ」

「そうしたら……もう一度、僕は殺すよ」

「それで、もう一度助けたくなるかもしれないじゃない」

「その時は、もう一度助けるよ」

 めちゃくちゃな返事をすると、幸子さんはきょとんとして、次に手で口をおさえて吹きだし、だんだん前かがみになって笑い声をあげた。笑いながら、顔をあげて首を振る。急に、藍色の髪の毛から立ちのぼる、シャンプーの甘い匂いを感じた。

「だめだめ。次は大地さんが許さないわ。あたしも、許せないと思う」

 というと、幸子さんが話は済んだというようにに食器の方をむき、マグカップをもって拭きはじめた。つづけて平皿に手を伸ばす。良平もふきんを手に取り、二人で平皿を拭き、棚にしまっていく。

「助けても、いいんですか?」と良平は納得がゆかずに聞く。

「いいよ」と幸子さんが隣りで目をつぶってうなずく、「……しょうがない。うまく助けられたら、来月は食費を切り詰めよう」

 ――そうだ。……そういうことじゃないか。

 人を助ければ、死刑執行人の給料の出来高が減る。大地は目をつぶったりせず、役所にありのまま報告するだろう。それを意識すると、涙が出そうになった。悲しいというのとはちがうと思う。後ろめたさと、やるせなさの涙だった。

「ごめんなさい」

「来月は止めてよ。たぶん、もういっぺん続いたら、貯金を崩すことになるかもしれないもの」

 幸子さんの声は、もういつもと変わらない、どこかのほほんとした調子にもどっている。

 おかげで、良平にとっては、やるせなさと反対に、肩の力が抜けた面もあった。家族を養うため、という後ろ盾が出来たので、迷いが減らされたせいだろう。

 自分の部屋にもどり、良平は椅子に深く腰かけ、しばらくうなだれた。やがて、ポケットから携帯を取り出し、電話帳から御小兎の名前を選んで電話を掛ける。

「もしもーし。おじさん、こんばんわ」

「うん」と良平は一人でうなずいた。御小兎の声は明るかった。

「夜分遅く、ごめん。……大地さんから、聞いたよ。やっぱり、きみが、神様を降ろすんだね」

「そりゃ、あたしが言いだしっぺですから」と声を張ってすぐ、御小兎は空腹をぼやいた。「でも、おなかぺこぺこなんですよ」

「断食か。無理しないで、っていったとしても、君には、ムダなんだろうな……」

「はい」と、御小兎がきっぱり返事をした。

 頑丈な大地でも、神を降ろす前後は、疲労を色濃く見せていた。未発達な御小兎だから、なおさら危険なはずだけど、すっかり腹をくくっているらしい。良平は背中を押されるような気持ちで、息を吸い込んだ。

「……僕も、決めたよ。もう一度、戦ってみる」

「『決めた』って、そりゃ、あたりまえですよ! おじさんが戦わなかったら、あたしが神様を呼んでも、ムダじゃないですか。しっかりしてください!」

 良平としては意を決していったつもりだったが、御小兎にはなにも伝わらなかったらしい。まあ、電話だからな……しょうがないや。

「それで」と良平は気を取り直して聞いた、「いつきみは、神様を呼ぶんだい?」

「あさっての夜です」

「あと二日か」「はい。おじいちゃんいわく、二日以上かかったら、魂は消化されちゃうそうです」

「そうか、それなら。……明日、羽佐間さんに、話そうか?」

 御小兎が息を吸い、吐く音が聞こえた。

「……はい」と返事をし、二人は明日の放課後、良平の家に集まり、綾も交えて三人で話し合うことに決める。

「わかった」といって良平は電話を切ろうとした、「それじゃあ」

「うん。おじさん、電話ありがとう。……おやすみなさい」

「……おやすみ」

 ありがとう、といった御小兎の声が、耳の奥にいつまでも残った。歯を磨いてベッドに横になった後も、良平は寝つけずに、何度か寝返りを打った。


 次の日、御小兎が登校してこなかったので、良平は休み時間に綾をみつけ、放課後に良平の家で集まろうと話しあって、御小兎にその件をメールした。待ち合わせ場所にやってきた御小兎は、断食って予想以上にお腹が空きますね、といって疲れた顔で笑ってみせた。

 三人は良平の家の台所に移動し、テーブルを囲ってコーヒーをすすりながら、良平と御小兎でみつけた方法について、綾に話した。

「じっさい、黄泉の神を前にして、うまくやれるかどうか、自信はないんだ。……最悪、なんにもならないどころか、前回みたいに生け贄がないから、僕らの魂を食べようとするかもしれない」

 御小兎が黄泉の神を降ろす。それから、良平が神に食われた綾の魂をもう一度刈って、とり戻す。すぐに綾につなぎ合わせれば、手出しは出来ないはずだ。

 しかし、良平たちは、黄泉の神様について、詳しく知っているわけではない。大地なら知っているはずだが、御小兎いわく、『黄泉の神さんにケンカを売るなんて前例が無い』といっていたそうだ。良平の記憶のなかでは、話せばわかりそうな印象と、ひどく暴力的な印象が、半々だった。

 しばらく、重い沈黙が、台所のテーブルの周りにのしかかった。それをやぶって「やろう」といったのは、綾だった。良平と御小兎の顔を順に見たあと、目を閉じてうなずく。

「死ぬ気じゃ、ないよね。……嫌になって、ないよね?」と御小兎がおどろいた顔をする。

 綾が首を振って否定する。目元に涙が浮かんでいるのが、良平には見えた。

「だって、こんなに、二人にいっしょうけんめい考えてもらって、あたしが、やろうって言わなかったら、おかしいもん。でもね……助かったあとで、やっぱり、いやになっちゃって、死のうとするかもしれないけど、それでもいい? けっきょく、死んじゃっても、いい?」

 良平は疼きを覚えて、服のうえから胸のあたりを押さえた。正直すぎて、それが悲しいのにどこかうれしくて、彼は首を縦にふっていた。

「……そうだね。うん。死んでも、いいよ」「な、な……ん……っ」

 御小兎がうなりながら目じりをあげ、むすんだ唇をぐにゃりと曲げた。その反応にかまわず、良平は説明する。

「客観的にいって、人には死んじゃいけない理由は、ない。でも急ぐ理由もないから、生きてるあいだは御小兎といっしょにいれば、いいだろ」良平は何度か息をついでつづける、「僕は、きみに生きててほしいから、戦ってみるけど。……それでも、羽佐間さんが死ぬことに決めるなら。……いいんだ」

 小兎が肩をいからせ、もともと少し傾いている椅子をカタカタ揺らして、良平をにらんだ。

「死んでいいわけないでしょう! ふざけないで!」

「僕は、真剣だよ。死んじゃいけない理由が、無いんだから……死んでいいってことじゃないか? すくなくとも、人っていう存在は、……死を否定しなくてもいい」

「ばか、ばか、ばかばかばかばかーっ」

 と吠えるように連呼して、御小兎が右手で拳をつくってキッチンの机をたたく。

 すると、となりに座っていた綾が片手を伸ばし、御小兎の拳をそっとなでた。撫でたあとで、頭を肩にあずけながら目をつぶって、声を出さずに泣きだした。

「いいの、いいの。なんだろ、あのね、あのね。あー、泣きたくないのに。ふたりとも、ありがと」

 そういいながら、目元にもりあがった涙を、指先でぬぐう。

「死んでいい、なんて言うバカに、綾ちゃんがお礼いわなくていいよ。貴重な『ありがとう』、のムダ使いになっちゃうよ」

「『ありがとう』一回ぐらい、いいじゃないか、減るもんじゃなし。いや、相対的な価値は下がるけどさ」

 御小兎がため息をついて、握りこぶしを机のうえに置く。

「おじさんって、わかってるんだか、わかってないんだか。……理解できない人ですね。最低ですよね」

「あのね。理解できないことと、最低なことを、いっしょにしたら、永遠にわかりっこないじゃないか」

「だったら、わからないままでいいです」と御小兎がつっけんどんに言う。

 不機嫌そうな横顔を見ながら、良平は頭をかいて、「あ、そう……」と力なくいった。

「……ふ、ふ、あはは」と、二人のやり取りを聞いた綾が、泣きながら声をふるわせて笑う。

「ごめんね。死んでもいい、っていわれて、うれしくなるなんて。二人がケンカしてるのを見て、笑っちゃうなんて。わたしの心って、おかしいね、へんだね」

「そうだね」「変じゃないよ」

 良平と御小兎が同時に、まるで反対の相づちをうつ。御小兎が頬をふくらませ、良平は顔を横にそむけた。

「おじさんは、なにかあたしに不満でもあるの? 反抗期なの?」

「いや、僕はきみに不満なんてないし、反抗もしない。二人の人間のあいだで、現状の認識に差があるのは、普通のことじゃないか」

「……あはは」綾がまた吹きだした、「ご、ごめん、でも、二人がおもしろいんだもん」

 前かがみになって、綾が笑いつづけると、御小兎がふくらんだ頬を元通りにして、「まあいいけど」と妥協した。それを聞いて、良平はゆっくりうなずいた。息をふかく吸い、低い声音で、話題を変える。

「いいかな。明日の夜、三人で境内に集まって、御小兎が黄泉の神を降ろして、僕が羽佐間さんの魂を刈って、もう一度、もとの体に結びつける」

「いいですよ。それから……おじいちゃんの話によると、巫女の力が強ければ、少しだけ、神様の動きを止められるかもしれないんです」と御小兎がうなずきながらいう。「あたしに出来るかわかりませんけど、なるべく神様の意志を抑えこんで、おじさんが魂を刈る時間をかせげるよう、おじいちゃんに習ってみます。だから、もうだめだ、と思っても、最後まで粘ってくださいね」

「あたしは、どうしよう。うう……明日、神主さんに、なにか出来ることがないか聞いてみるね」

 綾がうつむき加減で、申し訳なさそうにいう。それを見て、良平は首をふった。

「いいんの、いいの」と御小兎がなぐさめて、綾の肩を手の平でポンポンたたく。綾が体ごと、御小兎によりかかった。

 良平は立ちあがり、音をたてないように気をつけながら、テーブルの上のマグカップを片づけはじめた。

 錆びた門の外まで、良平は二人を見送った。御小兎の体が心配で、送ってやりたかったが、良平にも予定がある。今日のうちに、もう一度浩太郎さんを訪ね、綾が亡くなってしまう事を伝えておきたい。

 綾と御小兎の影が住宅路の角を曲がり、あっけなく、見えなくなる。良平が空をあおぐと、白い糸みたいな月が、二人が見えなくなった真上のあたりで、薄くひろがった雲のむこうに浮かんでいた。


  7

 マイデーリャ深山店のなかは、夜のピークタイムで混みあっていた。

 案内された小さなテーブル席に、空腹でふらつく体を沈めると、御小兎はすぐに大またで歩いている浩太郎を見つけた。膝に両手をついて立ちあがり、近寄って、強引に挨拶する。

「こんばんわ」「こんばんわ。……ごめん、ちょっとだけ、待ってね」

 五分だけ時間をいただけませんか、と伝えると、店長は、バイトの人が休憩から戻ってくるまで、三十分待ってくれといった。

 いわれたとおり、三十分後に御小兎が店の裏手にまわると、浩太郎は裏口の前に置かれた灰皿のまえで、セブンスターをくわえていた。

 御小兎は綾が死んでしまうことを、神様や死刑執行人のことも含めて、説明した。荒唐無稽な話を、だまって聞きおわると、浩太郎が灰皿に煙草を擦りつけて消し、二本目に火をつけながら返事をした。

「もしかしたら、綾が死ぬかもしれない、ってことかい?」

「ちがいます。もしかしたら、死なないかもしれない、ってことです。明日の夜、ほぼ確実に、綾ちゃんは死んじゃうんです。確立でいうなら、九十八パーセントは死ぬんです」

 浩太郎が空にむかって煙を吐きだし、考え込むように目をつぶる。御小兎は無言で、浩太郎の口から出てくる言葉を待つ。

「明日の夜には、綾が死ぬ。……それで、きみは俺になにを期待してるんだい?」

「期待なんかしません。ただ、綾ちゃんに会いに行ってください。お願いします」

 といって、御小兎は頭をさげた。顔をあげると、浩太郎は遠くを見る目つきで、店の壁にもたれかかり、紫色の空をあおぐ。

「いや、もう……わかった、わかったよ。なんなんだろうな、あれだな、青春なんだな、きみたちは」

「きみ、たち?」「そうだよ」「あたしのほかに、誰が?」

 言葉尻をとらえて御小兎がおどろくと、浩太郎は苦笑いした。

「……知らなかったのかい? 先週、きみといっしょに来てた男の子も、つい一時間前に、この店に来て、俺にきみとおんなじことをいってきたよ」

「おじさん……や、良平くんが? うそでしょう? あ、いや、すみません」

 あまりに意外だったので、嘘と決めつけてしまい、御小兎はあわてて謝る。

「いいよ。きみにはないしょだったのか。……ああ、優しそうな感じの子じゃあないもんな」

 イタズラっぽく言って、浩太郎が肩をすくめる。

「さっきは怖かったよ。細いきつい目で、あの子は私をじっと見るんだ。あまり真剣だから、怖いのに、俺は目をそらせなかった」

「良平くんは、他になにか、言っていましたか? 綾ちゃんが死んでしまうことのほかに」

「だから、きみと同じだって。……俺に、綾に会いに行くようにって。彼はきみよりも固い雰囲気だから、命令みたいに感じたな。それだけだよ」

 それで話は済んだというように、浩太郎がセブンスターをズボンのポケットに突っこんで、くわえていた煙草の先を灰皿に押しつける。指先をはなれた吸殻が、底にたまった水のなかに落ち、ジュウという音をたてた。

「きみは、あの青い髪の子の彼女かな?」

 唐突に、浩太郎が話題を変え、御小兎はまったく迷わずに答えた。

「ありえません」「そうか」「じゃ、片思いか」「ち・が・い・ま・す」

 否定する言葉にいらない力が入ってしまい、御小兎は恥ずかしくて何度も首をふった。

「あたし、恋愛なんて現実感ないです。この体だし……そんなの幻想みたいなものじゃないですか?」

 と御小兎は自分の貧弱な体を見下ろしながら、話の腰を折るつもりでいった。でも、相手はさすがに大人だった。

「きみ、面白いことをいうね。……そうだな。でも、若いんだから、幻想を追ってもいいじゃないか。夢だってそうさ。見てるひとにとっては、夢から覚めるまでは、現実とおなじだよ」

「嫌です。わたしはまだ、幻想と現実をいっしょにしちゃう年ごろなんです。それは怖いことなんですよ」

 御小兎が首を振りつづけると、浩太郎さんが顎に手をあてて、こっちを興味深そうに見る。

「きみ、おもしろいなあ」「知りません」「でも、もてないだろうなあ」「ほっといてください……」

 御小兎はふてくされて答える。浩太郎さんが背中を壁から離して、駐車場の方を見ながら裏口のドアノブに手をかけた。古い鉄製の戸をさびついた音をたてて開けながら、御小兎に約束する。

「会いに行くよ。もしも本当に死んでしまうなら、俺は綾にいわなきゃいけないことがある」

「あ……ありがとうございます」

 ギイギイ、バタンと、御小兎の声をかき消して、裏口の戸がやかましく閉まる。とり残された御小兎は、薄暗くなった駐車場にならんだ色とりどりの軽自動車をながめながら、唇をかむ。浩太郎さんが綾に会うことはうれしいれけど、自分では役不足なのがくやしい。

 ――うまくいくと、いいな。……ううん、ただ、死なないでいてくれれば、それでいいのに。

 御小兎は両手を挙げて、うーん、と背伸びすると、駐車場から駅にむかう道を戻っていった。

 断食をするため、今日は魂取町に戻って、神社に泊まる予定になっている。明日、気が進まないけど、良平に会ったら礼をいわなきゃならない。


 翌日の午前中、良平はひどくあわただしい時間を過ごした。一時間目の授業中に、綾が教室で倒れ、救急車で病院に運ばれたからだ。衰弱と栄養失調という診断だった。

 良平は学校を抜け、魂取神社まで自転車をこいで行き、そこで御小兎を後ろに乗せ、さらに病院まで自転車をこいだ。魂取南総合病院という名前の、この近くでいちばん大きな病院だった。到着するころには、冬だというのに良平はコートの下に汗をかいていた。

 ところが、病室に入ると、綾の母親の隣りにまだ高校の先生も付き添いで残っていた。良平と御小兎は怒られこそしなかったが歓迎もされず、ついでに御小兎の衰弱にも気づかれ、医者の診察まで受けさせられそうになったので、残念な気持ちで病院を出た。

 綾は細長いつくりの個室のベッドに横たわり、ベージュ色の布団にくるまって、死んだように眠っていた。栄養剤らしい透明な点滴を二の腕に差していた。窓のむこうの明るい空に、すじのような雲が薄くかかっていた。

 病院の門から出るとき、「ちっくしょう」と御小兎がつぶやいた。自分がその言葉に責められているような気がして、良平は肩をすくめて自転車にまたがる。

「どこに行きますか、おじさん?」

「図書館。昨日きみに聞いた、巫女のことについて、調べておきたいんだ。……いやかな?」

「いいですよ」とうなずき、とことこ緩慢な歩きかたで、御小兎が良平の背後に座る。背中にくっついた少女を振り落とさないよう、良平はゆっくりペダルをこぎ始める。

「……お見舞い、できなくって、残念だったね」

 慰めるつもりで良平がいうと、御小兎がさめた声で背中ごしに聞いてくる。

「どうして、他人ごとなんですか?」

「そうかい……ごめん。僕だって、そりゃあ、残念だよ」

 と答えると、御小兎は「そうですか」と相づちをうち、丁寧な口調で、良平とは別なことをいう。

「あたしは、残念じゃないです。ただ、本当に、今夜で、綾ちゃんが死ぬかどうか決まるんだ、っていう実感が湧いてるんですよ」

 ――そういうことか。

 良平は黙ってうなずいた。さっきの「ちっくしょう」は、お見舞いが出来なくて悔しかったんじゃあ、なかったってわけだ。いちおう納得しながら、もくもくと自転車をこぐ。病院から図書館にむかうには、市街を通って行くので、道すがら、どっちを向いてもクリスマスの飾りが見えた。ちかちか光るライトや銀色のモールや色とりどりの玉飾りが、住宅の庭や店先を彩っていた。

 図書館につくと、二人は資料を集め、いつかと同じ窓際の席に陣取った。ばさばさと本を広げ、かび臭い匂いをかぎながら、ページを繰る。目を通しながら、良平は御小兎の体調が気になり、目線をふとそっちに向けた。青白い顔つきだけど、目だけは真剣に本を覗き込んでいる。良平も視線を戻し、飽きるまで資料を読んだ。

 しばらくしてから、二人はそろってアクビをし、それに気がついて、おたがい顔を見合わせた。

「一息、入れませんか?」と御小兎がふだんより弱々しい声でいった。良平はすぐに「そうしよう」といって席を立った。

 二人は図書館のロビーに移動した。良平は二人ぶんの飲み物を自動販売機で買い、紙パックのほうじ茶を御小兎に手渡すと、えんじ色の小ぶりなソファに並んで腰かける。

 御小兎がホットのほうじ茶のパックにストローを差し、ゆっくりと吸う。やけどに気をつけているように見えた。断食中なので、お茶でガマンしてもらおう。

「ほんとうは、お茶もいけないんです」

「え、お茶も? 水分も、いけないのか」

「はい。これを飲んだら、もう、夜までなにも口にしません」

 と御小兎が宣言した。それから、ソファに背中を埋め、なにかくたびれたように目を閉じる。唇の皮が乾いてはがれかけているのが見える。リップクリームぐらい、塗ればいいのに、とも思うけど、そんな余裕さえないのかもしれない。ふと、いつかも聞いたような疑問が、良平の口をついた。

「どうして、御小兎は、羽佐間さんのために、そこまで出来るんだ?」

 御小兎は目をつむったまま、黙っていた。眠り込んでしまったのか、と良平が思ったころ、おっくうそうに口を動かして、聞き返してきた。

「だったら……どうして、おじさんは生きてるんです?」

 良平はぎょっとした。話が大きすぎるだろ、とうろたえた気持ちで横をむくと、もう御小兎は目を開いていた。澄んだ両目だった。

「なんで、そんなこと、聞くんだい?」と良平は動揺を隠して聞く。

「特別な理由はないですよ。でも……人を殺して生きるのって、どんな気分なのかなって、興味があります」

 御小兎がそういい、良平はゆっくり息を吸った。

「長くなるけど、聞きたい?」「……はい」

 返事を聞くと、良平はもう一度息を深く吸い、語りはじめた。 


 良平の母親は、二年前のクリスマスイブの昼間に、狭くて寒いアパートのうすい布団のうえで息をひきとった。二十六歳だった。体が弱いのに酒びたりになり、衰弱して、良平が家に帰ったときには、電気を止められた部屋のなかで冷たくなっていた。

 身内を見送るのは、良平にとって、二人目のことだった。

 一度目は祖母で、彼女は半年前に亡くなっていた。江原こうはら ふみという名で、五十七歳だった。二人とも早世してしまったのは、偶然じゃない。良平の家は、どうしようもなく、貧しかった。電気ガス水道が止まるのはしょっちゅうだったし、ごはんをお腹一杯食べられるのはまれだった。貧しいのに、二人とも、酒と煙草を止めなかった。止められなかったんだと思う。

 祖母が体を壊してから、母親は看病もしなくてはならなくなり、二人して寝たきりのようになってしまった。

 母親の死体の脇にすわり、良平は部屋の壁に頭をつけて途方にくれた。これから、どこで、どうして、生きていけばいいんだろう?

 それに、おそろしかった。じぶんも、二人のように、死んでしまうんじゃないか? それが、こわい。しにたくない。

 ――どうして、こうなった?

 十四歳の良平は、震えるひざを抱きながら、理由を考えた。そもそもの、原因。……祖母から何度か聞かされた話を思い出す。

 良平の祖父の話だ。母が五歳のとき、祖父は祖母と母を捨てて、うちを出て行った。それは、小説家になるためだったという。ふざけた話だ。

 大きなくしゃみを一つすると、良平は四畳一間のアパートのなかを家捜ししはじめ、衣類棚の下の段から、ほこりをかぶった金庫をひっぱり出した。祖母の話を思いかえし、祖父の名前と住所が書かれたクリーム色のメモ用紙を見つけ、ジーンズの尻ポケットにしまう。

 良平の家の貧窮ぶりとはちがい、祖父は小説家でなく編集者として成功していて、隣の県の住宅街で、別な家族を設けているという話だ。祖母と母は、祖父と関わることを避けていた。恥か誇りか、その両方だったろう。

 ――でも、死んでしまうなら、なんの意味もないよ。

 良平は黒いフードつきのコートを羽織り、ボロボロの鞄を肩にかけて玄関を出た。アパートの駐輪場に入り、母親の自転車にまたがり、駆けだした。冷たい風の吹く日で、全身がかちかちに凍えたころ、彼は目的の番地に辿りついた。

 良平は歩道の端に立ち、祖父の家を眺めた。助けてもらおうと思って、来た場所だった。きれいな庭付き一戸建ての家だけど、予想してたより、ずっと小ぢんまりしてる。淡いオレンジ色の屋根がかわいらしい。

 窓の中では、初老の夫婦と、おそらく、その子供たちが、居間の机をかこみ、窓ガラスみたいに大きくて平たいテレビの前で笑っている。

 この違いはなんだろう、と良平は違和感を覚えた。母と祖母を殺して、守矢 良平が生きている世界に対し、祖父の家のなかはぴかぴかしていて温かそうだ。もし、良平が保護を求めたら、あのなかに交じることが出来るかもしれない。

 ――でも。それで、いいんだろうか?

 良平は自問自答し、自分があの家族の輪に交じって笑っているところを思い浮かべ、しずかに首をふった。嫌だ。吐き気がするような光景に感じられる。良平たちを見捨てた家族の家で、仲良く笑って生きてしまったら、良平は自分で自分を殺したくなってしまうだろう。

 ふと……もうひとつの、選択肢が良平の頭に浮かんだ。母と祖母が殺されたみたいに、良平があのおとこを殺してはいけないだろうか? 自分たちを捨てた、この世界に、抵抗するために……。

 部屋に残してきた母の死体を思いうかべると、良平の気持ちは固まった。

 ――ぼくには、あの老人を殺す、義務がある。

 路地裏にかくれて、夜中になるのを、待った。闇にまぎれて庭にしのびこんだが、玄関も、庭に面した窓も、もちろん鍵がかかっていた。窓を割るか、どうしようかと、考えるうちに、二階の窓が目にとまった。塀の上に立てば、屋根にとびうつって、そこまで行けそうだ。少なくとも窓を割るまえに、試してみる価値はあると思った。

 路上駐車している軽自動車を踏み台に、バランスに気をつけながら高さ二メートル弱の塀に上り、歩いていって、屋根に手を伸ばすと、ひさしを掴むことができた。深緑色のひさしはがっちりしていて、子供が乗っても平気そうだ。思い切って飛び上がると、なんとか片足がかかった。そのまま、腹ばいの姿勢でよじのぼる。足音を殺して屋根のうえを歩き、大きな窓に近づいて手をかける。動いた。

 ――開いてるじゃないか!

 だいじょうぶだ。深呼吸して、窓をゆっくり開けていった。

 最初に入った部屋は、娘の部屋のようだった。甘いにおいのするベッドのうえで、女の子が眠っている。殺してやりたい衝動が込みあげたが、祖父から先に殺す、と言い聞かせて、部屋を出る。向かいにある部屋は、息子の部屋だろう。抜き足差し足で、階段を下りる。

 玄関を横ぎり、食堂にはいる。音をたてないように、引き出しのなかから包丁を見つけ出し、摺りきれた鞄に入れた。食堂に面して、ふすまでさえぎられた部屋を見つける。それを、開けてみた。

 四畳ほどの畳敷きの寝室の奥で、誰かが横になっていた。飾り気のまるでない部屋だから、寝ているのはきっと男性だろう。息子が一人だけなら、祖父かもしれない。

 布団に忍び寄り、包丁を取りだす。と、唐突に、枕もとのライトがついた。

 ――気づかれてたのか。

 まあいい。すでに良平は、男の布団の脇にしゃがみこんでいた。助けを呼ばれても、誰かやってくる間に、男を切りきざめる距離だろう。

 ライトのほのかな光が、良平と男性の姿を照らす。包丁の刃に光が当たり、縞模様の布団にちらちらと映った。良平は男の顔を観察した。白髪だらけの髪を後ろに流し、顔には深いしわが刻まれている。年齢からいって、良平の祖父にちがいない。包丁に気がついて、祖父は息をのむ気配を見せた。

「……きみは誰だ?」と、祖父が頭を起こしながら、にごった声で質問する。

「江原文の、孫だよ」と良平は答える。

 男はそれを聞くと、良平をまじまじ見つめた。色白で、くぼみかかった目が、おどろきで大きく開かれる。

「文の孫……だって。もう、孫がいるのか。その、元気でいるのかな、文は?」

 その問いを聞いて、良平のなかで、殺意がむくむくとふくれあがる。

「江原文は、半年前に死んだんだよ。それから、母さんも、今日のお昼に、死んだよ」

 といって、良平は相手の反応を見るために、男の青白い顔をにらみ、後をつづけた。

「だから、ぼくはあなたを殺しに来たんだ」

「……文が、死んだ。そうか、そうなのか」

 とひげ面の老人がつぶやくように言い、視線をゆっくり天井にむけた。数十秒間、だまって天井板を見たあと、良平をむいて小さくうなずく。

「わかった」「は?」「だから、うん。……殺してくれ」

 電球のあわい光が、男の顔をななめ下から照らしている。しわに囲われた目が、怯えてるみたいにまたたき、あきらめてるみたいに閉じるのを、良平は見た。ひげをたくわえた口が動いて、良平に確認をする。

「だって、本当なんだろう? 文が死んでしまったことも、文の子が死んでしまったことも」

 祖父があっけなく死を受けいれたので、良平はとまどい、返事に時間がかかった。男の顔から目をそらさず、奥歯をかんで、言葉を絞りだす。

「ほんとうだよ。だからぼくは……二人の代わりに、あなたを殺す」

 といったあとで、ねばついた唾液が口のなかに湧いてきて、良平は顔をしかめてそれを飲み下す。目のまえの男は逃げようとしないで、胸のまえで両手を組む。

「うん……殺してくれ。一度だって、あの人たちのことを忘れた日はない」

「うそでしょう。だったら、死んでしまうまで放っておくはずがない」

「うそじゃない。何度も援助しようとしたが、断られたよ。きみは、私が殺されると聞いて、怖がらないのが、不満なのかい?」

「うん。不満だよ。ぼくはあなたを、怖がらせて、苦しませて、殺さなきゃいけないんだ」

「私だって、怖いよ。でも、好きな女を捨てた男が、その女の孫に殺される死にかたは、私にふさわしいと思う。だって、きみのお母さんとおばあさんを捨てたことは、いまだって、悲しいんだ」老人のふるえた声が、狭い和室の空気に染みとおる。「その罪悪感のなかに、私の人生はあったから。あの子の娘に殺されて消えるなら、むしろラッキーだと思うよ。私にとって、これ以上の死にかたはない」

 祖父の言葉を聞いて、良平は目をまるくした。それじゃあ、このひとを殺しても、何にもならないってことなんだろうか。ちくしょう。

「マジですか」と良平が顔をしかめて聞くと、祖父は「うん」、と表情を変えずに肯定する。

 男の無反応に腹が立って、良平はやぶれかぶれで脅し文句を口にした。

「じゃあ、あなたの子どもを殺します」

「なに!」「あと妻も殺します」「マジで?」「はい」

 そんなことが、自分に出来るかどうか、良平にはわからなかったけど、口にしてしまった以上、冗談でしたなんていえない。むなしくて悲しい義務感が、良平の小さな背中を押して、入ってきた部屋に寝ていた少女のもとへむかう決心をさせた。

「勘弁してくれ」「イヤです。カンベンしません」

 良平が祖父に背中をむけて駆けだすと、背後に立ちあがる気配を感じた。ふりむかず、闇雲に足を動かし、良平は階段をかけあがる。

 ドアを開け、ベッドに駆けよっても、少女はまだ眠ったままだ。寝顔を見た良平はためらい、包丁を握ったまま立ちつくす。開いたままのドアから、階段をのぼる足音を鳴らし、祖父が部屋のなかに飛びこんでくる。

 ――ちくしょう。ちくしょう。

 良平は倒れこむように、少女の体に覆いかぶさりながら、出刃包丁をでたらめに振りおろした。

「……っが、ぁああああああああっ!」

 少女が犬の遠吠えみたいな声で叫んだ。良平は包丁の切っ先を、少女の下腹部あたりから引きぬき、肉を深くえぐるために、もう一度、右手を高く振りあげてる。

「だめだっ」と祖父が良平の体めがけて、肩からぶつかってくる。良平は斜めによろけながら、もう一度、少女めがけて包丁をつきたてる。胸元をねらった刃がそれて、肩口をえぐる。

「ぃやあっ、ひいいっ、いたああいっ」

 少女が苦痛にわめき、「だれかーっ、だれかーっ」と声を張りあげる。

「やめろ、やめろ」と祖父が声を荒げ、良平の右手から出刃包丁をもぎとろうと、手首に指をかけてくる。すごい力だ。良平は包丁を渡さないよう必死だったので、二人はもみ合いになり、床に転がった。良平は抵抗し、男の上腕や肩を、何度かあさく切った。しかし、男が拳をにぎり、包丁を持った指を、三度、つよく打つと、良平の右手は壊れたように力が入らなくなり、包丁を奪われた。良平は抵抗をあきらめて、床に体を横たえた。

 祖父が包丁を片手に持ち、良平を見おろしていた。目を大きく見開き、憎らしそうに口元をゆがめ、肩がぶるぶる震えている。

 男のその顔を見ると、良平の胸はすうっと楽になった。何事もなく生きている祖父が、取り乱し、人を憎む顔を見たかったのだ、と良平は自分がしでかしたことの理由と意味がわかった。

 けっきょく、まもなく他の家族も起きてきて、良平は四対一で取り押えられた。

 翌朝はやく、警察がやってきた。彼はうなずいて、決して顔をあげず、やるべきことをやったという充実感と、どうしようもない空しさを心にだいて、祖父の家をあとにした。


「僕が生きてて、人を殺すのは、なんていうか、僕や家族を見捨てた、この世界に嫌がらせしてるんだよ」

 と良平はいった。御小兎の両目に涙がたまり、それを片手でぬぐうのが見える。

「いや、違うかな。……僕はもっと、この世界を嫌いになりたいんだ。夢を見せるだけで、叶えないで、人を殺してく、この世界を。僕も、母さんだって、大したことを望んだわけでもないのに、見捨てられるんだ」

 ――悪者になれれば、よかったな。

 世界が正しくて、ぼくが悪者だったら、嫌がらせっていう構図も、ちょっとはマシだっただろう。でも、誰も悪くないせいで、じぶんがやってることが、一人芝居みたいで、良平はどこか悔しい。

 すると、御小兎は目をこすりながら彼を否定した。

「うそだですよ。だって、おじさんが死刑執行人になったのは、偶然じゃないですか。おじさんは、自分の仕事を肯定するために、あとから考えた理由をくっつけてるだけですよ」

 御小兎のいう通りだったから、良平は息をのんだ。――悔しさも世界を嫌う気持ちも、後づけの理由に過ぎないんだろう。わかっているつもりで、直視してなかったものを目のまえに晒され、噛みつくような声を出してしまう。

「……そうだよ。わるい? いつだって、現実は勝手にやってきて、人はあとから理由をつけるんだ。自分の人生は、自分で選んで決められる、なんて思ってる人間がいるんなら。実際に、自分の人生を自分で選んで組み立ててきた、なんていう人間がいるんなら、一度、お目にかからせてよ。そのおめでたい脳みその中をのぞかせてよ」

 と良平は一気にいって、ちいさく鼻を鳴らす。

「御小兎だって、そうじゃないか?」

 矛先をむけると、御小兎がたじろいで聞きかえす。

「あたしも……理由をあとからつけてる?」

「うん。羽佐間さんを助けたかったのに、気づけなくて、遠くに行っちゃって、どうにもならないことを、別の理屈で埋めあわせてる。何かちがう? 僕がまちがってるかな?」

「……いや。まちがって、ない」といって、御小兎が両手で胸の辺りを押さえた。さっきと反対に、今度は良平が図星を突いたようだった。

 良平はじぶんの言葉もまちがっていない自信があった。御小兎も、綾がはなれていって、死のうとするほど追いつめられてしまったことに、勝手な理由をつけている。

 御小兎が肩を落とす。

「あたしが、甘かったです。……完敗ですね」

「きみも……あんがい、バカだねえ」

 バカすぎてむしろ感心した、という風に、良平はいい、ミルクココアを吸って一拍おいた。

「バカすぎてむしろ感心したよ」

「おおおおおい! いわなくていいですよ、伝わってましたよっ」

 御小兎は声をあげ、手のひらで自分の膝をポンと打つ。

「そりゃわるかった。 でも、声に出したほうが、より細かいニュアンスまで伝わるからさ」

 と良平は解説したけど、言葉の威力が大きすぎて、御小兎にはニュアンスまで受けとる余裕はなさそうだ。頭を抱える御小兎を見て、良平はストローの刺さったホットのほうじ茶を差しだす。

「元気を出して。ほら、まだ半分以上のこってるから、ほうじ茶でも飲んで」

 けなされた相手から慰められて、よけい惨めな気持ちになったのか、御小兎が手のなかのほうじ茶をじっと見つめる。

「けなされた相手から慰められて、よけい惨めな気持ちになるかもしれないけど」

「かもしれないじゃなくて、なりました……」

 御小兎はがっくり首を折った。声をあげる気力もない様子で、ほうじ茶をズズズとすする。

「元気、出た?」「うん。……ありがとう」「いや、礼をいわれるほどのことじゃないよ」「うん。当たり前ですよね……」

 御小兎は小さな体を、ソファのクッションに深くしずめた。天井に埋めこまれた丸い電球が、やわらかいクリーム色にひかっている。

「あの、ずるいかも知れませんけど。あたしが生きてることには、理由なんてありませんから」

 御小兎が返事を待たずに続ける。

「だけど、どうやったって、後づけにしかならないなら……理由はなくってもいいですよね」

「それは、ただの思考停止じゃないか?」

 良平は疑問をはさんだ。

「きびしいですね。でも、ほんとうに、理由なんてないんですよ」

 といって、御小兎が体を起こして立ちあがり、残りのほうじ茶を一気に飲みほす。一瞬、二人の視線が交差する。しずかに光っている御小兎の目を、良平は泣き出しそうな気分で見た。

「それなら……理由がないって自覚を、忘れないでおいてよ」

 良平も立ってミルクココアを飲みほし、御小兎の空の紙パックを手に取ると、自動販売機のとなりに並んだゴミ箱のほうへ歩いていく。二人ぶんの紙パックをゴミ箱に投げ入れる。

 御小兎が良平の背中に声をかける。「おじさんって、意外と、やさしいんですよね」

「そりゃ、どうも」といって良平が振り返ると、少女はまたソファに腰かけて、静かに笑っていた。御小兎だって、無茶をいわなければ、悪いやつじゃないのに。

「褒めて持上げたところで、おじさんに、ひとつお願いがあるんですけど……」

「一瞬でも、きみを良いやつだと思った、ぼくがバカだったよ」良平はため息混じりに聞く。「で……お願いってなに?」

「動けないので、ここから立たせて下さい」「はい?」「力が入らないので、引っ張ってもらえますか?」

「おい、おい」といって良平が右手をさし出すと、御小兎は素直にそれを両手でにぎった。「よっこいしょ」と掛け声とともに良平の腕を引き、のろのろ立ち上がる。良平も腕に力を入れ、左腕を相手のわきの下に通して、御小兎のやわらかい体を支える。それだけのことで、少女は荒い息を吐き、ソファの背もたれに両手をついて、かろうじて立っている様子だ。肩を上下させ、ふうふうと呼吸を整える気配を、良平は感じた。「大丈夫かい、ほんとに?」

「大丈夫ですよ。意識ははっきりしてます」

「それじゃまるで、重病人の言いかたじゃないか」

「あたしは大丈夫です。大丈夫なんですけど、横になって休みたいから、家まで送ってもらいたいです」

 御小兎の顔色は、いつにも増してまっしろだ。少女をソファに押し戻し、「それはつまり、大丈夫じゃない、ってことなんだよ」と言い聞かせ、早足でロビーから閲覧用の机にむかい、散らばっていた本をまとめて本棚におさめる。

 ソファの前まで戻ってきたとき、御小兎は目を閉じて、死んでいるようだったけど、肩を軽く叩くと薄目をあけた。「安全運転で、お願いしますね」といって、良平の肘の辺りをにぎって立ち上がる。

 良平は御小兎を引きずるようにして、図書館を出た。受付にすわっている眼鏡をかけたお姉さんが、くたびれた目つきを二人に向けていた。不審者として呼び止められなかったのは、良平に興味を持てなかったせいだろう。無視されることも、たまには役に立つ。

「なるべく、ゆっくり走るけど」良平は自転車に二人乗りすると、後ろに呼びかける。「落っこちないよう、捕まっててくれよ」 「うん……うん。お願いしまーす」

 御小兎が気だるそうに返事をして、それでも良平は励まされて、自転車のペダルをこぎだした。

 時計を見ると、午後三時を過ぎていた。日差しがもう勢いをなくしかけて、うすい雲と交じりあい、空は白くにごっている。空気も冷えてきていて、良平はフードをかぶりながら、後ろを気にした。御小兎は振り落とされないよう用心のためか、良平の胴をあんがいきつく抱きしめている。

 細い腕から伝わってくる力が、図書館のロビーでの会話を良平に思い出させる。

 ――どうして生きてるんだろうな、ほんとうに。

 正直なところ、御小兎に問われるまで、良平には、これ、という理由なんて無かった。ただ、あの夜のことを語るうちに、それらしい理由に行き当たっただけだ。それを、行き当たりばったり、と人はいう。

 ――ほんとう、いつも、行き当たりばったりでしかない。

 自分で何かを決めたとか、はっきりいいきれることが、いままで、幾つあったろう。祖父を殺しにいったことも、失敗して、死刑執行人になったことも、決めたというより、そうするしかなかったようなもんだ。

 考え事をするうち、自転車が下り坂をおり、急なカーブに差し掛かって、良平はブレーキをかたく握る。御小兎の重みを背中で受けとめ、カンカン鳴りだした踏み切りの手前の道ばたに停車する。電車が通り過ぎると、御小兎がくぐもった声で聞いた。

「おじさん、いま、どの辺にいますか?」

「ああ……魂取駅にいちばん近い踏み切りだよ」と良平は伝えた。「じぶんで見てわからないのかい?」と聞きたい気持ちを遠慮する。御小兎の体は良平の背中に貼り付いて、動く気配が感じられない。顔をあげないほうが楽なんだろう。

「了解です、あと五分ちょいですね」という声をかろうじて聞き取り、良平は両足をペダルに乗せる。五分じゃ着かないだろ、ぜったい、と口の中でつぶやきながら踏み切りを越え、御小兎にあの話をした理由について、考え事を再開した。

 ――御小兎と、僕は……ちがうのに。

 すくなくとも、綾を助ける、守るって決めて……御小兎の決意は揺るがないように見える。だったら、どうして僕は、自分とちがう少女に、あの話をしたんだろう? そう考えると、けっきょくのところ、御小兎が聞いてくれたからだった。そもそも「どうして生きてるんですか」って、真面目な顔で質問するひとなんて、めったにいない。

 聞かなければいいようなことを、真剣に聞いてくるひとだから、良平も、祖父を殺したときのことを話せた。あの日のことを思い出すのが怖いから、幸子さんにも、詳しい話はまだしていない。ところが図書館では、すらすらいえたし、大して怖くなかった。それが良平はうれしかった。

 だから良平は、御小兎をほうって置けないでいる。

「ほら、御小兎……ついたよ」「はい。よっこいしょっと」

 御小兎を背中から降ろし、小さな黒い鉄の戸を押して、玄関脇のコンクリ塀の内側に自転車をたてかける。後ろをむくと、御小兎があんがいしっかりした足取りでついて来ていた。白いコンクリで床を固めた、狭いけど清潔感のある庭だった。

「ただいまー」「……おじゃまします」「はい、はい。あら……こんにちわ」

 お母さんは正直な人らしく、良平を見ると顔に不審そうないろを浮かべた。以前、挨拶に来たときのことは、印象に残っていないようだ。

「ええっと、ママ、このおじさんはね」と御小兎が片手で良平を示し、「いや、コレはね」と言いなおした。その言い直し方は、まちがってるんじゃないか……?

「コレは、つい最近、友だちになった、良平くん。……いや、同級生、ほんっと。留年してないし、社会人でもないよ? その、ちょっと……かわいそうなだけの人なの」

「そうなのね」といってお母さんが良平をしっかり見た。不審そうな人から可哀相な人を見る目つきに変わっている。御小兎め……コレ、さっきの図書館のアレの仕返しのつもりなのか……? やりすぎじゃない?

「おやつ、食べるー?」「ううん、だいじょうぶ。コーヒーも、いまは要らないよー」

 母親と背中ごしにやりとりする御小兎の後ろにくっついて、良平も階段を昇り、二階の御小兎の部屋にお邪魔した。

 たぶん四畳の狭い部屋を、壁に据えられた本棚が、さらに狭いものにしている。棚に納められている大量の本の背表紙には、御小兎が自負していた通り、『心霊現象』とか『都市伝説集』とか『怪異』とか、オカルト関係の文字がならんでいた。

 部屋に一個だけの椅子を、御小兎は良平にすすめ、じぶんは倒れるようにベッドに滑りこむ。「つーかーれーまーしーたーよー」と薄紫色の布団のなかから、かすれ声でいった。

 良平は「おつかれさま」とねぎらった。さんざん自転車をこいだせいで、両足がまだ熱かったので、自分も足を投げ出して、背もたれに寄りかかる。そして、ひどく迷ってから、無難そうな質問をした。

「霊が見えるのって、便利かい?」

「不便ですよ。そこにいないはずの者たちが見えるんですから」

「辛く、ないかい?」

「昔ほどは、辛くないんですよ」

「小さいころのほうが……大変でした」「……」「いいたいことがあるなら、いったらどうですか!」

「ないよ。いや、たとえあったとしても、いいたくない。……殴られて、痛い思いをするのは、もう懲りたよ」

 そういって、良平は肩をすくめる。歩道橋の上で、御小兎と出会ったときから、まだ一週間も経っていないのに、遠い昔のことのような気がした。

「……残念です」と残念そうにいって、御小兎はそれきり黙った。すぐに、しずかな寝息をたてて寝はじめる。

 良平もアクビをして、目を閉じた。すると、いままで意識していなかった、ラベンダーのほのかな香りが鼻腔にしのびこんできた。そして体の力が抜け、疲れているし、今夜は遅くなるから、少し仮眠を取ったほうがいいだろう、と思うと、意識がすうっと遠くなった。


  8

 浩太郎は朝からさんざん悩んだ挙げ句、半休を取り、綾の自宅へと車を走らせた。ところが、病院の看護婦に、見舞いだと伝えると、

「たぶん、疲労ですね」とあまり深刻でない対応をされ、肩透かしのような気持ちになった。

「ああ、そうですか」と浩太郎は相づちをうち、ともかく病室の番号を聞いて、ノックをして白い扉を引いた。「おじゃまします」

 浩太郎が部屋に入ると、盛り上がっている布団と、綾の顔が見えた。短い髪で囲われた丸いあごの形を見て、なつかしさが込みあげる。昼間は曇っていた空が、いまは晴れて、四角い窓から白っぽい西日が差しこんでいた。

 窓際に綾の母親が座っていて、浩太郎を見つけると、立ちあがってこちらに頭を下げた。

「こんばんわ……おひさしぶりです」

「お久しぶりです。あの……しばらくここにいても、だいじょうぶでしょうか?」

「どうぞ、ごゆっくり。わたし、ちょうど帰ろうと思ってたところなんです」といい残して、母親が病室を出て行った。とり残されたような、ほっとしたような気持ちで、椅子をベッドの近くに寄せて、浩太郎は座りなおす。綾は身じろぎ一つしないで、じっと横たわっている。呼吸の音と、胸の動きが、生きてることを伝えていた。

 ――けっきょく、おれは、担がれちゃったのかな?

 今日の午前中、綾は教室で倒れた。原因は疲労、栄養剤の点滴をした、意識が戻り次第、退院できるだろう。死んでしまいそうな話は、一つも聞かない。昨夜の少年と少女の、あの真剣な話は、なんだったっていうんだろう。

 それに、綾が目覚めないことも、意外だった。息もたえだえな綾に、一言だけ、ありがとうって、伝えたいと思って、やってきたのに……。

 ――なにも、できない、か。

 浩太郎は片手で顔を覆った。綾の恋人で居たあいだも、自分はなにも出来なかった、そうじゃないか。落ち込んだ心に、のっぽで青い髪の少年の言葉がよみがえってくる。

『羽佐間さんが自殺未遂を繰り返しているからです』と少年はいった。その真偽を確かめることさえ、浩太郎はまだ出来ていない。

「なあ、綾」と浩太郎は小声で呼びかけ、恋人だったひとの手をにぎった。それがいやに生ぬるかったので、思わず手を引き、彼は自分と綾の手のひらを見比べる。自分の手も、それより一回り小さくてやわらかい綾の手も、あのころとなにも変わりない。ただ、体温だけが低く、しぼみかけていた不安が、また膨らむ。

 ――ほんとうに、このまま、死んでしまうんじゃないだろうか?

「……くっそ、ああもう」といって頭を掻きながら、浩太郎は立ちあがった。この不安も、取り越し苦労かもしれない。きっと、自分が悩んでいることも、何にもならずに、綾はケロッとした顔で起きあがるだろう。それでもいいから、ここにいることに決める。窓際から一人で外を眺め、彼は腕組みしてうなずく。

 どうせ半休を取ってしまったのだから、同じことなのだ。綾の横にいることのほかに、やることなんてない。

 自分に言い聞かせると、浩太郎は急に空腹をおぼえた。病院に来る一つ手前の角に、コンビニが建っていたことを思い出す。財布の中身を確かめ、彼は病室を出た。歩いて十五分ほどで、国道沿いのコンビニに着く。

 こうなりゃ長期戦だ、俺にはここにいることしかできない。……そんなことさえ、昨日までは出来なかったんだし、と気持ちを慰めながら、新商品の海老アボガドおにぎりを二つとツナおにぎりを一つ手に取り、額の広いおねえさんのいるレジで会計を済ませる。

 ビニール袋をぶら下げて外にでると、空はまたうす曇りにもどっていた。


 午後九時を過ぎ、ほそながい月が魂取神社のうらの森のうえにのぼっても、良平は御小兎のすぐ横にいた。人気のない社で、神様と戦う準備のため、二人は本殿をかこむ縁側の床にすわり、魔除けの札を作っている。御小兎が墨で半紙に祝詞をかいて、良平がそれを折りたたむ、単調な作業が、一時間あまりつづいていた。

 一時間、といっても、御小兎は五分おきくらいに休憩をとった。床にばったりあお向けになり、一、二分、呼吸を整えては、また起きあがる。筆の運びものろく、一文字ごとに筆をすずりに戻し、ちいさな肩を上下させながら唇をとがらせて息を吹く。

 月明かりの下、良平は作業の手を止めて、聞いた。

 それは、御小兎に聞いているようで、自分たちについて――良平と御小兎について――聞くことでもあった。

「どうしてきみは、ここまで、するんだい? けっきょく、むだになるかもしれないのに」

「むだになったとしても、いいんです。もしも、側にいてくれてた人が、死んじゃうなら、死んじゃう前に、ちょっとだけ、何でもいいから、やっておきたいんです」と御小兎は静かに心情を吐きだす、「綾ちゃんが死んじゃったあとで、あたしがあたしを許せるように」

 良平は御小兎のほうをむいたまま、まだ質問した。

「きみは、どうして……羽佐間さんのそばにいたんだ?」

 御小兎の視線が、ふわふわ漂うのを、良平は見た。

 ――じゃあぼくは、なんで、今こうして、御小兎の横に座ってるんだ……?

 理由なんて、必要なんだろうか。でも、いや、でも、理由はあるはずだよ。そこには、必ず理由がある。じゃあ、それはなんだろう。人が、誰かの隣りにいる、理由って、なんだろうか。

「いなきゃいけないから? いつの間にか側にいたから?」良平は思いつきを列挙する「一人じゃさびしいから? 話がしたいから?」

 こくり、と御小兎は空を見ながらうなずいた。青白い月が、空のいちばん高いところで、魂取町を照らしてる。

「あたしはいっぺん、独りになったんです。だから」御小兎の声が空にのぼる、「……共感できてあったかいとか、承認してもらえてうれしいとか、綾ちゃんの体温がほしくて、笑顔がみたくて、理由もほしくて――つまり自分がいてもいい理由が得られるってことで――」

「そのなかで、一つだけ選ぶとしたら、きみは、なにがいちばん欲しい?」

「一つなんて、無理です」といい、御小兎は口元に笑みをうかべた。

「一つ得られて、満足できたら、ひとは困りません。一つ手に入れたら二つ目を、次は三つ目と四つ目を、無限に欲しがるのが、人間ですよ」

「じゃあ、きみが羽佐間さんといっしょにいたのは、他の人といるより、羽佐間さんといるほうが、たくさんを得られると思ったから、なのか?」

 御小兎は考えて、首を横にふった。

「……ううん。あたしが、綾ちゃんの側にいたのは、なにも要らなくなるからです」

「……どうして?」

「だって、綾ちゃんがいたら、あたしは必要なものも必要じゃなくなります」

「なぞなぞかい、それ?」

「ちがいますよ。ただ、大事な人に会ったら、求めなくてよくなるんです。大事なひとは、あたしを大事にしてくれるから、あたしは求めなくてよかったんです」

 良平は、御小兎の返事を聞いて、また疑問が浮かんだ。でも、それをいうとき、彼の胸はじわりと痛んだ。

「そんなに大事だったのに、どうしてきみは羽佐間さんから離れていったの?」

 御小兎が片手でゆっくり心臓を押さえた。一度、深呼吸をして、答えを口にする。

「必要じゃなくなった。綾ちゃんにとって……あたしが。それだけですよ」

「誰が、必要じゃなくなったって、決めた? 二人でかい」

 たたみかけるように、良平はいった。でも、御小兎が答えに詰まったので、良平はいいすぎたと感じ、口調をやわらげた。

「ごめんね。きみに、答える義務なんて、ないよな」

「義務なんて、なくったって、あたしの意志で答えます」

 といって、御小兎がむりやり胸をはった。「あたしが、決めたんです。あたしは、隣に綾ちゃんがいなくても、生きていけるひとに、なりたい……って思いました」

「おじさんは? 誰かといっしょにいるなら、それは、どうしてですか?」

「と、いわれても」「もしかして、誰もいないんですか?」「うーん、うーん」

 良平は腕組みして目をつむり、ざんねんな気持ちで首をふった。

 それを見て、御小兎がにやにや笑う。「寂しいひとですよね」と明るいがかすれている声でいう。「人に慣れていないから、おじさんは反応が極端で、おもしろいんだと思いますよ」

 勝手に分析してから、御小兎が手すりに手をかけ、体を起こしていく。良平はだまって座りなおし、護符に手をのばした。墨の字が乾いているかに注意しながら、厚ぼったい半紙を扇子折りにして、穴を開け、ひもを通す。

「きみってやつは、優しいんだか、嫌なやつなんだか、どっちともとれるひとだね」と良平は手を動かしながらいった。

 御小兎が手すりに背中をあずけ、床に足を伸ばしてすわる。硯のほうへ右手をゆらゆら差しだしながら、返事する。 

「これはやさしさじゃあ、ないですよ。……ただの慰めです」「くそ」「ふっふっふ」

 わらった拍子に、御小兎の手元がぶれ、硯と筆がぶつかり、ガチャリと音をたてて筆が床にころがる。それをひろいあげる気力も残っていない様子で、御小兎は右手をだらりと垂らしてしまう。

「おいおい」と良平は筆をひろって硯のうえにのせ、御小兎に声をかける。「もう、じゅうぶんじゃないか? むしろ、作りすぎだよ」じっさい、お守りの札は、縁側の床に山積みになっている。御小兎の家から持ってきたものとあわせたら、五十枚ちかくあるだろう。

「本番は、真夜中だから、しばらく休んだほうがいい」

「わかりました、じゃあ、おじさん……ぜったいになんとかしてください」

 といって、御小兎の首がうつむきに垂れ、そのままの姿勢でつぶやく。

「もしも、なんとかならないときでも、どうにか」といって御小兎が縁側の床を平手で打つ。ぺしっ、となさけない音が鳴る。

「もしかしたら、あたしも神様と話せるのかもしれないですし、なんとか、すこし、ちょっとだけでも、動きを止められるよう、説得してみますから……だから、おじさんは、死ぬまで戦ってください」

 そういうと、縁側の床に、御小兎が体をくの字に横たえた。もう、座ってるのも辛かったんだろう。良平は奥歯をかんで、「お断りだよ。ぼくは、危なくなったら、逃げる」と答えた。「だから、御小兎も、死なないように、逃げてくれよ」

「……おじさんの、ばか」御小兎がポツリという。「どうして、人殺しのくせに、ときどき、やさしいんですか?」かぼそい声が湿ってひびわれる。「きのうだって、店長さんに、勝手に話に行ってくれたし……」

 良平はびっくりして声が裏返った。

「なんで知ってるの?」「おじさんが来たあとで、あたしも、会いにいったんですよ」

 といって、御小兎が声をださずに笑う。「店長さん、『会いに行くよ』っていってました」

「そんなことって、ほんとうにあるのかね」と良平は疑った。

「あたしは、あると思いますよ」「ぼくは、ないと思う。けっきょく、来ないんじゃないか?」

「ほんっっとに、気が合わないですよね、あたしたち」と御小兎がいい、苦しそうに肩を揺らす。それなのに、途切れがちな声で礼をいった。「でも、おじさん……ありがとうございます」

 良平は「どういたしまして」の一言もいえず、横になった御小兎を見て、空にうかぶ月を見た。

 やがて彼は立ちあがると、少女が体を冷やさないよう、抱きかかえて床の間に運び、布団に横たえた。それから境内に出て、本殿の裏から木材をのせたリヤカーを引いて来ると、三日前の晩に見たようにやぐらを組み立て、組みあがると焚き木をくべて火をつけた。そしてござを敷き、自分も体を休めるために、床の間へもどっていった。


 空は晴れていた。時計の針が十二時をまわった。御小兎の祝詞の声は低く細く、地の底から悲鳴がわいて、暗い夜空のさらに上へ、なにか伝えようとのぼっていくみたいだ。

 良平は鳥居に寄りかかり、斧を持った右手を垂らし、何気なく左手で肩甲骨のあたりを掻いていた。森の奥から境内に向かって、一度、乾いた風が吹いた。かがり火が左右に揺れて火の粉を散らす。けど、御小兎は正座したまま動かない。林の枝も揺れて、ザザザ、とさびしい音が鳴る。

「――来る、よ」

 御小兎が静かにつぶやいた声が、いやにはっきり聞きとれた。

 良平は、神社の裏手の森をみつめ、寄りかかっていた背筋を伸ばす。あの神様は、そこからやってくる。ほら、空気がびりびり震える。

「やあ、神様、こんばんは。……ひさしぶり」

 良平は片手を挙げて、見あげるほど巨大な狼に挨拶した。狼が白い牙をのぞかせて答える。、

「こんばんは。元気だったかい?」「あまりよくない。胃が弱いんだ。あなたは?」「わたしは快調だ。胃弱なら、パシンロンを飲むといい。市販薬では、あれがいちばん効くはずだ」

「愛飲してますよ」と苦笑いしながら、良平は狼の体を観察する。銀色の背中のうえに、御小兎があお向けに寝ている。気づかなかったけど、前回は大地が、同じように背中に乗っていたんだろう。

「さてと。用件を、聞かせてもらえるか? 今夜は、私が食べる魂が見当たらない」

「うん。今夜は、あなたに渡すものはない。ぼくらは、あなたが食べた魂を取り返すために、あなたを呼んだんだ」

 要件を告げると、神様は面食らったみたいに、口をぽかんとあけた。次に、空気をゆらして、低いうなり声をあげて笑う。

「きみは、ふざけてるのか? 申し訳ないけど、いちど飲み込んだものは返したくない。体によくないからね」

「そうですね。では、勝てるかどうかわからないですが、力づくで、取り戻します」

 良平は狼にむかって、駆けだした。右手ににぎった斧をだらりと下げ、目線は獣の体のどこかにある、綾の魂を探る。あの色は忘れようがない。距離をつめるうちに、神様が首を動かし、首を覆う毛の隙間に、綾の魂の色が見えた。

 良平は走りながら狙いをつけ、手斧を肩にかつぐ姿勢で近寄っていく。

「意外と、ぶっそうなんだな」といって、狼が手足を折り曲げ、地を這うような姿勢で、良平を待ちうける。

 互いの距離が五メートルほどになったところで、良平が速度をゆるめず、斧を振りかぶった。神様はカウンターを狙っているように見える。それなら、どこかでかならず頭を上げるはずだ。その瞬間に、顎をめがけて斧を打ち下ろすつもりで、良平は右手に力をこめる。

 おたがいの距離がゼロになったとき、狼が頭を下げて鼻を突きだし、良平を弾き飛ばそうとする。良平はそれを予期していたので、両足で踏んばり、右に飛んで避ける。体の左側を、巨大な顔が通りすぎる。回り込んだ勢いで、腰を回転させながら、右から左に斧を振る。と、狼の前足が、横になぎ払う動きで、顔の前にせまってきた。食らったら、骨も肉もぐちゃぐちゃになるだろう。とっさに、良平は斧の狙いを顎から前足に切りかえ、攻撃を防いだ。

「やはり、きみは反応がいい」神様の楽しむような声に、硬いもの同士がぶつかる音が重なって、境内にひびく。

 弾かれた衝撃を逃がし、距離をとるために、良平はわざと右に倒れ、勢いのままゴロゴロ転がった。すみっこの方の茂みにぶつかって、すばやく立ち上がり、神様に向きなおる。今度は左手で、ふところからお守りの札を抜きだしていた。祝詞は守りだけでなく、攻撃にも使えると、御小兎から聞いている、それを良平は試すつもりだ。

「……祓い(はらい)の祝詞の札か。骨董品だね」「古めかしいけど、前回も効果があったから」「記憶力、というか、観察力もいいんだな。優秀だ」

 神様が前足で大地を蹴るのが見えた。突っこんでくる、と良平が感じた次の瞬間には、すでに狼の顔が目のまえにあって、良平はとっさに横に避けながら、祝詞の札を投げつける。お札は、ナイフみたいに飛んで、狼の脇腹に刺さると、火を噴いて燃えつきる。

 神様が後ろに飛んで、距離をあけた。離れるということは、多少は効いたのかもしれない。

「チクチクするね。出来のいい札だ」

「神様。……あなたは、これを楽しまれてるますね」

 狼が顎を引き、声を出さずにわらう。

「神の寿命は、人間より三百年ばかり長いからね。平穏に越したことはないが、刺激がすくなくて、どうしても退屈してしまう」

「じゃあ、楽しんだぶん、褒美をください。魂ひとつでいいです」「だめだ。高すぎる」「負けてください」「負からないな」

 軽口をたたきながら、良平は呼吸を整える。内心は、穏やかじゃなかった。

 ――冗談じゃない。

 最初に攻撃を弾いたときから、右腕と肩が焼かれたみたいに痛い。たった二回、渡りあっただけなのに、体じゅうの筋肉が悲鳴をあげていて、気持ちを張っていないければ、いまにも膝が折れそうだ。あと一太刀で、こちらは動けなくなるだろう。

「神様がケチだから、やっぱり力づくで行きます」

 左手をもう一度ふところに入れ、良平は残りの、二十枚近くあるお札をいっぺんに取りだし、扇状にひろげる。一気に決着をつけなければ、負ける。

「大盤振る舞いだな。きみはそれを、どうするつもりだ? 断っておくが、いくら札があたっても、私にとってはせいぜい石ころがぶつかった程度のものだよ」

「石ころなら、狙いをつければ役に立ちます」良平は左腕を引き、狼の両目めがけて札を一枚ずつ投げつける、「たとえば、目潰しとかね?」

 神様がまっ黒な目を閉じて顔をふり、飛んできた札を払う。つぎに、良平は手元に残った札をぜんぶ、夜空を仰いで、高々と放った。同時に、右手に斧をだらりとぶら下げ、巨大な狼にむかって最後の疾走をはじめる。

 打ちあげられた札は杉林の上空で勢いをうしなうと、今度は針の雨みたいに地面に降りそそぐ。良平は走りながら、札の落下と神様の体をいっしょに視界に収め、ちょうど自分が相手に駆け寄るタイミングで、針の雨が落ちてくることを確信する。

「ちっ」と狼が舌打ちしながら、体を低くかがめる。

 ――その反応は、想定どおり。

 神様は避けないだろう、と良平は予想を立てていた。神様にとって、これはただの暇つぶしだ。良平の体が悲鳴をあげていて、これが最後の一撃になることなんて、お見通しだろう。だから、避けたりしないで、正面から受けて立ち、楽しもうとする、はず。

 神様の体が、ぐんぐん近づてくる。距離にして五メートル、まだ相手の動きはない。三メートル、まだ動かない。一メートル。神様と目が合う。笑ってるように見えた。良平はそこで身をかがめ、急停止する。

 つぎの瞬間、祝詞の札の雨が、狼の全身に降りかかった。銀色の毛皮が札を弾き、良平の目のまえで無数の火の粉が飛ぶ。良平はそれを隠れみのにして、狼の腹の下へと滑りこむ。ザザザ、と本物の土砂降りみたいな音が、耳の奥にひびく。

 土砂降りにふられて、傘を持たずに、上をむく人はいない。まして、石の雨に降られれば、なおさら、大した威力でないとわかっていても、反射的に下をむいてしまうものだ。うつむき、体を屈めた狼の腹の下で、良平は狼の顎の下の毛並みを左手でわしづかみにした。

 ――うまくいった!?

 綾の魂は、神様の喉のあたりにとどまっていて、ゆたかな毛並みのあいだに隠されている。刈り取りやすくするには、神様に上をむいてもらって、喉を狙えばいい。良平はその都合のいい状況を作り出しつつあった。

 仕上げに右手を振りあげて、狼の喉もとを刈りとれば、終わる。そのはずだった。だけど、刃物と刃物が触れ合う無機質な音で、良平の鼓膜が震えた。

「君は、よくやったよ」という神様の褒め言葉を、良平は聞いた。振りあげた森夜は、白黒まだらの前足から伸びた爪に防がれていた。

 狼が顎を振って良平の体を振りまわし、片腕を横になぎ払う。良平はとっさに左手を放したが、太い腕が良平の脇腹を横殴りにし、彼の体はおもちゃの人形みたいに吹きとばされた。一瞬の浮遊感のあと、背中が地面に叩きつけられる。

「発想も、実行力もよかった。大昔だったら、神と戦った勇士として、伝説に記録されて、図書館に並んでるところだ」

 といいながら、石畳に投げ出された良平のもとへ、神さまがのしのし近寄ってくる。右の脇腹と背中に、激痛が走っている。痛みのなかで、良平は最後の勝機をさぐった。右手にはまだ森夜があり、手足はどうにか動きそうだ。でも、もう神様の隙をつく方法がない。

 良平の力では、勝てなかった。あとはもう、彼と気の合わない、ちっぽけな少女に、賭けるしかない。

 ――できるどうか、わかりませんけど……。

 良平は地面に大の字に倒れ、巨大な体躯を見あげる。

 ――なんとか、すこし、ちょっとだけでも、動きを止められるよう、説得してみますから……だから、おじさんは、死ぬまで戦ってください。

 止めを刺すつもりなのか、神様が良平の足もとで立ちどまった。でも、何か妙だと、良平は感じた。右の前足と左足をあげて、歩いている途中の姿勢で静止している。一秒二秒三秒と時が流れても、神様は凍りついたように動かない。

「なんだ、これ、は?」神さまが、戸惑いを口にした。「なんだ、君は。わたしに、なにを……している?」

「くっ、くっ、く……あはは、は」良平の唇の隙間から、笑い声がこぼれる。あの野郎……ほんとうにやりやがった、という驚きと賞賛が、手足を動かす力に変わり、良平は地面に手をつき、肩膝を立てた。

 神さまが肘と足を曲げて身をこごめ、目のまえに巨大な顔が近づいてくる。そして、斬ってください、とばかりに、狼の顎がゆっくり持ちあがる。そこに見えた綾の魂を切り落とすため、良平は湧いてきたかすかな力を頼りに立ちあがり、森夜を振り下ろす。

 ザンッ、と小気味いい音をたて、青黒い魂が銀色の毛並みのあいだからこぼれ落ちる。それは地面に落ちると、音をたてずに跳ねて、空中に浮かびあがり、ちかちかとホタルみたいに明滅しながら飛びはじめた。向かっていくのは、魂取町の方角だ。

「いや、ざんねんだった。きみは神主を抱きこんでいたのか」

 と神様が、ちっとも残念ではなさそうにいった。体の自由がもどった様子で、首をかしげる。

「神様なのに、知らなかったんですか?」「うん。いつもと別の人間だ、という認識しかなかった」

「勉強不足でしたね」といい、良平は力尽きて尻餅をつき、大の字に寝転んだ。

「そのようだ。勉強になった」と神様が、どこかうれしそうな声で認めた。「それじゃあ、わたしは私の国に帰るよ。……きみとは、また会いたいものだ」

「お断りします」

 良平がきっぱり断ると、神様は低い声で笑いながら、背中に乗っていた御小兎を良平の寝ている隣りに横たえて、二人に尻尾をみせて歩きだした。社の後ろに巨体がかくれ、銀色の毛並がかがやきながら、森の奥へと消える。それを見届けると、良平は目をつむった。

 どの位のあいだ、横になっていただろう。体がまだ冷え切っていないので、さほど時が経っていないと分かる。御小兎が動く気配を感じ、良平は目を開けた。

「うそ、みたい。……これで、綾ちゃんは助かったの?」

「うん。あの魂は、持ち主のところへ、帰った」

「よかった。ありがと、うん、ありがと」

 御小兎が嗚咽まじりに、お礼をいう。良平は大の字のまま、ぽつりぽつりという。

「いや、いいんだ。僕がどうにかしたわけじゃない。きみが体を張ったおかげだ」

「それでも、いいよ。よかった。うん、よかったあ」

「これは、水を差したいわけじゃないけど……あとは羽佐間さんが、また死のうとしないように、祈ろう」

 そのとおり、よろこびに水を差され、御小兎が言葉につまり、鼻をすすった。じっさいのところ、綾の自殺未遂の問題は解決していない。暗い夜空に湿った息を吐きだして、怖がる自分をなぐさめるために、良平はあえて最悪の事態を口にする。

「それこそ、もしかしたら、いまごろ羽佐間さんが目を覚まして、病室で首にロープを巻いてるかもしれないけど」

「そう、ですね」「否定してよ……」「自分でいったことじゃないですか」

「だけど、やっぱり、いやだよ、それ。いやだから、明日もさ、羽佐間さんが死なないでられるように……なにか、なんでもいいから、してみるよ」

 良平の右手に冷たいものが触れた。目線を下に向けると、御小兎の左手が伸びて、手のひらが重なっている。柔らかい指に握りしめられる感覚が、励ましてくれているように良平は感じた。少女の小さな手を、良平はにぎり返す。

「あのですね」といって、御小兎がつばを飲んだ。「あたし、おじさんのことが、だいっ嫌いです。ほんとにしょうがない、最低の人殺しで……だいっ嫌いですけど、でも、認めます。それが、おじさんの仕事で。そうやって生きてること」

 いいたい放題いうと、御小兎が良平の手をほどき、地面に肘をついて上体を起こす。

 かがり火は、まだ盛んに燃えている。オレンジ色の灯りのまえで、御小兎の体が、離れていく。良平は大の字のまま、少女の姿がにじんで見え、目をこすった。口をあけたけど、喉元までせりあがって来た声も、言葉にならなかった。

 御小兎は立ちあがる途中、片膝をついた姿勢で、良平のほうに体をむけた。

「おじさんって、完全に、子どもですよね」

「御小兎から、子供っていわれるのは、複雑だね」

 ふと、頭をやわらかいもので触れられ、良平はびっくりして御小兎の顔を見る。ほそい指先で、前から後ろに、ゆっくりと御小兎が良平の頭をなでた。涙が、ぬぐうより先に、目からあふれて頬をつたいおち、良平は片手で両目を押さえた。

「……よし、よし」

 そういって、少女が、彼のとなりにしゃがみ込んだ。

 やがて、目を開けられないまま、御小兎のほうにのろのろ体を起こし、白装束の衿に顔を埋めて、ほんのひととき、良平は泣いた。

「ちくしょう、ぼくだって、きみが嫌いだよ。嫌いだ。……大嫌い」

 御小兎がだまって、右手で頭をなでながら、良平の背中に左手をまわしてくれた。体から力が抜けて、両目から涙がつぎつぎに湧きでてくる。少女の小さな肩に腕をまわしてすがりつくと、ラベンダーの香りがして、良平を落ちつかせた。

 いつしか、顔をあげてみると、急に恥ずかしくなり、良平は腕をのばして体を離した。御小兎のちいさな体が、ぶるぶる震える。

 ――ありがと。

 心のなかで礼をいい、良平は御小兎が断食していたことを思いだした。御小兎のほうが、体の負担は大きいはずだ。はやく家に連れて行くか、せめて床の間に運んで、水分を摂らせなきゃいけない。

 良平は両膝に手をついて立ち上がった。御小兎の肩をかついで、「御小兎、きみ、歩けるかい?」と聞くと、「ふーむ」とわかりにくい返事をする。かろうじて、体に力は入っているけど、まるで頼りない。わきの下に力をこめて腕を差しこみ、よろよろ歩きだす。

 本殿に入ろうと、境内を横切るとちゅう、神社の階段下のほうで、バタンとドアを閉めるような音が鳴った。階段を駆けあがる足音が聞こえてくる。

「やあ、きみたち……大丈夫かい?」

 良平が声のした方向をむくと、浩太郎が肩を揺らして、階段のあがりぐちに立っていた。急いで来たらしく、白い息を口からさかんに吐いている。

「どうも、こんばんは」と良平が頭をさげると、「ああ、こんばんは」と浩太郎さんが、えんじ色の眼鏡のむこうでぎこちなくほほえむ。御小兎も支えられて立ったまま、もぞもぞ挨拶した。

「あ、どうも……その、そのっ」そういって、なにかせきたてられるような声を出す。「どうして、ここがわかったんですか?」

 浩太郎さんは、質問にゆっくり答える。 

「綾が教えてくれたんだ」「……綾ちゃんは? どこですか?」

 御小兎が一度息を詰まらせ、あえぐように聞いた。

「下の車にいるよ。って、いや、もう来ちゃったか」

 といって、浩太郎が目で階段のほうを示した。

 うすい月明かりと階段の街灯のなか、綾が姿をあらわした。黒光りするダウンジャケットの下に、入院患者用の寝巻きがのぞかせ、にぶく光る階段の手すりをつかんで立っている。

 良平と御小兎をみつけると、「よかった、よかったーっ」といって綾は体を傾かせて手をふり、慎重そうな足取りでよって来る。二人は抱きあって、ふるくひび割れた石畳へ崩れる。そのまま、二人ともよごれた石のうえに座りこんで、目を閉じる。

 二人の頬っぺたが、おだやかに緩むのを、良平はすぐ横に立って見ていた。それが、綾が生きていることよりもうれしかった。

 三人の脇で、浩太郎さんが片手を腰にやり、片手で頭をかいて、小太りの体を寒そうに揺らしている。


  9

 翌日の午後、幸子さんに頼まれた買い物を済ませるのに、良平は二時間もかかってしまった。土曜日の昼下がりで、日差しも温かかったし、師走が近いせいもあるのか、魂取駅前のお店のレジ前はどこも行列で、彼は並びながら何度も大きくアクビした。夜更かししたから、まだねむい。

 玄関までもどって来て、コーヒーを切らしていたことに気づき、良平はそのまま家に入るのをためらった。しかし、まあ、明日は日曜日だし、また買いに行けばいいことだ、と思い直して、ドアを開ける。

 すると、居間のコタツで、御小兎が顔と足だけ出してうつぶせに寝ころんでいた。隣りに響も同じ姿勢で転がっている。翔と幸子さんは、昼過ぎから公園に出かけている。コタツから突き出た足の長さを比べると、悲しいことに、響のほうが長かった。二人ともコントローラを持ち、ノリオカートで遊んでいる。……まあ土曜日だし、昨夜のがんばりもあるから、いいけどね。

 しかし、あのままの姿勢でいたら、確実に背中をやけどするだろうと思い、電気コタツのスイッチを見てみると、『入』のほうになっていた。

「おい、二人とも、火傷するから、コタツは切るよ」といって良平が『切』に切り替え、テレビ画面に目をやると、ほどなくして、画面のなかの甲羅を背負った亀が、バナナの皮を踏んで転んでしまった。

「ギ、ギエエーッ」と命を落としたような声で御小兎が鳴いた。

「おじさんのばかーっ」とコタツからすごい速さで飛び出し、拳をつきあげて抗議する。……いまの、ぼくのせいじゃないよね。

「せっかく、流れが、逆転の流れが来てたのに……。スイッチといっしょに、勝負の流れまで斬らないでくださいっ。ほんとに、最低、さいっていですっ」と御小兎が解説者みたいに抗議した。『流れ』とかいう、目に見えないものと戦ってたみたいだ。正直、良平にはわからない世界だ。

「しかし、きみね、『最低です』って、けっこう、ひどい言葉だよ。世界で一番、ぼくが低いってのかい?」

 御小兎はそれには答えずに、居間の窓ガラスのほうに目をそむけた。すりガラスなので景色は見えないが、日当たりがいいので、まぶしいくらい白く光っている。響が御小兎に近寄り、御小兎の肩に手のひらをポンと置いた。

「いい勝負だったわ、御小兎ちゃん」とすがすがしい声でいう。落ちついた仕草と、ほとんど変わらない背丈を見ると、良平にはどっちが子どもだかわからない。

 響は敗者をなぐさめてから、良平のほうに向きなおった。「ところで、兄さんが、ママからおやつを頼まれたことは、わかっているわ」

 やっぱり響も子どもだった。

「そりゃ、秘密でもなんでもないし、毎週のことだからね」

 良平は居間のコタツに買い物袋をどかっとのせる。守矢家では、毎週土曜の買出しは、良平の担当になっている。お米や乾き物やペットボトル飲料など、重くて日持ちするものは、その日にまとめて買ってしまう。昨夜のこともあって、幸子さんは、買出しを代わろうか、といってくれたけど、断った。買い物は嫌いじゃないし、やることがあったほうが気持ちも楽だ。

「要するに、おやつが早く食べたいんだよな」といい、良平は底のほうに埋もれているチョコレートの袋を指と手で探る。

「親のやさしさを素直に受けとらない子どもは、寝小便するのよ」と響も顔を寄せてのぞきながら、迷信みたいなことを、深刻な声でいう。なにかの本で読んだんだろう。でも、視線は買い物袋に釘づけになっていた。

 良平は、一瞬、そんな響が寝小便しておろおろ慌てる姿を見てみたいと思った。しかし、響のことだ、ぬれた布団を良平の物と入れ替えて、嫌疑を押しつける位のことはするだろう。すると、幸子さんは、良平の寝小便を、心配することになる。そして、その日のうちに、大人用オムツでも用意されそうだ。おお、恐ろしい……。

 良平は頭をふって、考えごとをふり払った。

「御小兎も、チョコレート、食べられる? 体はもう、平気なのかい?」

 たずねると、御小兎が目をパチパチさせて、うなずく。チョコレートの袋をコタツの板のうえに出すと、目線がなにかいいたそうに、チョコと良平の顔を行き来する。

「大丈夫よ、御小兎ちゃん、さあ、座っていただきましょう。やさしい兄さんが、気を利かせてコーヒーでも入れてくれるわ」

 と良平よりさきに、響が答え、御小兎をうながして席につく。良平は期待を裏切り、『ファミリーパック』と書かれた大きな袋の口をびりびり破り、一口大のチョコのフィルムを剥がして中身を口に入れた。甘い味と香りが舌のうえで広がる。

 良平に先を越され、響の肩がぶるぶる震えだした。ショック受けすぎだろ。響はコタツのうえに出した両手で握りこぶしを作り、唇も揺らしながら、良平を上目づかいににらむ。

「し、信じられないわ。兄さん、レディーファーストって言葉を知らないの?」

「いや、待て。お前はまだ、レディーじゃないだろ」

「なんですって……。だったら、兄さんにとっての、レディーの年齢定義を聞かせてもらわなければならないわ」

「定義、っていわれてもなあ」と良平はあきれて響をみた。すくなくとも、チョコレートを一番に食べられずに怒っている小学生は、レディーじゃない。明白だろう。

 でも、響にとっては明白じゃないらしく、「つまり、何歳から何歳までがレディーで、それ以外の女性は、兄さんにとって何者なのか、くわしく説明してもらわなければならないの」と食い下がってくる。

 めんどくさかったので、良平は強引に話題を変えることにした。

「羽佐間さんも、元気になってると、いいんだけど。なあ、御小兎?」

 急に呼びかけられて、御小兎が口のなかのチョコレートを一気に飲みこんだ。御小兎の前には、すでに包装紙が三、四枚散らかっていた。軽く咳払いして、少女がうなずく。

「元気でしたよ。……じつは、ここに来る前に、綾ちゃんの家に会いに行ったんです」

 良平はそれを聞いて感心し、二つ目のチョコレートを取ろうとしていた手を引っこめる。御小兎は良平の気持ちなど知らず、次のチョコの包装をほどきながらいう。

「ここに来ること、綾ちゃんも誘ったけど、断られたんです」御小兎がゆっくり良平を見あげ、「『やることがないと、また、死にたくなっちゃうから、今日から新しいバイトを探すんだよ』っていってました」といって、紅い唇の隙間にチョコを放りこむ。

 その話がいいことか悪いことか、判断がつかなかった。なにも答えられず、良平は残りの荷物を両手で持ちあげる。話を一度切り上げ、先に食材を片づけるため、台所に入っていく。

「兄さん、コーヒーがまだ出てませんよ」と、響が姑みたいな言葉を、背中に投げてくる。

 しかし、無い袖は振れない。一人で食材を台所の棚にしまいながら、良平は昨夜からのことを思い返していく。

 あのあと浩太郎さんの車のなかで、フラフラだった御小兎を介抱し、それからそれぞれの家に送ってもらった。羽佐間さんは生きていて、熱心に御小兎にジュースを飲ませ、御小兎もそれに応じた。

 安心感と疲れのせいか、みんな無口で、でもその沈黙が刺々しくは無くって、心が落ちつく種類の空気が、ちいさな車のなかに満ちていた。

 家に帰ると、幸子さんがまだ起きていて、普段と同じ様子で夕飯を温めて出してくれた。「おかえりなさい」「おやすみ」「おはよう」といった、平凡な言葉が良平をなぐさめた。

 朝ごはんのあと、魂取神社を訪ねると、「よくやったよ、このやろう」と大地が引きつった笑みで出迎えた。話を聞き終わると、「おまえら、壮大な、馬鹿だよな」といい、良平が痛みで怒りだすまで、青い髪のかかった背中を何度も叩いた。

 そしていまは、土曜日の午後で、居間のコタツに、御小兎が響と並んで座っている。良平はうれしかった。こんな日が、もう一度だけでも、来ればいいのに、と思う。

 ――その日を手に入れるために、ぼくは明日かあさってか、また誰かを殺しに行く。いや……誰かじゃなくて、ぼくや御小兎や幸子さんみたいな人を、やっぱりぼくは殺しに行く。

 そうするしかない自分の姿を考えると――この世界は最低だ――と良平の気持ちが沈んでゆく。そのとき、昨夜の御小兎の言葉を思い出した。

『おじさんは最低な人殺しですけど……』『でも、認めます。そうやって、おじさんが生きてること』

 くそったれ。

 良平はけっきょくもう一度、コーヒーを買いに外に出た。牛乳も切らしている。仕方ない、カフェオレしか飲めないお子様のために、牛乳も買ってくることにしよう。

 自転車の鍵を外していると、「おじさん」と御小兎が声をかけてきた。いつの間にか、玄関の錆びたドアに背中を持たせかけて立っている。まっ白い顔で青空を見あげ、まぶしそうに目を細める。

 良平は背筋を伸ばし、首をちょっと傾けた。

「どうしたの?」と聞くと、少女はためらいがちに口を開いた。

「死刑執行人の仕事って、辞められないんですか?」

「ぼくは、辞めないよ」良平はゆっくりした口調で、しかし即答した。すると、胃が痛んだので、片手で胸をさすった。「やっぱり、人殺しは、許せないかい?」

「許しませんよ」と御小兎も即答し、それから、ちょっと間をおいて続けた。「許しませんけど、ねえ。あたしが死ぬことも、おじさんが死ぬことも、綾ちゃんが死ぬことも、忘れないでいたら、ちょっとだけ、許しますよ」

「死ぬのを、忘れないこと?」と良平は聞きかえす。

「うん。一日も、一時も忘れないでいられたら。……それでもおじさんが人を殺すなら、許すしかないから」

「それって」ずっとずっと、気がつかずにいたことだ。良平はいつかの幸子さんとの会話を思い出し、肯定した。「いや、わかった。やってみるよ」

「『やってみる』じゃないですよね。やってください。ぜったいに、そしたら、たぶん、あたしはまだいっしょにいてあげられます」

「きみって、本当に自分勝手で、嫌なやつだよね」

「はい。知ってます」御小兎がうなずく、「……嫌なやつだったら駄目ですか?」

「いいよ。僕だって、別に良いやつじゃない」

「知ってます。むしろ、ものすごい嫌なやつですよね」

 御小兎がいうのが、どこか楽しそうに聞こえて、良平は静かに笑った。

「よろこばないでください。変態ですか?」「よろこんでないし、変態でもないよ。ただ、思い出しただけ」「なにをです?」

 良平はわざとらしく肩をすくめて、「……バカっていうやつが、一番のバカなんだよ」

 御小兎のほほが赤みを帯びてふくらむのを、良平は見た。

「それって」「うん。君のこと」「ムカつきますね」「いいじゃん。僕も君にはムカついてるよ」

「ねえ」御小兎が急にやさしい声を出した。「本当に、忘れないでくださいね」

「忘れないよ」といって良平は自転車を引き、一歩うしろに下がった。御小兎がドアのむこうに消える。

 良平は庭から歩道に出て、サドルにまたがり、にごった水色の空をあおいだ。強い風が正面から吹いてきて、肩をちぢこめ、目をつむると、御小兎との会話がまたよみがえってくる。

 べつに、心地いい会話じゃなかった。むしろ、胸の奥にはまだ苦味が残ってるのに、そこから温かいものがあふれてくるみたいに、心強かった。ペダルを踏む足に力をこめ、二人が彼のぶんのチョコを残してくれること願いながら、良平はでこぼこしたアスファルトの舗道を進んでいく。                       (終)


読んでくれてありがとうございます。こんな小説で、ごめんなさい。

でも、この小説しか書けなかったし、書きたかったから、書きました。

少しでも、あなたの暇つぶしとか、慰めになったらいいな、と願っています。

それでは。


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