果実の楽園編 一章
夕焼け、未だ星々を覆い隠す太陽星の輝きの天下、人通りが寂れた小さな橋の上の少女は健気に振る舞う。
ほぼ毎日通るそこには大きな異変があった。橋の中央、俺の背に比べかなり小さく、細かな仕草は大人の雰囲気を感じさせる少女がガラクタを並べて今にも何かをしようとしているのだ。
観客は俺一人。それで十分なのか、乾き切った砂色の瞳が夕日に煌めくと、コンクリートの地面に置かれた灰色の大きなキャリーケースを開いた。
中身は五円玉が多いか、千円にも満たない小銭ばかりであり、その用途に予想が着き始めた俺に小さな不安が積み上がっていく。
「ヤカン、フンシュツ、ファイアーワークス」
カタコトの単語で紡いだ言葉と共に地面に置いた汚いデコボコのやかんに指をさす。
指先から白い光が生み出されると、次に血のような濁った赤い粒子が包み込む。
手の形は指鉄砲となり、バン、と合図を送った瞬間、その光はやかんを貫いた。
するとどうなった。やかんには穴は空かず、しかし光は貫いた。デコボコであった表面が大きな音の後に一気に綺麗な形へと戻り、注ぎ口からウォーターカッターのような激しい速度で水が頭上の遥か彼方まで吹き上がったではないか。
「カサ、フライト」
ゴミ山で拾ったであろう八本のボロボロのビニール傘に再び指鉄砲を向けると、次は指先に黒の球を出現させる。先程のように血のような粒子が纏い、傘に放たれると今度は貫かずに傘全体に纏わりつき、色を無くす。
傘は円盤に見えるほどの超加速で回転し、頭上を超高速で飛び回る。もしもそれにぶつかればミンチになってしまいそうな予感がした。
「キドウ」
次はワタの飛び出したボロボロの猿の人形に照準を定める。極小の緑の光に粒子を纏わりつかせ発射される。
するとだ、猿人形は鈍臭く起き上がると千切れかけの両腕を上げてパタパタと動き始めた。
『ヤア、ドウダッタカナ。フシギ、マジックショー。タノシカッタ、オモシロカッタデスカ』
喋った!?
……いや、器用ながら少女の腹話術のようだ。音の発生源だけは少女から聞こえてくる。
明らかな外国人。外国人と言ってもアメリカやロシアや中国など、それらとも似ない顔と白い肌。血のような真っ赤なボブカットの髪も北欧系のものと思ったが、違うような気もする。
当てはまるとすれば宇宙人……だろうか。
「これは魔法なのか? こういうの、見たことがないからよく分からないんだけど、手品にしてはタネが思いつかないというかさ」
少女は眉間に皺を寄せ、周りのものと比べて綺麗な肩掛けの黒いバッグから一冊の本を取り出した。
表紙には見たことのない外国の文字が書かれており、一箇所に日本の単語集なる文字が含まれている。
「ワタシ、トクベツ。イリュージョンショー。ヌスム、ヤメル、ヤメタイ。マネー、ホシイ」
調べてから話しているにしてはあまりに早くの返答。学校に通っているようには見えず、学校に通うべき年齢に見えるが、まさか浮浪者ではなかろうか。
がめつさは感じられない。恐らくは初めてのパフォーマンスショーで稼げるかどうか試したのだろう。
俺はポケットから財布を取り出し、三万円をキャリーケースの中に置いた。
「さようなら」
長居しては邪魔になるかもしれない。何よりも、必死さや希望を持った彼女を見ていられなかった。
諦める人生に、彼女の存在は眩しい。
家は近い。彼女がここを中心的に活動すれば、買い出しやちょっとした外出でニ、三回は出会うこともあるだろう。
「トマル!」
左の裾を掴まれる。振り返ると、少女が困惑した表情で渡していた三万円をこちらに向けていた。
「タダイ、アマル、シンパイ! ヘンキャク!」
意味は通じているが……受け取る気はない。
黙っていると、彼女は札を掴んだ手を俺の胸に当てた。
「受け取ってくれ。次のイリュージョンショーを楽しみにしてる」
「う……エ……?」
彼女は渋々と俺の裾から手を離し、言葉が通じていないと思っているのだろう、再び本を取り出してページをパラパラとめくった。
その隙に俺は歩き出す。
「ストップ! ステイ、ステイ!」
彼女は俺の後ろに小走りで付いてきながら必死に本を読んでいる。
「うう、うう……」
今度は先程よりも五倍ほどの時間を掛けて言葉を探した後、深呼吸をする。
「う……あの、あなたは学生ではありませんか? 学生がこれ程の金銭を出すことは、きっと経済面で不都合なはずです。私は受け取るならば、二百円程で十分です。なので、この金銭は受け取ることができません」
「うお、すげぇなお前」
ほとんど日本人の発音と変わらない日本語を話した。
ここまで俺なんかと付き合わせることにも罪悪感が生まれてしまう。
長話は疲れてしまうだろうと避けていたが、彼女を放っておくにも最早出来そうにない。
己の意識のコントロールが出来ない駄目な奴なのだ。
「あのガラクタ、拾い物だろ。金なんてろくに持ってないんだろ? 野宿させるにも気が引ける、この金でどこか泊まってくれればいい」
「ヒテイ、フカノウ。ミセイネン、シュクハク、フカノウ」
「……え、そうなの?」
俺は立ち止まり、ケータイでホテルのルールというものを探す。
確かに一八歳未満の利用は色々と面倒そうだ。
一度決めつけた憶測を変えたところで、俺の予想が外れてくれる訳もない。予想通りであれば、これから俺が取る行動も一つに絞られる。
「年齢詐称すれば……いや、どう見ても幼いしなぁ」
彼女は見た目だけは小学生だ。しかし、俺との会話の仕方、倫理観、立ち振る舞い、痩せた体を考慮すれば、高校生である俺と同年齢のようにも見えなくもない。
何故、ここでこんなことをしようとしたのか、具体的なことは何も知らない。親にネグレクトを受け、自分で金を稼ごうとしているという理由も考えてはみたものの、それにしてはちゃんとした教育を受けていると思えるほどには礼儀正しい。
彼女は……大人のように見えるのだ。
「家は?」
「……ノー」
「夜はどこで寝るんだよ」
「……コーエン?」
「雨とか台風とかどうするんだよ」
「……マンホール?」
駄目だこりゃ。
こんなことを言われて放っておけるようであれば紳士ではない。俺は先程彼女が居た場所に戻り、そこら中に散ったガラクタを集めた。
「ホワイ?」
「俺の家に来いよ。まずはお片付けだ」
「ノー! ユー、メイワク!」
「いいから来いって」
仏頂面のままでは安心出来ないだろう。俺は強張った顔の筋肉を緩ませてみせた。
納得してくれただろうか。彼女は躊躇いがちに自分の商売道具を拾い集める。
俺は橋の下に移動し、柱の壁にそれらを置いた。
「行こうぜ」
出来る限りジェスチャーで疎通を図りながら、俺達は俺の家へと歩き出す。
会話は……あった。言葉が分からないであろう彼女から積極的に話している。
「ワタシ、ペラノメア。ナマエペラノメア」
「ペラノメア? 全く聞いたことがない名前だな」
「ナマエ、アナタ?」
「俺は占七【せんなの】。センナノだよ」
「センナノ……? イミ、アリマスカ?」
「分からない。名付け親も知らないからな」
「ココ、ニーポン、ベリーヘイワ。キレイ、ステキ」
「見た目だけだ。綺麗な川だからといって綺麗な魚だけ住む訳じゃない。濁った川だからといって、醜い魚だけが生まれる訳じゃない。良い環境が良い人を作るとは限らないんだ」
「エ……」
彼女……ペラノメアは本で会話の意味を探りながら話を続ける。
「ニーポン、ヒト、ヤサシサ、タダイ」
「外面はな」
「オチコム、センナノ、ストレス、タダイ?」
……いつの間にか暗いことばかりを言っていたようだ。
人には誰でも負荷が加わっているものだ。明るい人も暗い人もそれは同等、いや、場合によっては明るく振る舞っている方が辛い目に遭っている場合もある。
だからこそ明るく元気な自分でいる必要があるのだ。今という刹那の時間をより良いものにするために。
「……決めごと、ルールっていうのは悪いことが起きないと作られないものだ。住所を持たない人への風当たりが強くなり、ルールがその人達を排除しようとするのも多数派主義のこの国ではなるべくしてなったのだろう」
ペラノメアは相槌をしなかった。俺の話に静かに耳を傾け、内容を本を介して理解しようとする。
「だが……多数派主義だからといって、その枠組みに入っている人が本物の多数派主義とは限らない。弾かれた少数の人々を利用し、あるいは迫害し、高い所で見下して自己満足に浸り、人としての定義から外れた獣は山程いる。だから俺はそのルールに逆らわずとも利用する気はないんだ」
「……ハナシ、ニーポン?」
「日本だけじゃない。だが日本という優れた国でもこうなってしまうんだ。俺達人間はルールばかりに従うのではなく、人の心も持つべきなんだ。ルールの中に生きる意味なんてないんだから」
ぱたんっ。
本を閉じてバッグに戻した後、彼女は俺の前に移動して立ち止まった。
「ネガティブ、ダケ、ネガティブ、ママ。ポジティブ、フクゴウ、カイケツ、ハッケン!」
重い空気にさせてしまったのにも関わらず、ペラノメアは笑顔を作ってくれた。
「ゼンイン、スベテ、ムチ! フレンド、スタート、ハッピー、ハッケン! スタート、イゼン、ワカラナイ。ゼンイン、フレンド、セイコウ、ヘイワ!」
「どうやってみんなが友達になるんだってんだ」
手が再びバッグへ届きかける。しかしその手を人差し指だけ立て、自分自身に向けた。
「自分を見失わない者こそ人。人は人を大事にすればいい。嵐や大波にまで人並みの感情を向ける必要はない」
「人……」
「……カコ、ワタシ、オシエテモラッタ。ミーザサマ、イッタ。ワタシ、ディスココロザシ」
人とは種族ではなく、心である。そう言っている彼女に返す言葉は無かった。
憤りを見せる相手はこんな見知らぬ少女ではない。今更自分を恥じた後、彼女を通り過ぎてゆっくりと歩いた。
「俺、一人暮らしなんだ。ボロいアパートだが、ペラノメアさえよければずっと居て欲しい」
ペラノメアは焦ることなく、本を取り出してゆっくりとページをめくった。
鉄錆で景観が良いとは言えない汚れたアパートの玄関を開き、ペラノメアを先に通す。
彼女は土間を数秒止まって見つめた後、靴を脱いで奥へ進んだ。
「……スバラシイ」
耳を澄まし、宙に手を翳し、大きく息を吸う。その行為で何を確かめたのだろうか、それで彼女の表情は柔らかく、より細かく変化した。
他所の家というのは色々と制限されているものだ。常識という名の枷に身動きが取れないであろう彼女の為に、俺はやれる範囲をこなす。
「お前、着替えはあるのか?」
「テイボウ」
「なんで持ってこなかったんだよ。まぁいいや、シャワーなら好きに使ってくれよな」
冷蔵庫を開き中を覗く。辛うじて食材と呼べそうなものはあるにはあるが、いやはや、料理とは難しい。
卵はある。卵だけはいつも揃えてある。卵と米だけで生活しようと一ヶ月は耐えてきたが、そろそろカップ麺生活に切り替わりそうなほどには食い飽きた。
深夜のマーケットで半額になっている食材を粗方揃えてはいても、いつも塩胡椒を振りかけるだけのものにしかならないが、それでいいのだろうか。
フライパンに油を入れ、ミックス野菜とかいう細切れのものを入れ、安物の豚肉を入れ、塩胡椒を振り掛けた。
肉の色に赤味が無くなると安物の皿に移す。
その時間五分。とりあえずペラノメアのいるテーブルの上へ箸と共に置いてみた。
「……?」
「どうぞ」
「……イタダキマス」
彼女の眉が困ったように下がるところを俺は見逃さなかった。
彼女は右手を握って指の凝りをほぐすと、箸を綺麗に扱って野菜炒めのようななにかを口に運んだ。
長い咀嚼。意を決したかのように大きく飲み込む。
「……」
「どうか」
「チュウノゲ」
……どういう意味だ?
彼女は立ち上がると、先程までの遠慮な態度はどこへやら、袖を捲って我が家の冷蔵庫を物色した後に期限切れ間近なししゃもやマヨネーズ、その他諸々を取り出していく。
そこから先の行程は宇宙だ。
安物の鍋に水を入れると、コンロの火で沸騰させようとする。
その間にフライパンを洗った後にもう片方のコンロの火で水を蒸発させた後、マヨネーズを油のかわりに入れ、いか、かにかま、魚肉ソーセージを包丁で刻んでは投入する。
水を入れた鍋がまだ沸騰していないのを確認し、恐らく暇が出来たであろうペラノメアは辺りを見回し、炊飯器を見つけた。
中のカピカピが目立つ白米を呆気に取られたように数秒見つめた後、棚の安物の入れ物にその白米を詰め、フライパンに投入する。
鍋が沸騰した。フライパンのものを満遍なく混ぜた後、腐りかけのトマトや茄子などの腐りかけの野菜類を鍋の中に投入する。
フライパンのなんだかよく分からないが美味しそうな匂いのする料理はもう出来上がったのだろうか、棚から平皿を取り出して中のものを移すと、足早にテーブルの上へ置いた。
鍋に入った野菜を安物の玉杓子で掬い、熱々であるにも関わらずまな板の上に置いて細切れにしていく。それらは安物のボウルに移した後、鍋の湯を捨ててスポンジと洗剤で洗った後、再び水を入れて火に掛けた。
次に余っている元々使う予定だったししゃものパッケージを冷蔵庫に戻そうとするが、やはり気付いてしまったか、腐りかけなのである。
彼女は悩んだ。まさか、腐りかけの魚を美味しく頂ける方法などあるのだろうか。俺には想像も付かないが、今すぐ捨てない様子を見るに手はあるのだろう。
とりあえずフライパンを洗い、火に掛け、水分を抜き、サラダ油を引いてししゃもを入れた。
それは一旦放置し、彼女はボウルに移した細切れの野菜を素手で潰した。形が無くなるまで力強く、そして速くこねると、沸騰し始めた鍋に入れた。その味付けに俺が愛してやまない塩胡椒をほんの少し加えると、あら不思議、とても腐りかけとは思えない野菜スープの出来上がりだ。
ししゃもの焼き面をひっくり返した後、安物の椀に野菜スープを入れてテーブルに運んだ。
その後は……無いのだろうか。彼女は棚からスプーンを俺に渡し、目と手の動きで料理を勧めた。
俺の作った食べられる何かとは大きく違う。ペラノメアの作った食べたい何かにスプーンを刺し、口に大きく入れた。
「……俺の味がしない」
食欲、愛欲、知識欲、俺の中のあらゆる穴が頬張る毎に埋まっていく。
俺が主軸としていた味に一つも繋がらない他人の味は、孤独の芽をことごとく刈り取っている。
「これは本当にお前が作ったのか……?」
ペラノメアは頷く。言葉は無い。
夢中になって食べている間に彼女は火を止め、安物のタッパーに酢を満たすと焼き上がったししゃもをそこへ入れて冷蔵庫にしまった。
俺の向かいに座って見ていた。俺の作った何かを少しずつ食べている。
お互いがお互いの料理を食べる、それが彼女との関係を一気に深いものにしていくことは、緊張がほぐれていく感覚に近い。
俺は大口で綺麗に平らげて頭を下げる。
「ごちそうさま」
彼女は微笑み一つ返し、食べ終わった食器達を台所へ運んだ。
何かやれることはないだろうか。
俺の住んでいる家には湯船は作れない。一言シャワーを勧めるくらいしか出来ないのだろうか。
押入れを開き、使わなくなった物を詰めた段ボール箱を漁る。小学生、中学生の時に使っていた教科書や卒業アルバム、置き忘れていたのか二日以上放置されていた拾い物の携帯ゲーム機、リコーダー、修学旅行で買った安物のオルゴール。
リコーダーは……彼女には有効活用が出来るはずだ。
いや、そもそもこの教科書も使えるか?
押入れから箱を取り出すと、丁度良く洗い物が終わったペラノメアがこちらに戻った。
「役に立つかは分からないが、これをお前にやるよ」
彼女は箱の中身をじっと見つめ、膝をついて教科書を取り出して開いた。
「どうだ、足りるか?」
頷く。
彼女は小学一年生の国語の教科書をテーブルに置くと、自身の翻訳本とノート三つを開き、胸ポケットからペンを取り出して書き出した。
一ページの左半分を日本語、右半分をなにかの言語。その姿勢に本気で日本国で暮らそうとする意思を感じる。
俺は押入れに入れてあるゴミ捨て場で拾ったテーブルランプを用意し、風呂場で着替えを済まして静かに家を出て行った。
深夜午前過ぎ、半額になった食材やら惣菜やらをパンパンに詰めた袋を持って家に帰宅した。
部屋は暗かったが、ペラノメアはテーブルランプの光の下で語学を勉強し続けている。
流石にパラパラとページを捲るだけで何もかもを覚えてしまうような神懸かりな力はない。しかし、勉強するだけで覚えてしまう知識の吸収力は並の人間ではなかった。
「おかえりなさい」
言葉は日本人のようにやわらかくなっていた。ふとした時から一言も発さなかった彼女は、これを機会になんでも答えるような雰囲気を纏っている。
「消費期限は短いが、食材を買ってきた」
「あら……これまた料理がしにくいものばかり」
「だから買わない、だから安い。まともなものなんて、分不相応が求めるべきじゃねぇよ」
「なんでもいいですが、明日もまた、美味しい料理を作ってあげますね」
にっこりと笑みをこちらに向け、すぐにノートに視線を戻す。
生への力強さを感じる。彼女の邪魔をしたくなかった俺は、彼女の布団を準備し、何もないところで横になって寝た。
筆の進む音が聞こえ続ける。
明日は休日だ。学校に行く必要はない。一日中彼女に付き合う準備は済ませて来た。
彼女の後ろ姿をふと見つめた。
華奢な体だ。大人びた彼女は小学生には見えないが、だとすれば栄養不足で成長が止まってしまっているのではないかと思えて仕方ない。
俺と彼女が……フェアな関係ではないことにもどかしさを感じた。
冷んやりとした空気に目が覚める。
ベランダの戸が開かれ、風が入って来ていた。
テーブルの上には二冊目のノートが開かれている。
湯の煮える音がする。キッチンの前に立つ体に合わない大きなワイシャツを着たペラノメアが、安物のコップ二つにその湯を入れてこちらに来た。
「おはようございます、占七さん」
「……おはよ」
彼女は俺の隣に正座すると、コップの中のものを音無く飲む。
ティーバッグが入っているのを見るに、匂いからも紅茶であると分かる。
「寝たのか?」
「今日は眠らないことにしてました」
「何故」
「占七さんと一日でも早く、沢山のお話をさせてもらいたかったからです」
彼女は開いたノートを閉じ、広げた本を一つにまとめた。
ガラクタ箱からリコーダーを取ると、優しげな目で感触を確かめる。
「これは楽器ですか?」
「ああ。お前には必要なものだろ?」
「どうでしょう」
それをバッグにしまった。
「体を洗って来てはいかがですか。その間に 朝食をご用意します」
「出掛けるよな」
「ええ」
「服はどうすんだよ。流石にワイシャツ一枚って訳にはいかないだろ?」
「占七さんの服を貸して頂けるのでしょうか?」
「女物の下着は無いが、好きなだけ使えよ」
俺は風呂場に向かった。風呂場前の洗濯物かごに丁寧に畳まれた彼女の服が置いてある。
……今のペラノメアは下着を履いているのか?
急に邪な興味がわくが、必死に堪えて体を洗うことにする。
シャワーの音に混じってまな板を包丁で叩く音が聞こえる。もはやドラマやアニメくらいでしか聞いたことのない新鮮な音に、まるで異世界に来たかのような、今までのしがらみを解いた新しさに気分が高まる。
こんなことで嬉しくなってしまう俺は、きっと今まで不幸であったのだろう。こんなことで……こんなもので、喜んでしまう俺なんて。
風呂場から戻ると、テーブルの上には白米、ししゃもの酢漬け、味噌汁が用意されていた。
「お前、味噌汁なんて作れたのか?」
「家庭科、という教科書に書かれていましたので」
「お前はすげぇよ! 何年振りに食べるんだろうなこれ」
俺はすぐに食べ始めた。
ペラノメアは俺の向かいに座り、両手で頬杖をついた。
「占七さんは高校一年生なんですってねぇ」
「ああ、十五だ。お前は?」
「私は……記憶があまり無いので……。恐らくは私も十五歳ですね」
「意外だな、見た目はもっと幼い」
「食べる子は育つ、寝る子は育つ。そんなことわざとは真逆のことをしてきたバチが当たったのでしょう」
「そうせざるを得なかった。いや、そうしたかったからそうなった。だろ?」
「前向きな考え方なんですね」
「他者にはどうしてか、励まそうとしてしまうものだろうよ」
「自分を生かすだけならば他者など必要がないのに、どうしてこんなにも回りくどく好かれるだろうと思うことをするのでしょうか」
「必要なんだ、自分が思っているよりも自分を見ていてくれる人がさ。俺も、お前も」
「私は……ルーマニアという国に居ました。私の保護者が嫌になって、がむしゃらに遠くへ家出をし、その国に辿り着きました」
「ルーマニアにその保護者が?」
「いえ、ここに来る前の話です。だから私はルーマニア人ではありません」
「じゃあどこの人間なんだ?」
「……スペアと呼ばれる場所ですよ」
彼女は前のめりの姿勢を引き、膝に手を置いた。
「何故私はこうなったのか、そういう話です。川の流れに沿うように、時に身を任せればこうはなりませんでした。生まれた裕福な場所が気に入らなくて逃げ出し、生活水準が底辺な場所で沢山のことをし、今度は自分に欠けたものを探す為にここへ踏み出した。自分の意思で歩んだ結果がこの体です。何もかもが子供のような私は、きっと女としても未熟なのでしょうね」
「……子供ってのはさ、本質で言えば老人も大人も子供なんだ。夢や希望を諦めて仕事という義務をこなすのが大人というのなら、大人は大人のフリをした子供なんだよ。子供であることにネガティブになる必要はない。義務だけをこなすことが全てだとすれば、それは人ではなく機械だ。機械に出来ないことをお前はやったんだ。俺はお前を立派だと思うよ」
沈みかけた目がハッと上がる。
俺という個人の持論が、ペラノメアの心を救う何かになってくれているだろうか。
「……今日はお時間ありますか」
「常日頃から持て余しているくらいだぜ」
「私は……いつまでこの時間を続けることが出来るのか分かりません。それでも私という一人の女の子がどこまでわがままを貫くことが出来るのか、占七さんに見ていて欲しい」
──血に濡れたように赤い髪、乾き切った砂色の瞳。
闇の世界の令嬢、色気を恐怖に転じさせるほどの妖艶な笑み……。
そういう素質はあるのだろう。むしろ、そうあるべくして作られたかのような完璧な美しさがある。
だがペラノメアはそんな塗り固められた生き方が嫌で、体の底、心の底、根っこにあるはずの自己を手に入れる為に全力で走っている。
保身を捨てて生身のまま地獄を歩むことなど誰でも出来るわけではない。そんな人間は万が一にもいない。いないはずの人間が俺の目の前に居る。
好意を抱くには呆気ないものだ。
「いいぜ、出来ることはなんでも試そう! 俺がお前のわがままに全部付き合ってやる!」
ツツジの花が咲く。
体の感覚が戻っていくような、生命の息吹と呼べる何かが俺を突き動かしている。
この行動で何がメリットになるのか、そんな打算は少しもない。まさかこれこそが無償の愛というものか?
ペラノメアは立ち上がった。俺がそこらに脱ぎ捨てた制服を手に持ち浴場へ向かう。
「昨日の服を今日も着ていくのは非常識ですものね。その点、これを着させて頂いても構いませんね?」
「ああ」
つい適当に返事をしてしまったが、彼女が俺の制服を……? サイズは合わないだろうし、何よりもあんな可憐な美少女が男装をすると考えると言いようのない何かが込み上げてくる。
これは俗に言う萌えではなかろうか。
俺は食べ終わり、食器を片付けて玄関の所で彼女を待つ。服も鍵も財布も昨日のままだ、用意するものなど特にない。
一分が経った頃、浴場から彼女が帰ってきた。
「ぐほぉ!?」
血の巡りが一気に加速する。
だぼだぼの制服に西洋人形のように整った顔、男の髪質とは違うさらりとした髪と骨格自体がもはや男を全力で否定しているはずなのに、その上で男の服装をするこの状態……。
俺の中の男という定義を揺るがす異常事態が、俺の感情を破壊している!
「あの、占七さん」
「う、うぇ!?」
「私、何か変でしたか?」
「その問いには真っ当な返事が出来ない……!」
ペラノメアはくりんと小首を傾げ、くすくすと笑う。
「やはり、私では背伸びをしても変ですよね」
「いや、いやいや、そんなことはない」
「無理にフォローしなくてもいいんです。けれど、笑われるだけでも良いことですものね」
「……何か勘違いしてないか?」
認識の違いを感じ取り、すかさず正気に戻った。
「これは高校生の制服ですよね。高校生には見えなかったのでしょう?」
「それは男性用の制服だよ」
「……あ、知ってて黙ってましたね!?」
「別に違和感無いっていうか、このまま行けるかなって思ってたんだって!」
「元々変人だとでも言うんですか!」
「日本文化は幅広いんだよ!」
彼女は深いため息を吐いた後、何も言わずにブーツを履いて外に出た。
言い表せない思いに浮くような感覚にもどかしくなり、痒くもない頭を掻きながら俺も続いた。
外は晴れている。
俺とペラノメアは階段を降りた。そよ風が彼女の髪をなびかせた後、しょぼくれた顔に笑みが戻る。
「私、この町のことをよく知らないわ。だから沢山見て回りたい。良いですよね?」
「俺もよく知らない」
「どうして?」
「俺もここには来たばかりなんだ。親元を離れて一人で過ごしたくてな。家事というか、生活というものがどんなものなのか、よく知りたかったんだ」
彼女は後ろ手を組み、顔を空へ上げた。
「何故知りたいのか、聞いてもいいですか」
「……理由を考える前にやってしまったからな。やらなきゃいけないと思っていたからやってみた。その結果がどうなるかさえ分からずに」
「ふふ……」
「笑われるほどにおかしいか?」
「嬉しいんです」
「なにが」
「私は占七さんのことが好きです。好ましい。その理由はあなたが私のことを理解しようとしてくれているから。その理解が、あなたの一番の長所であり、あなたの行動原理だと分かりました」
「一人暮らしがか?」
「親が嫌だ、土地が嫌だ、環境が嫌だ、そんな理由ではないのでしょう?」
「……ああ」
「占七さんは一人暮らしをして、家族という固められた環境で価値観を定めるのではなく、より多くの価値観を得て、より多くの人の気持ちを分かってあげたかったのです」
「そうなのか……?」
「ええ。私があなたを好きだと思うことと、あなたがそうしたかったという気持ちを照らし合わせれば、私の視点ではその答えが出ます」
「俺の視点では違う答えが出るということでもあるよな」
「ええその通り」
「じゃあお前がここに来た理由の答えを俺の視点で出しても間違いではないと?」
「人の意識は一つではありませんから、人については答えが沢山あるものです」
「俺も推理してやる。お前がここに来た理由は……そうだな、俺に会いに来たんだ」
「……何故でしょう?」
「俺の口から言うと恥ずかしいんだが、お前の考え方や行動は周りの型にはまって出来たものじゃない。乱暴に育てられたら乱暴に、礼儀正しく育てられたら礼儀正しく、普通は子は先輩に似るものだ。だがお前は初めから持っている自分の意思を尊重したかった」
「何故自分を貫きたかったのでしょう」
「美しさがあるから醜さが、醜さがあるから美しさが。不公平があるから公平が。きっとお前は自分が美しいことに気付いていたんだ。ありのままの自分を丸ごと全部受け入れてくれる人が……俺が、和々切占七が存在することを信じていたからここに来た」
詰まることなく言葉が紡ぐのであれば本心なのだろう。俺は恥を感じてはいない。
俺はペラノメアではない。俺の思考回路がない彼女は、俺の言葉を読み解くことにゆっくりと時間を掛けた。
日は影に隠れ、冷たい風が吹いている。
「占七さんを最初から知っていたとすれば、私は心のどこかであなたを不憫に思って、お節介を焼きに来たのかもしれません」
「不憫だって?」
「今の私はあなたに幸せになってほしいと思っています。それは、あなたが幸せには見えないということではないでしょうか」
「お前の視点ではそうなるのか」
「あなたに欠けているものを……私は……補う為に生き続けてきたのです」
彼女は小走りで先を行く。古びた看板の年月の重みを感じさせるスーパーマーケットに指をさした。
「見ていきませんか?」
「食材なら買ってるぞ」
「あなたの好みを知りたいの」
俺の返事を待たずに先を行く彼女について行く。
視界に入る野菜や日用品は数多い。色も多彩で目移りさせようとばかりに自己主張している。
移り変わる景色の中、その中心にペラノメアが常にいる。
「いっぱい色々なものがありますね。しかも凄く綺麗に……」
「ああ」
弾む髪、長いまつ毛、潤った唇。生涯で初めて見た麗しい少女。絵は絵で人形は人形、いくら綺麗なものを作ったとしても魅力など感じない。だが、命が動かす表現装置としての彼女の体に引き寄せられる。
喜びが伝わって来るのだ。腹が減れば食べ物を見、暑ければ服を、寒ければ火を。であれば、俺が彼女を見る理由は何なのだろうか。
恋などという短絡的な答えは求めていない。
俺は命だと感じている。命ある者として、命ある彼女に見惚れさせられているのだ。
命は尊い。機械が持たない自由を最大限に扱う彼女が羨ましく、その価値を教えて欲しいのかもしれない。
では……彼女は何故俺を見る?
「牛乳、チーズ、ヨーグルト、乳製品がまとめて置かれていますね」
「ああ」
「占七さんはこういうものは欲しくないのでしょうか」
「高いからな」
「それだけですか?」
「……味にはあまり興味がなかったんだ」
ペラノメアは粉チーズの筒を一つ持ち先を進んだ。
彼女は何の前触れもなくこちらを向く。
「どうしましたか? 私ばかり見て」
「嫌ならお前も俺を見ればいい」
「良いですよ」
立ち止まり、視線が交わる。
……自然では生まれない不変の女神。俺は夢の中に閉じ込められているのだろうか。
彼女は口角を上げた。何故笑うのか、俺と一緒に居られることに喜んでくれていると断ずるにはあまりにも恐れ知らずだ。
初めて出会ってたった一日で、ここまで気を許し合える関係なんて……まるで運命みたいではないか。
「……初めてか? こういう場所は」
「ええ。初めてみたいなものです」
「気に入ったか?」
「……私にとって、生きること自体に難はありません。生きることが容易い人間には、この景色は当たり前のようにあるもので、見慣れ過ぎて思い入れがある者などいないでしょう」
彼女の視線が俺から外れ、そこらの商品へ向けられる。
「それでも全ては生きる意思によって出来ている。害虫駆除の殺虫剤でさえ、害虫の病気を防いで生きるために作られているのです。ここはそんな命の尊さに溢れています」
「それが……好きなのか?」
「楽しいではないですか。生きていることが」
……それ以上は何も言う事ができなかった。
何を言おうとも、それは俺が彼女に何かを期待し続けて自分というものが無くなってしまう。俺のものさしが消えてしまう。
彼女だけを見続ける訳にはいかない。俺が本当に彼女を好きだと言いたいのならば、俺も彼女に見てもらえるような存在にならなければならない。
生きていなければならない理由を求めるよりも、ただ惰眠を貪るだけでも良いから何かに感動するべきだ。
俺は彼女と同じものを見たくなったのだ。




