十字路
『右? 左? それとも真っすぐ?』
突然目の前に現れた奇妙な看板に、オレは目を丸くして立ち止まった。
ただフラフラと、道を歩いていただけだった。家に帰りづらくて、けれど行くあても金もなくて、ギターケースを背に、こいつを金に変えてしまおうか、いやしかし、とグダグダ考えながら。
目の前には、道の中央に立てられた看板と、それを起点にして十字に分かれた道が広がっている。こんな場所、見たことない。
「やば。さすがに高二にもなって迷子とかカッコ悪すぎだろ。戻ろ」
誰に言うでもなく大きな独り言をこぼすと、踵を返して元の道に向き合う。だがそこには、別の看板が立っていて道を塞いでいた。
『一度歩いた道は戻せません』
看板に書かれた文字に、オレは首を傾げる。
……どういうことだ? こんな看板、来た時にはなかった。それに、『戻れない』ではなく『戻せない』とはどういう意味だ?
わけがわからず、頭をひねる。
ふと、数年前に見たブログの内容を思い出した。
「……まさかこれ、『絶対に止まってはいけない道』か?」
『絶×都市伝説』という個人ブログにあった、明らかに作者の創作としか思えない記事の内容と、目の前の光景が重なる。
数年前の記憶なのでうろ覚えだが、確か、人生に迷った人の前に現れる不思議な道で、ただひたすら同じ十字路と、道を選ばせる文言が書かれた看板が続くという。引き返そうと振り向くと、先ほどまではなかったはずの看板と『見えない壁』が行く手を塞ぐらしい。
ただの創作だと思っていたが、まさか……。
「……い、いやいや。漫画じゃあるまいし。ドッキリかなにかだろ」
看板を避けるようにして道を戻ろうとする。その時、ガツンという音と共にオレの目の前は一瞬真っ白になった。
「いってぇ!」
額に痛みを感じて、どうやらなにかに強くぶつかったらしいと気づく。
……いや。いやいや。まさか。
恐る恐る手を伸ばしてみると、指先になにかが触れた。
見えないが、そこには確かになにかがある。板のように平らで、壁のように頑丈な、なにか。
「……見えない、壁?」
確かめるように口にしてから、大きく息を吐いた。
これは、夢か? いや、もし夢なら今の額の痛みでとっくに目が覚めているはずだ。
夢、ではない。かといって現実とも思えないが。
……何故オレがこんなところに? そもそも、本当にこんな奇妙な場所が存在するなんて……。
「……考えたってしょうがないか。『止まってはいけない道』なんだから、とにかく動かないと」
疑問は尽きなかったが、オレは諦めて分かれ道に向き合った。
おぼろげな記憶が正しければ、この分かれ道には正解も不正解もない。ただ、『道の途中でなにを見ても、立ち止まったり注視したりしてはいけない』というルールがある。
何故立ち止まってはいけないのかは忘れてしまったが、とにかく、ここから出る唯一の方法は、『歩き続ける』ことだ。
オレはまず、正面の道を選び、足を動かした。
田舎の住宅地のような細い道で、ブロック塀がどこまでも伸びている。塀の向こうには誰かの家が見えるが、ブロック塀は途切れなく伸びていて、家への入り口は見当たらない。塀に両脇を囲まれているせいか、少し息苦しいような気がした。
しばらく歩いていると、向こう側になにかが見えてくる。
目を凝らして見てみると、それは人影だった。ブロック塀にもたれかかるようにして、座り込んでいる。
歩き続けていると、その正体がはっきりした。
それは、ひどくうす汚れたホームレスの男だった。髭は老人のように伸び切っていて、髪もボサボサ。おそらくスーツを着ているのだろうが、擦り切れていてボロボロだ。
……これが、『注視してはいけないもの』か。
理解し、オレは視線を逸らした。
ホームレスの男は、特になにかしてくるでもなく、ただブツブツと喋っている。
それは蚊の鳴くような声で、男のすぐ目の前で耳を傾けてみても、なにを言っているのか聞き取れない。
完全に通り過ぎてしばらく歩くと、オレはホッと息を漏らした。
「なんだ、簡単じゃないか」
確かに、ブツブツと独り言を言うホームレスは不気味だが、ホラーゲームのようにもっと恐怖を与えてくるものと思っていたので、肩透かしを食らったような気分になる。
あの程度なら、多少不気味でも無視できるだろう。
またしばらく歩いていると、2つ目の分かれ道が見えてきた。
同じ看板に、同じ分かれ道。ブログの内容と同じだ。
オレはまた、正面の道を選んだ。どれを選んでも間違いがないのなら、道に悩んで足を止めることは避けたい。
田舎っぽい住宅、途切れなく伸びるブロック塀。こちらもやはり、先ほどと同じ景色だ。
しかし、先ほどとは違う光景があった。
向こう側から、誰かがこちらに歩いてくる。それは、派手な見た目の若い女と、3歳ほどの小さな男の子だ。
「まって。まま、だっこ」
男の子は歩き疲れたのか、つたない言葉づかいでそう言いながら、若い女に手を伸ばしてくる。どうやら2人は親子のようだ。
しかし、母親はその子の手を取るどころか、冷たく払い除けた。
「うっとうしいんだよ! 甘えてくるな!」
吠えるような女の怒鳴り声が頭に響く。
刹那、オレの心は激しくざわついた。
男の子はそれでも必死に手を伸ばし、母親の背中を追いかける。しかし、もう母親は振り向くこともせずにスタスタと歩き、オレの横を通り過ぎていった。
母親のものらしい香水とタバコの匂いが、オレの鼻をツンとさす。
「……なんだよ、今の」
女の足音が聞こえなくなってから、吐き捨てるように呟く。
おそらく今のも、『注視してはいけないもの』。どうやら内容は毎回違うらしい。
――さすがに、今のは、なぁ……。
ここが普通の場所だったら、母親の胸倉を掴んでやりたくなるほどに、胸糞悪い。
またしばらく歩いていると、次の分かれ道が見えてくる。
オレは、右の道を選んだ。どれを選んでもおそらくなにも変わらないかもしれないが、できればあの親子にもう一度会うのは避けたかった。
途切れなく続くブロック塀、田舎っぽい住宅。やはり同じ景色だ。
そしてしばらく歩いていると、再び人影が見えた。
目を凝らして見て、その正体にホッと胸を撫で下ろす。それは、最初に見たホームレスの男だった。
よかった、こいつなら安心だ。
そう心の中で呟いてから、オレはホームレスの前を通り過ぎる。
ホームレスの男は、やはりなにかをブツブツと呟いていたが、それだけでこちらにはなにもしてこない。
心なしか、先ほどより声が大きくなっているように感じたが、なにを言っているのかはやはり聞こえないので、気にしないようにした。
またしばらく歩いていると、再び分かれ道が現れる。さすがにもう慣れた。
オレは迷わずに正面の道を進む。
同じ道、同じ景色。そしてまた、人影が見えた。今度は、3人だ。
30代くらいのチンピラのような見た目の男と、20代前半ほどの、まるで水商売でもしているかのような派手な女。その後ろを、5歳ほどの痩せた少年がトボトボついて歩いていた。
オレは注視しないように俯きながら、時折3人の様子を横目でチラ見する。
男は口にタバコを咥えながら、札束でも入っていそうな形の茶封筒の中を覗き込む。そして、大きく舌打ちした。
「なんだ、これっぽっちか」
その声は、不機嫌そうな色を孕んでいる。男の隣で肩を落としていた女は、その声にビクッと体を震わせた。
「ご、ごめんなさい。こ、今月は指名が少なくて、その……」
「言い訳すんじゃねぇ!」
男は怒鳴り声を上げると、女の頬を勢いよく打った。
女は悲鳴を上げてその場に倒れ込むと、男の足元で許しを乞うように土下座をする。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
何度も頭を下げる女。どことなく、先ほどの母親に似ている気がした。
男はその土下座さえ気に入らないとばかりに、女の頭を踏みつける。
「や、やめて、おとうさん」
少年が震えるような声で訴えるのがオレには聞こえたが、男は頭に血が上って聞こえていないらしい。ただひたすら女を罵倒し、腹を蹴ったり髪を引っ張ったりとひどい暴力を加え続けている。
見ていられなくて、オレは駆け足でその場を去った。
男の怒鳴り声が聞こえなくなってから歩みを遅くし、深呼吸に似たため息をこぼす。
「……くそ。そういうことかよ」
オレは、全てを理解した。
ここがどういう場所で、どうして元の道を『戻せない』のか。
そしてブログにあった『止まってはいけない』理由も、同時に思い出したのだ。
しかし、いや、だからこそ、ここで止まるなんてまっぴらごめんだ。
こんなところ、もう一秒だっていたくない。オレは早足で先へ進んだ。
次の分かれ道も、正面の道を選ぶ。もはや道を選んで迷っている時間すら惜しい。
しばらく歩いていると、再び人影が見える。今度はなにが来るんだ、と身構えたが、その正体がわかると安堵した。
また、あのホームレスの男だ。最初は少し不気味だと思っていたが、今はむしろ、独り言を言っているだけでなにもしてこないあの男に愛着さえ湧いてくる。
ホームレスの前を横切り、通り過ぎようとする。ホームレスの男は、相変わらずブツブツとなにかを呟いていた。
「…………に……って、…………る?」
途切れ途切れに、男の声がする。
気のせいではなかった。ホームレスの声は、会うたびに徐々に大きくなっていた。
しかし、それでもまだ、なにを言っているのかまではわからない。
立ち止まって耳を傾けたい衝動をグッと抑えて、オレは先を急いだ。
次の分かれ道も、正面を選んだ。
これまでの傾向だと、ホームレスの次は『見たくもない景色』が現れていた。とすると、今回も……。
緊張しつつ先に進むと、やはり人影があった。
今回は、やけに多い。5、6人ほどで、全て子どもだ。小学校高学年といったところだろうか。
その光景は、思った通り、見覚えのあるものだった。
1人の少年を、他の子ども達がよってたかっていじめている。
ある者は石を投げ、ある者は少年のランドセルを蹴り、ある者は暴言を吐いている。
「やーい、親なし!」
「お前両親に捨てられたんだろ!」
「……ちがうもん。ちがうもん」
いじめっ子達を否定する少年の声は、小さくてか細い。
本当は、わかっているのだ。彼らの言葉が全て正しいことを。
少年の抵抗も、彼らは笑う。
「違わないだろ! じゃあ親はどこ行ったんだよ?」
「お前をおいて消えたんだろ? うちの母ちゃんが言ってたぞ! お前の親はロクでもないクズだって!」
「お前もクズなんだろ!」
「やーい、クーズ!」
「……ちがうもん!」
いじめられていた少年は、声を荒げて走り出す。オレの横を通り抜けて、『戻せない道』へと消えていった。
「……やっぱり、そうか」
呟くと、自分の歩みがいつの間にか遅くなっていることに気づいた。今にも、止まってしまいそうだ。
さすがに、もうわかる。
ここはオレが、かつていた道。『記憶』だ。
思い出したブログの内容を、頭の中でなぞる。この道に現れる『注視してはいけないもの』は、その人間のトラウマや迷い、そして心の闇。
それに気を取られて足を止めてしまうと、簡単には先に進めない。立ち止まっている間は、この道に囚われたままになってしまう。
だから、『絶対に止まってはいけない』のだ。
「……ふざけるな」
オレは拳を握りしめた。
冗談じゃない。とっくに過ぎ去った道のために、一生囚われてなるものか。
確かに、オレの親はロクでなしのクズだった。親父は酒とギャンブルが好きで、機嫌が悪いとオレやおふくろに暴力を振るった。おふくろは親父に殴られないために、水商売で金を稼いだ。
憂さ晴らしのためか、おふくろはオレに冷たく当たったり、親父の留守中に知らない男を家に招いたりしていた。
そうしてある日、2人とも家に帰ってこなくなった。
水も電気も止められた、真夏のボロアパートに、9歳のオレを放置して。
ちょくちょく様子を見にきてくれていた叔父さんがオレを見つけてくれなかったら、今頃生きていなかった。
けれど、だからどうしたって言うんだ。あんな親とも言えないクズのために、足を止めてたまるか。
それに、叔父さんに拾ってもらった恩をまだ返せていないんだ。絶対に抜け出してやる。
足に力を込め、再び早足で歩いた。次の分かれ道の先にいたホームレスも無視して、額から流れて顎に滴る汗も無視して。
7つ目となった分かれ道も迷わず直進すると、遠くからギターの音が聞こえてきた。
「……あ」
その音に、オレの歩みはまた遅くなる。
それは、ついさっき。この場所に入るほんの少し前に、通ってきた道だ。
オレと同じ年に見える青年が、ギターで自作らしい曲を弾きながら、歌っている。だが、その周りには誰もいない。
誰も、彼の演奏を聴きにこない。
青年はしばらく演奏していたが、ふいに止めて、ギターを手に『戻せない道』の方へ歩き出した。
「……もう、やめた方がいいのかな」
すれ違いざまに、青年の声がオレの耳を残酷に貫く。
オレは、足を止めてしまった。
その途端、誰かと誰かが言い争う声が、頭の中に響く。
それは家を出る前に、叔父さんとした口喧嘩だった。
『音楽をやめる!? どうしてだ、あんなに頑張っていたのに……音楽の専門に行きたいんだろ?』
『……叔父さんには感謝してる。オレのこと引き取って、男手ひとつで育ててくれて、オレが音楽をやりたいって言ったらギターまで買ってくれて。だから、ちゃんと恩返ししたいんだ。それに、オレももう小さなガキじゃないんだし、夢ばっか見てないで、ちゃんと将来のこと考えないとだろ?』
『……もしかして、学費の心配をしてるのか? そんなの気にしなくていい。お前のじいさんの遺産もあるし、俺だってまだまだ働くんだから』
『……そもそも、オレには才能がないんだ。どんなに頑張っても、無理なんだよ』
『すべてのアーティストにその分野における才能があるわけじゃない。みんな血の滲むような努力をして、プロになってるんだ。だからお前も……』
『……どうせ、あのクズ親たちの血が流れてるんだ。そんなオレがプロなんて、夢のまた夢なんだよ』
不貞腐れ半分で言った途端、頬が焼けるような感覚と、バチンという音が部屋中に響いて、オレは叔父さんに叩かれたのだと理解した。
叔父さんは、オレを捨てた両親のことを嫌悪していて、家族を殴っていたクズ親父のことも憎んでいて、だからオレを殴ったことは一度もなかった。
叱られたことはもちろんあったが、その時も怒鳴らず、殴らず、ただ真剣に言い聞かせるだけで、クズ親父のように恐怖で支配するような真似はしなかった。
初めてオレを殴った叔父さんの目には、涙のような光が滲んでいた。
オレは、絶望した。誰よりも感謝している叔父さんを泣かせて、誰よりも優しい叔父さんに殴らせてしまったことを。
それで家を飛び出して、この『止まってはいけない道』に来てしまったのだ。
ここは、オレの罪悪感と迷いが引き寄せた、迷宮だ。
「……そん……がん……って、……の……がある?」
聞き覚えのある声が、耳の横で聞こえる。
先ほどより少し大きく、鮮明な声だ。
視線を向けると、やはりそこにはあのホームレスの男が座っていた。
初めて見た時は老人のようだと思ったが、その顔をよく見るとまだ若い。30代前半か半ばといったところだろうか
この道で現れてきたものは、ほとんどがオレの記憶。オレが歩いてきた道だ。だが、こんな男は、オレの記憶のどこにもいない。
まさか……。
「……あんたも、この道に迷い込んだ人間か?」
半信半疑のままに尋ねると、ホームレスの男はゆっくりと頷いた。
道で立ち止まった人間は、止まっている間は道の中に囚われてしまう。このホームレスは、道の途中で座り込んだが故に、囚われた人間なのだろう。
「……いつから、ここにいるんだ?」
「…………わからない。もう、何回も、何十回も、分かれ道を歩いてきて、思い出したくもない景色を何度も見せられて……気づいたら、足を止めていた。もう、疲れた……」
ホームレスはそう言うと、ゆっくりを顔を上げて、死んだ魚のような目でオレを見つめてきた。
「……君も、そうだろう?」
同意を求める言葉と目が、まるで仲間を求めて懇願しているかのように思える。
だが、オレは首を横に振った。
「……オレはちょっと休憩してただけだ。少ししたら、また歩く」
「……それになんの意味がある?」
「は?」
「……そんなに頑張って、なんの意味がある?」
ホームレスの一言に、オレは言葉を詰まらせる。
その言葉は、オレが叔父さんに言い放った言葉だ。
『どんなに頑張っても無理なんだ』。そう、恩人に向けて吐き捨てた。
ホームレスはふと、オレの背中に視線を向け、懐かしそうに目を細める。
「……ギター、やってるのか?」
「え? あ、ああ、まあ」
「そうか……僕も昔やってたよ。高校の友だち数人とバンドを組んで、路上ライブとか、ライブハウスとかで演奏して。すごく楽しくて……。いつか絶対にプロになるんだって、本気でそう思ってた。……でも、なかなか上手くいかなくてね。1人、また1人とバンドをやめていって、僕1人だけが残っちまった。やめる時に言われたよ、どんなに頑張ったって、結果が出なくちゃ意味がないって……」
ポツリポツリと語るホームレスの言葉は、まるで自分のことのようで聞き流せなかった。
オレも、路上ライブもやったし、ライブハウスや、動画投稿サイトも使って活動してきた。歌唱力を上げるために、カラオケで何時間も練習した。
けれど、上手くいかなかった。路上ライブをやっても誰も足を止めてくれず、客がほとんどいない中でライブをして、動画の再生回数も2桁いけばいい方だった。
もう、やめた方がいい。何度そう考えたかわからない。
――でも…………。
ホームレスは俯き、話を続ける。
「結局僕も音楽をやめて、普通のサラリーマンになったんだけど、どんなに働いても心は満たされなかった。そのうち仕事にも身が入らなくなって、怒られてばかりで。でも、しょうがないじゃないか。僕はやっぱり、音楽が好きなんだ。音楽がやりたいんだ。楽しくて刺激的だった、あの時間を、あの道を、もう一度取り戻したい……」
「……っ」
ドクンと、心臓が跳ねる。
音楽が好き。音楽がやりたい。
それは、まるでオレの心を代弁するようだった。
……そうだ。オレが音楽を始めたのは、そんな純粋な気持ちからだ。
引き取られてすぐの頃、叔父さんにカラオケに連れられて、オレは当時好きだったアニメの歌を歌った。すると叔父さんは、オレの歌を聞いて満面の笑みで褒めてくれた。
両親にも褒められたことがなかったオレは、初めて誰かに褒められたことが心底嬉しかったことを、今でも鮮明に覚えている。
あの時の叔父さんの笑顔が、オレに道を作ったんだ。
あの時のように褒めてほしい。あの時のように笑ってほしい。
だから、音楽を始めた。
けれどいつからか、オレの心には黒い感情が芽生えていた。
『絶対に有名になって、オレを捨てたクズ親を見返してやりたい』
頭の中では「どうでもいい」と思っていても、どうしても忘れられない両親の顔。
オレはずっと、その黒い感情のせいで、夢の目的を見失っていたんだ。
ホームレスは両膝を抱えるようにして座り直すと、顔を埋めて丸くなる。
「……けど、もう無理だ。失った時間は……『一度歩いた道は戻せない』。ここに来て、それを痛感したよ。だから、もう……」
「無理じゃねぇよ」
「……え?」
遮るように否定すると、ホームレスは顔を上げ、目を丸くした。
「戻せないなら、もう一度道を作ればいい。まったく同じじゃなくても、よく似た道を作ればまた歩き出せるだろ」
「……君は、まだ若いから」
「歩き出すのに若さなんて必要ねぇよ。必要なのは、歩き出す勇気と、歩き続ける覚悟だ」
叔父さんの言葉が、今はじめてオレの心に響く。
『すべてのアーティストがその分野における才能を持っているわけじゃない。血の滲むような努力をしてプロになっているんだ』
オレはその『努力』を、親や叔父さんを理由にして逃げたかっただけだったんだ。
今、叔父さんがオレを殴った理由が、なんとなくわかった気がする。
叔父さんは、オレの将来を、自分や親を言い訳にして狭めてほしくなかったんだ。
「……勇気と、覚悟か」
「あんたも、本当はまだ歩きたいって思ってるんだろ? だったら立てよ。歩きたいと思えるうちは、歩けるだけ歩けばいいだろ。1人じゃ不安だって言うなら、オレが引っ張っていってやるよ」
オレはそう言って手を差し出すと、ホームレスの男は少し間を置いてから、呆れるようにプッと吹き出した。
「……まいったな。子どもに手を引かれて歩くなんて……でも、悪くないかもね」
死んだようだった瞳に、ほんの少しだけ光がさす。
ホームレスの男はオレの手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。男の指には、ギターを弾く人にできる特徴的なマメの跡がある。
オレたちは『先』の方へ目を向けると、一歩を踏み出した。
ゆっくりと、しかし確実に、ただ真っ直ぐに歩き続けた。
演奏が終わると、あたりは拍手と歓声に満ち溢れる。今日の路上ライブは、いつも以上に盛況だった。
叔父さんと喧嘩して家出したあの日から、今日で3年が経つ。
あの日のことは、正直ほとんど覚えていない。フラフラとただ道を歩いていて、知らない誰かと少しだけ話して、またフラフラと歩いていたら、いつの間にか家の前にいた。
出ていった時より、何故か心が軽くなっていていたことだけは、覚えている。
「心配していたんだぞ」と泣く叔父さんに謝罪したオレは、「やっぱり音楽を続けたい」と言い、「続けさせてください」と頭を下げた。
叔父さんは嬉しそうに笑って、「当たり前だろ」とオレを抱きしめてくれた。
あれから、オレの音楽への向き合い方は大きく変わったと思う。
音楽の専門学校に通いながら、これまで以上に路上ライブを行い、ボイストレーニングにも励んだ。他の人のライブを見にいって、どうすればライブを盛り上げられるのか研究もした。動画投稿サイトにも、自作の曲を何本も上げている。
今では、再生回数も大幅に増えたし、ライブをすれば必ず見に来てくれる常連もできた。
あの日になにがあったのか、誰となにを話したのかは思い出せないが、あの日のおかげで、オレの毎日は充実している。
「失礼、ちょっといいかな?」
ライブを終えて片付けをしていると、後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声だったので常連かと思い振り向いたが、そこには30代半ばでスーツ姿の、見覚えのない男が立っている。
「はい。なんですか?」
「突然ごめんね。僕、こういう者です」
そう言って、男は名刺を取り出す。そこには、有名なレコード会社の社名と連絡先、そして男の名前が書かれていた。
だがオレはそれよりも、男の指が何故か気になった。
昔ギターでもやっていたのだろうか、特徴的なマメの跡が残っている。
――どこかで、見たような……。
確認するようにその顔をまじまじと見つめると、男はまるで、太陽のような笑顔をして言った。
「よかったら、僕と一緒にプロを目指してみない?」




