第1話 聖女の檻、あるいは黄昏の契約
王都の地下、ひんやりとした湿気が立ち込める石牢の奥深くで、アウレリアは自身の命が急速に削り取られていくのを、まるで他人のことのように冷めた気持で感じ取っていた。
石造りの壁から染み出ている水が床に広がり、わずかな光源を反射して不気味に揺れている。その水が床石の隙間にしみこんでいく。
冷気は彼女の薄い囚人服を容赦なく通り抜け、骨の髄まで凍りつかせようとしていた。しかし、その寒さよりも遥かに痛ましいのは、彼女の指先から絶え間なく漏れ出る光の粒である。
それは、かつてこの国を魔物の侵食から守るために捧げられていた「聖域の結界」の核となる純度の高い魔力だ。だが今のそれは、慈しみや守護のためではなく、国を支配する者たちが彼女の魂から力だけを吸い上げる、呪いのような苦痛の源として彼女を蝕んでいた。
石牢の重い鉄扉が、まるで死刑宣告のように耳障りな金属音を立てて開いた。
暗闇になれた目に、松明の光が眩しく煌めいた。そこに現れたのは、絢爛豪華な絹のドレスを纏ったアウレリアの妹のカーリンと、第一王子のシリルだった。
カーリンの瞳は、まるで珍しい宝物を手に入れた子供のような勝利の喜びに満ちており、アウレリアを蔑む表情を隠そうともしない。
カーリンは一歩一歩、アウレリアに優雅に歩み寄ると、彼女の足元に広がる魔法陣を見下ろして鼻で笑った。
「お姉様、どうしてそんなに悔しそうな顔をしているのかしら? 少しは反省の表情を見せたらどう?」
カーリンの無邪気な問いかけに、アウレリアは乾いた笑いを掠れた声で漏らすしかなかった。
結界の維持とは、ただ玉座の隣で微笑んでいるだけの楽な仕事ではない。それは、刻一刻と迫る魔物の侵食を、自身の魔力を削り、削りきった魂の残りカスをすり潰しながら食い止める、終わりなき重労働なのだ。
彼女がその結界を支えてきたからこそ、この国は繁栄を謳歌できた。しかし、妹にとってその血の滲むような献身は、「王太子の婚約者」という栄光の裏にあるただの「贅沢な怠慢」としか映っていなかったらしい。
「結界の維持なんて、ただ座っているだけでしょう? それなのに、そんな特権を独り占めして……私には一度も譲ってくれなかった。お姉様だけ、ずるい!」
アウレリアは、喉の奥にこみ上げる血の味を飲み込みながら、静かに語りかけた。
「……貴女には、分からないのね。私がどれほど、この国のために自分の心身を削り取ってきたか。貴女たちが王宮で華やかな舞踏会を楽しんでいる間も、私はずっと、人知れず血を流し、孤独の中で魔物と対峙していたのよ。……ああ、でももういいの。貴女たちのその愚かさが、この国の結界を壊すことになるのだから」
隣で黙り込んでいたシリル王子は、愛しそうにカーリンの肩を抱き寄せ、アウレリアをまるで不必要なゴミでも見るかのような冷淡な目で見下ろした。
彼もまた、アウレリアが何年もの間注いできた献身を、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだと錯覚していた一人である。
「アウレリア、言い訳は聞き飽きた。君が結界を維持できなくなった今、カーリンが聖女としての適性を証明した。君という、魔力だけが取り柄の道具は、もう用済みだ」
カーリンは満足げに、毒を仕込んだワイングラスをアウレリアの口元へと突きつけた。そして、グラスを傾け、力を失ったアウレリア口を左手で塞いだ。その目は、狂気じみた愉悦に輝いている。
「身の程を知りなさい。これからは私が、王太子殿下と幸せになるの。お姉様は、ここで誰にも知られずに、静かに消えてね」
ああ、これが私の人生だったのか。国を救い、愛を捧げた結果がこれか――。
冷たい毒が身体を駆け巡り、意識が遠のいていき、アウレリアの目が閉じられた。
アウレリアの意識が途切れる直前、深淵から懐かしい精霊の声が聞こえた。それは、彼女が聖女として生涯唯一、心を許した存在だった。
『――契約を。精霊の加護を受けし者よ。貴女の望みを、もう一度叶えよう』
真っ暗だった視界が白く塗り潰され、次の瞬間、彼女が目を開けると――そこは見慣れた、王城の応接間だった。窓からは陽光が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。
ここは?
そしてアウレリアは全てを悟った。
時間は戻っていた。カーリンが婚約を迫り、シリル王子が困惑した顔でこちらを見ている、あの日へ。
アウレリアは、込み上げる笑いを抑えきれなかった。彼女は淑やかに立ち上がり、未来を知る者の余裕を持って、冷ややかな微笑を浮かべた。
「ええ、喜んで。貴女に差し上げますわ。私は代わりに、誰もが恐れる『呪われた辺境伯』カスピアン様へ嫁ぎますから」
この決断こそが、王都の腐敗を内側から崩し、かつて自分を捨てたこの国に、真の「聖女の不在」という地獄を味わわせるための、最初の一手となるだろう。
カスピアンという名の、この国で最も危険で、しかし最も高潔な男。彼と契約を結ぶことは、アウレリアにとって復讐と救済を同時に手にする手段であった。
アウレリアは、自身の運命が大きく動き出したことを感じながら、かつて自分を裏切った者たちに背を向けた。それは、かつての献身に満ちた聖女ではなく、冷徹な復讐者としての新たな人生の幕開けであった。彼女の瞳には、かつてないほどの静かな闘志が宿っていた。




