ツチノコの怪異
あれは、去年の夏のことです。
稲葉山という山にある古い社を祀ったとある村のお話です。
その村には、古くから奇妙な風習がありました。
村外れの森の奥、薄暗い沼地。そこは【ヘビの沼】と呼ばれていまして
その村では、「ヘビは絶対に捕まえてはいけない」と言われていたんです。理由は誰も知りません。
ただ、村人たちはその沼に近づくことすら避けていました。
でも、村の青年団長だった健二さんは違いました。
ある日、彼は沼のほとりで、何かに気づいたんです。
「……? なんだあれ?」
健二さんが指差した先には、草むらから首を覗かせる、一匹のヘビがいました。
でも、その顔が、おかしかったんです。
ヘビにしては、顔が平たくて、やけに広い。
まるで、誰かが泥で無理やり平らにしたような、不気味な形をしていたのです。
「まさか……ツチノコか?」
健二さんは、子供の頃から憧れていた幻の動物に違いないと、胸を躍らせました。
村の言い伝えなんて、すっかり忘れて。
彼はそっと近づき、一気にそのヘビを捕まえようとしました。
その瞬間。
「……ッ!?」
彼は、自分の目を疑いました。
捕まえようとした【ツチノコ】の平たい顔が、突然、横に裂けたんです。
口が、耳のあたりまで、いや、後頭部まで、一気に。
その中には、鋭いヘビの歯ではなく、
人間の、小さな、びっしりと並んだ歯が、生えていたんです。
健二さんは村の言い伝えを思い出すのと同時にとある噂も思い出しました。
それは言い伝えを信じない人たちは、ある日突然にふっと姿を消してしまうということです。
そのツチノコのまわりにはまるで脱皮したような跡がたくさんありました。
しかし、人間の歯を見せて嗤うツチノコを前にしては調べることも容易ではありません。
(たしかクマに遭遇したときは話しかけながら引き下がると生存率が上がるんだったかな‥。とりあえずこのツチノコから逃げないと‥。)
そうは思うのですがなかなか足は動いてくれません。
健二さんの脳裏を、親友・光彦の顔がよぎった。
あれは、健二が沼に向かう、ほんの数日前のことだった。
村の公民館の裏手で、二人は夕涼みをしながら、たわいない話をしていた。
「健二、お前また例の『ヘビの沼』に行くつもりか?」
光彦が、少し心配そうな顔で尋ねた。
健二は、公民館から借りてきたばかりの古い地質図を広げながら、ニカっと笑った。
「ああ。地層の隆起を調べるのにもってこいなんだよ。それに、村の言い伝えなんて、どうせ迷信だろ?」
「……お前はいつもそうだ。怖いもの知らずというか、能天気というか」
光彦はため息をつきながらも、どこか楽しげだった。
二人は、子供の頃からずっと一緒だった。
慎重な光彦と、破天荒な健二。正反対だが、不思議と気が合った。
「そういえばさ、健二。この間、隣町にできた新しい肉屋の肉、めちゃくちゃ美味そうだったぞ。今度、俺ん家の庭でバーベキューしねぇか?」
光彦の言葉に、健二の目が輝いた。
「バーベキュー!いいな、最高じゃん!光彦の親父さんの自家製野菜もたっぷり焼こうぜ!」
「ああ、もちろん。……だから、健二。あんまり沼に近づきすぎるなよ。無事に帰ってきたら、最高の肉を用意して待ってるからさ」
健二は、光彦の肩をポンと叩いた。
『待ってろ光彦、無事に生きて帰ったらバーベキューしような』
夕暮れの光の中で交わされた、ただの、何気ない約束。
(待ってろ、光彦。無事に生きて帰ったら、バーベキューしような……!)
その約束が、麻痺した体を辛うじて動かした。彼は震える手で地面を這うように、じりじりと後退りし始める。
「……あ、あ、あんた、も……す、好き、ねぇ……?」
突然、ツチノコが嗤った。
その声は、健二さんのよく知る、村の老人の声だった。
健二さんは、凍りついた。
ツチノコのまわりに散らばっていた、脱皮したような跡。あれはヘビの皮ではなかった。
人間の、皮膚だったのだ。
中身を吸い出され、放置された、かつての村人たちの「抜け殻」。
そして、そのツチノコの口の中で、嗤うように並んでいた小さな、びっしりとした人間の歯。あれは、彼らが「コレクション」した、犠牲者の歯だったのだ。
ツチノコは、健二さんの動きに合わせて、その平たい顔をゆらゆらと揺らしながら、少しずつ、少しずつ近づいてくる。
その口元からは、何かが、ぽろり、とこぼれ落ちた。
……それは、村で行方不明になっていた少年の、小さな、銀色の乳歯だった。
その瞬間、健二さんの背後から、草を分ける音が近づいてきた。
(光彦……!? 光彦なのか……!?)
彼は、光彦が自分を助けに来てくれたのだと、一筋の希望にすがろうとした。
しかし、健二さんは、次の瞬間。
自分の希望が、絶望へと変わるのを、悟った。
草むらから現れたのは、光彦ではなかった。
それは、健二さんの背後から、嗤うように嗤った。
「あんたも好きねぇ……?」
それは、健二さんの、顔をしていた。
ツチノコからは逃げられない。
でも不思議なことに、悲鳴を聴いたとかそんな話は聞いたことがおりませんでした。
ツチノコは少し近づいただけです。
しかしそこには紛れもない自分がいます。
私は一体誰だったのだろう?
なぜか突然【自分】という存在が希薄になったような気がしました。
足の動かし方が、わからない。
ただの一歩が、どうしても踏み出せない。
ツチノコが、ずるり、とあと数センチ距離を詰めた。
その瞬間、頭の中にあった「健二としての記憶」が、砂のようにサラサラと崩れ落ちていく感覚があった。
村の青年団長だったこと。沼にやってきた理由。
そして、目の前に立っている「自分と同じ顔をした存在」の意味。
(ああ……そうか。だから悲鳴は上がらないんだ)
声の出し方すら、先に奪われてしまうから。
「自分」の顔をしたソレが、ニタリと笑って口を開く。
そこに並んでいたのは、人間の小さな歯のコレクション。その中に、つい先日、虫歯の治療をしたばかりの「銀の詰め物」が光っているのが見えた。
(……待てよ。あれは、俺の歯じゃない。あれは、健二の……)
不意に、希薄になった意識の底から、全く別の記憶が浮上した。
『待ってろ光彦、無事に生きて帰ったらバーベキューしような』
――違う。その言葉を言ったのは、俺じゃない。
俺に、その言葉をかけてくれたのが、健二だ。
「健二……なんでお前、そんな顔して、俺を……」
俺の名前は、健二じゃない。
俺は、光彦だ。
健二はもう、とっくに「あっち側」にいて。
今、俺の【存在】を、最後の一滴まで飲み込もうとしているんだ。
自分が誰だったのかを思い出した瞬間。
光彦だったものの視界は、ふっと深い闇に溶けた。
あとに残されたのは、綺麗に脱ぎ捨てられた一枚の『服のような皮』と。
「じゃあ、次はバーベキューだな」
光彦の声を完璧に模倣して嗤う、二匹のツチノコだけだった。




