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4. ベルとだべると、最後は涙

「ねぇ、いつ子さん……」

 目の前にいる里香りかさんが話しかけてきたので、せっかく途中まで数えていたものが、どこまで数えたか分からなくなった。


 チッと舌打ちしたいのをこらえて、いつ子はニッコリ微笑んだ。「○○ちゃんママじゃあ、私がどこにいるのか分かんなくなっちゃうじゃない」とのたもうて、この集まりにファーストネーム呼びかけ運動(?)を展開した張本人だ。こんなことをしていたら、ますます誰と誰が親子か分からなくなる。今でさえ、親と子供の顔はそうそう一致しないというのに。里香さんは、ご苦労さまにも四人も子供がいるくせに、親に緊急に用ができた場合に一時的に子供を預かるボランティアもしているらしい。まったく女の鏡とでも言うべきだろうか、よくやるよと呆れるべきか。


 今日は、三月のとある水曜日の午前中。家にはやりかけて最後まで行き着いてない『あいだ先生んとこの例のブツ』を待たせてある。とにかく最後まで入力して、チェッカーを走らせて、聞き直しをして、聴取不能箇所にタイマーの秒数とかを書き出して、メール納品のときに校正さんに教えてあげなければならない。まったく、本当に、最後までやり遂げるのにリキがいる。明日でいいことを今日しない主義のいつ子とはいえ、自分の能力の限界というものも当然認識している。いい加減にペースを上げて片づけないと、納品日の前日は、夜眠れなくなる。


 本当はこんなことをしている場合ではないのだけれど、長男が小学校に入学してから長いこと付き合ってきた学校ボランティア、必殺ベルマークちょきちょき活動も今日が最後。次男と長男は丸々三つ離れているから、九年もこんなことをしてきたことになる。本当に、こういう活動は見てみないふりが十分可能なものだから、人のよさ(端的にいえば、アホさって奴?)では、自分も里香さんに負けてないかもしれない。


「あ、ごめん、数えてた?」

 里香がいつ子がちょきぺた(台紙に貼る作業)ではなく、鉛筆を持って点数合計を出しているのに気付いたのか、ばつが悪そうに軽くぺこりと頭を下げる。

「大丈夫、3ばと、3ばと、3ばと2わ、程度の計算だから……」

 昔次男が大好きだったネコが11匹出てくる絵本で、シリーズとしてはゲストになるアホウドリが自分も11羽兄弟だと説明する、かの名ゼリフをパクってみた。けれど、里香さんはきょんとした顔になる。さてはアホウドリを知らないな。ガキボラしてる彼女が、あの迷作絵本を知らないとは正直意外だ。

「ごめん、何でもない……気にしないで……」

 春なのに寒風吹きすさびそうになった雰囲気を取り繕うとしたとたん、里香が大まじめな顔つきのままで言った。

「それ聞くと、コロッケ食べたくなるよね~」

 なんだ、やっぱり分かってるじゃない。いつ子は頭を机に打ちつけるところだった。本当に彼女はテンポが世間とずれているのだ。


「里香さん~。またロッテ頼むわ。ニッスイの続きは、いつ子さんが集計終わりそうだから、任せちゃってよ」

 世話係をかってでてくれている雅美みやびさんが、仕分け用の食品トレイにこちゃこちゃと乗っている、ゴミというよりホコリサイズとでも言うべきマークを持ってくる。

「ええっ」

 里香さんが素っ頓狂な悲鳴をあげる。ロッテのベルマークは、はっきりいって厭味かと突っ込みたくなるぐらいに小さい。直径3ミリあるの?という世界。ひたひたと忍び寄る老眼と闘ういつ子のような年頃の主婦には、はっきりいってカンに触るサイズなのだ。

「若者よ、老婆をいたわれ」

 雅美さんは、北大の歴史に燦然と名を輝かせる某教授のマネのつもりらしい口調で言ってのける。

「よっしゃあっ、若者に任せなさいっ」

 さっきの「ええ」は何なのよという気っ風のよさで里香さんは、どんと攻撃を受け止めた。カッターマットにピンセットを持ってくるところが、既にこの展開を予想していたのだといえよう。やるぜ、里香ちゃん。


 そう、里香の長男はいつ子のドラ息子より年上なのに、里香自身はいつ子より随分と若いのだ。まったく……、子育てが終わってからの輝けるシルバー生活を考えれば、若い方が勝ち組は決まった様なものだ。どうせ結婚して主婦に納まるなら、若いママになっときゃよかったわとつくづく思いつつ、

「よっ、里香さん頼もしいっ。さあ、働け~若造よっ」

と、気合の入らない拍手をする。


「ねぇ、いつ子さん、今仕事どんな?」

 雅美さんというのは、例の仕事をいつ子に紹介してくれたユウくんママのことだ。彼女も人一倍忙しいはずなのに、子供が高学年になっても参観日には必ず顔を出して、学級懇談会にまで出てくる時間はがんばって作り出してくる。

 本当に、学校というものに下働きとして関わるメンバーというのは、場所は変われど顔触れはだいたいいつも同じだ。全然出てこない親というのも少なくないのだが、いつ子にしてみれば、幾ら不出来なドラとはいえども、我が子は我が子だ。その動静が気にならないという人種はもはや理解の埒外、想像もつかない。いわゆる びよんど おぶ まい 理解っちゅうやつだ。

 情報交換テーマは、子供が成長するとともに進学だの、加齢と共に親や親戚の介護だのなんだの、愚痴だのへと変化しているが、やっぱり幼児の公園仲間、幼稚園の送り迎え仲間は繋がりが濃い。

「う~ん、駄目、もう死ぬね私は。第一、この仕事向いてないとつくづく思うのよっ」

 いつ子が言うと雅美さんはケラケラと笑った。

「冗談ばっかり……。これ終わったら、いつ子さん引退記念でランチいかない?」

 次男が六年生の三月。ということは、本当にベルもこれが最後なのだ。永遠に続けたいと涙して、しんみりするようなものではないが、ランチの口実になるなら感謝します。ただ、このベルチョキの二時間だって週末金曜日までの残り時間を考えたらエラいこっちゃなのだ。ランチといっても、そこはそれ主婦仲間だ。食ったあとに仕事という戦いの現場に向かうOLとは違って、子供が帰ってくる時間までの茶シバキまで突入することは想像に難くない。


「さくら坂の途中にできたイタメシ、ランチセット1000円なんだけど、200円増しでケーキ付くんだって。あと、オーナーシェフ、シブ系のイケメンらしいわよ~」


――あいだ先生~、ごめんなさい、許して。私にはほかに好きな人が、できてしまったんです。


 いつ子は「もう」二日と半分「しか」ないを、速攻で「あと」二日と半分「も」あるに変換して、ガッツポーズをしてみせた。

「1番、香貫いつ子っ、ランチ戦線突撃しま~す」

 自分で言っていて、何が一番なんだかと突っ込みたくもなるが、そこはそれ、中年のおばんのお約束というやつだ。

「やった、いつ子隊長、どこまでもついていきまぁっす」

 雅美さんもノリがいい。

「いつ子隊長、雅美軍曹、里香新兵もご一緒してよろしゅうございますかあっ」

 はいはい、誰も里香さんを拒否れませんよ。いつ子は親指を立てた。

「聞くまでもなかろう。君は既に人数としてカウントされているのだよっ」




     * * *




「ああっ、このパスタ美味しい~。幸せ」

 美味しいものを食べると幸せと断言する陽気な雅美さんは、一緒に食事をしていて文句なく楽しい仲間だ。ブルーで深刻で愚痴ばかりの連中と、文句を言いつつ食べるのでは、オイシさ半減である。

 ここのは平たいパスタで見事なアルデンテ。量を増やすために、パスタもうどんの固さを目安に茹でてやることにしているいつ子には、少々歯ごたえがありすぎるような気もするものの、自家製(本当か?)とかいう生ハムとオーガニックのブロッコリーをバジル風味でさくっと絡めた一皿は、自分が作るパスタというシロモノと同じ名前を付けてはいけないような気がするほどに美味しい。

 いつ子の趣味のジャニーズ系ではないものの、噂に違わぬボクサー風の渋めの風貌をしたオーナーシェフが、いつ子たちの食事の状況をちらっとみて、コーヒー豆をひきだしたのに、非常に余は満足じゃモードになれそうな予感がした。どんな贅沢ランチでも、コーヒーがまずかったり、ミルクティーに(いつ子は飲まないけれど)ポーションのフレッシュを付けてくるような店は許せない。ファーストフードならいざ知らず、レストランを標榜するなら、やっぱりミルクティーならピッチャーもちゃんとあっためて温かいミルクを添えてくるのが客に対する礼儀ってもんだし、コーヒーならデカンターで煮詰まったものでなく、客の顔を見てから落としたものを入れるべきなのだ。


 この店は大当たりだ。これでコーヒーが絶品だったら、幼稚園ママ繋がりのケイタイメールで、盛大に宣伝を流してやろうっと、密かにいつ子は心に決める。実際そうするかどうかは別として……だ。


「本当は仕事なんかしなくても、旦那の給料にパラサイトで生きていけたら、文句ないんだけどね~」

 里香がしみじみと言う。

「えっ、でも、ランチばっかしてたら、太るよ」

「もういいのっ。デブよこいこいっ」

 雅美さんが割り込んでくる。

「パパが過労死しちゃったら、いい男捜して再婚するんでしょ。だったら最低限の美しさを」

 いいかけたいつ子に、ユウくんママこと雅美さんは盛大に首を振った。

「あれ、もう止めたっ」

「止めたの?」

 いい?というような目つきに雅美がなる。

「今旦那が突然死しても、今更だれかムコをさがすより、遺族年金と母子家庭手当てで乗り切る方が賢いってハッケンしたのよ、私は。ついでにどうせ死ぬなら、会社で頼みたいよね。労災もげーーーっと」

 ユウくんパパは、早朝から深夜まで、相変わらずの年収ベースで搾取されたまま、父親仕事もろくにできないらしい。間抜けに優しい香貫を家事戦力の員数に入れられるいつ子とはまったく違って、話を聞くだけでげっそり気の毒になる。

「あらら。雅美さんってば、木脇君狙ってるんじゃなかったの? 年上の魅力で悩殺するって言ってたよね」

「木脇君とは不倫でっ。そうよ、それそれ。ねっいつ子さん、知ってる? 木脇ちゃん、婚約したらしいのよ」

「えーーーっ」

 いつ子の声がおしゃれなイタリアンレストランには不似合いに響いた。私的アイドルの婚約話は、タレントアイドルのそれより、かなりショックかもしれない。いつ子はちょっとがっかりする。どうせああいう好青年は、どっからみても美人で切れ者の若い子をゲットしてるんだ。

 ふん、若造カップルよ、今は勝ち誇ってなさいな――いつ子は腹の中で、黒いマントをなびかせて夕日を背負った。驕れるものは久しからず。堕ちたな、ジャニーズ木脇。かわいい彼女がナンボのもんよ。女は一度結婚したら、もれなくオバン化するという哀しい現実。哀れなり木脇。ああ、今の君には、それが見えてないに違いない。


 愛しの木脇君の頼みで引き受けたあいだ物件に立ち向かう気が、それでまた一段階、一気にしぼんだ……そんな気がするいつ子さんであった。




     * * *




 というわけで、締め日前に残された非常に貴重な時間をベルで半日、ランチで3時間、雅美さん宅茶シバキで2時間まるまるギセイにしたいつ子は、夕方を戦いに費やすことをきっぱりと諦め、洗い物も少なくて済み、ついでに勝手に食べてもらえるカレー様に御出座願うことに決め、今おでん用特大鍋を引っ張りだして格闘している。

 今晩、当然カレー。明日の朝、当然カレー。昼多分カレー。夜、最悪カレーうどん。文句があるやつは、パパと外メシでもするがいいっ。


――わ、私は……。


 いつ子は、大鍋にデカイ杓子でタマネギを炒めつけながら(目は痛めつけられてるけどさ……)悲壮な決意をもって宣言する。そう、誘惑に負ける私がわるい。悪いのは木脇のネコなで声に絆された自身にある。それでも、プロだ。引き受けた以上は、納期だけは死守する。


 ――あいだせんせーの鼻水とくしゃみと……雑音と、自分の不覚のなせる技変換ミスと潔く闘って参ります。


 主婦いつ子、兼業音声反訳者。彼女の戦いは、こんなふうに日常にひそむありとあらゆる誘惑と馴れ合いつつ、果てし無く続いていくのだろう。少なくとも彼女が、その戦場に立とうとする限り。


 今、いつ子の目に涙が滲んでいるのは、敗北の予感におびえているからでも、闘わずして小遣いをゲットできぬ我が身を嘆いているのでもなく、透きとおった艶を帯びてくる前のタマネギたちが、じゃじゃっと文句をいっている所為に違いない。

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