表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

3. 戦場は孤独なものと見つけたり

 会社のウェブサイトにある、在宅反訳者がデータをダウンロードするために設けられているページにアクセスする。「香貫様分」というタグがついたデータを選び、保存するをクリックすると、ダウンロードが始まった。音声データだけでなく、ある場合はPDFやワード、エクセルという形の資料の類も入っているので、圧縮してあるのだけれど、それでも相当分量がある。いつ子のマンションは光ファイバに対応しているので、大体二、三分でダウンロードがおわるけれど、ADSLなどだと十分以上かかるらしい。

 これを作業するパソコンで解凍する。機械が機嫌をそこねると、システムのお兄ちゃんを呼びつけて助けてもらわなければにっちもさっちもいかなかったオフコン時代を知ってるいつ子には、この手軽さには隔世の感がある。

 大体、昔のパソコンは、ハードディスクが一ギガもあれば、三十万を軽く超えた。それが今では何とかモバイルを二年使うとかいうヒモ付き契約で、ゼロ円というのだから時代は変わったものだ。


 クリック数度でデータを使える状態にしたいつ子は、取り敢えず「悪い」という音声がどれだけ「悪い」のか確認するために、フットを踏み込んだ。フットというのは、昔の電動ミシンについていたような形状のコントローラーのことだ。当然これはイの一番で会社から貸与された備品のひとつだ。YAMAHAと書いてあるので、キーボードとか、ドラムとかそういうもので使うフットコントローラーを転用したものなのかもしれない。

 音声再生ソフトに連動させて、これを踏み込むと音声が再生され、足を離すと設定した時間だけ少し前に戻って止まるということになっている。ただ再生させるだけなら、オーディオライクなソフトにある再生ボタンをクリックすればいいのだけれど、まあ、足で探り当てたフットを踏み込んでしまうのは、仕事机に座ったときの半ば習慣みたいなものだ。


 とたん……、聞こえてきたのはガサゴソ、ガサゴソという雑音だった。


 ガサゴソガサゴソというこの種のノイズは、音声データそのものに入っている音だ。取り敢えず聞いてみて、いつ子は派手に肩をすくめた。ほんとにこれは、今までの数年の中でも飛び抜けて酷い部類に入る。


 いつ子の基本属性にはバブル根性がある。必要であれば、そして可能であれば、道具にある程度の投資をするのは当然という、贅沢な価値観である。


 講習会に会社に通うことがなくなって、自分でも仕事は何かと聞かれたら「音声反訳者です」と言ってもいいかなという気になってきたころ(実際にいつ子のそんなことを聞く人はいないのだが)、交通量が多い道路に面した北側の部屋を仕事場に充てていた彼女は、インターネットの直販で、BOSE社のノイズキャンセリング機能付きの、ほぼ五万近くもするヘッドフォンを購入した。ジャンボジェットの中でも静寂が楽しめるという宣伝はなるほど誇大広告ではなく、夏に窓を全開にしても、もはやトラックのエンジン音に舌打ちすることはなくなった。大体、このヘッドフォンの素晴らしいところは、充電池の形だ。耳パッドに当たる部分の上部にカチっとはめ込むだけ。カバーを外したりそういう手間が一切要らない。いいものは、こういうところにデザイナーのセンスが光るんだよなと、したり顔のひとつも出ようというものだ。


 とはいえ、BOSEサマがなかったことにしてくださる雑音は、もちろん、普通に生活を取り巻いている種類のものだけで、音声データに録音されてしまっている雑音は、非常にクリアに再現してくださるのだ。


「勘弁して……」

 いつ子が愚痴を壁相手に声に出す。孤独な仕事だ。しゃべる相手は、それが壁だったとしてもいないよりはマシというものだ。


 今どきこんな音声を録るのはどいつだと、発注者の欄を見ると、そこには『あいだ法律相談事務所』とあった。探偵か、弁護士か、その辺りだろう。そういう業者をタウンページで探す人は、当然その業界のことを知らないから住所で当たりを付けて、当然上の方に出ているところから電話をしがちになる。「あ」「い」ときたら、もうほぼ間違いなくトップ表示されるということで、しかも平仮名表記だから、ここのセンセイが相田さんや、合田さんや、藍田さんである可能性は低い。

 このガサゴソという音は、前にも聞いたことがあるけれど、レコーダーをポケットに入れるか、鞄に入れて机の下に置くかして、隠し録りしたものに違いない。


「いつ子さん、これはえらいこっちゃですよ……」

 肝心の話し声は、非常に小さく遠い。それをはっきり聞こうとボリュームを上げると、その雑音のガサゴソは我慢不可能な凶悪レベルに達する。こういうものは体力的に非常にしんどい。


 一応どんな種類の話なのか聞こうと、ボリュームを上げる、と、なんとも擬音語にしたくない種類の異音が耳を襲った。


「……おじさん、花粉症? 風邪? ちょっと反則だよそれ」

 この先作業中の十数時間、予告なしで他人ヒトサマが鼻水をおかみになる暴力的な音が、突然襲ってくるとしたら、これは、しんどいなんてもんじゃない。


 最初に聞こえた男の声よりさらに遠くで小さく霞んだ声がする。女の人だと雰囲気で分かるけれど、何を言ってるのかさっぱり分からない。


 ガチャっガチャっと耳にガツガツくる音は、テーブルに乗ったコーヒーか紅茶のカップとソーサーがたてる音だ。こいつは、机で反響して状態を機械で拾うと、非常に甲高かんだかい、耳に心地いいとは決して表現できない種類の音になる。難聴者が使う補聴器も、こういう種類の音は大敵だと聞いたことがある。


 人間の耳というものは本来非常に都合よくできていて、話し言葉は大きく増幅して、雑音は自動的に消音して聞こえるようにするものなのだ。しかし、機械というやつは、すべての音を博愛主義的に分け隔てすることなく、えり好みすることなく拾う。

 しかし、いつ子は声を聞くためにボリュームを可能なだけ挙げて、殆ど暴力レベルの雑音の彼方にふわふわと漂う声に集中する。

 もう一つ人間の耳の特徴として、どういう内容が話されているのか知っている場合と、まったく知らない場合では、聴き取り能力が格段に違うということがある。だから、このとんでもない品質の音であっても、どういう話し合いなのか知ってさえいれば、結構聞けたりするものなのだ。ただし、資料なしで聞き始めの場合は、あの遠い声が意味の通る文章として聞こえてくるまで、大きな山がある。


 ガッチャーン。


 物凄い音がして、いつ子は反射的にヘッドフォンをもぎ取った。心臓がドキドキしている。お茶こぼすな、お茶。フットコントローラーを小刻みに三、四回踏むと0.8秒ほど時間が戻る。今度は大丈夫。ガッチャーンという音に襲われるという覚悟はできている。いくぞぉ。フットを踏み込む。


 ガッチャーン。

――お客様、大丈夫ですか?


 聞こえた音を聞こえた通りに文字にするのが商売とはいえ、ウェイトレスさんの声は起こす必要は当然ない。『お客様』ということは、喫茶店とかそういう場所だろう。少なくとも、あいだ法律事務所のオフィスでないことは特定できた。別に話された場所を特定したところで、この音声を文字にするのに何の役にもたたないのだけれど、いつ子の野次馬根性は少し満たされる。


 この仕事で何が楽しいかといえば、古いのを敢えて承知で譬えに使うなら「家政婦は見た!」的な下品な好奇心を満たしてくれるこんな仕事にたまに当たることだ。離婚だの、ドメスティックバイオレンスだの、やったやらないのドロドロの言い合い。遺産争いだと、一億、二億をもらったもらわないなどという景気のいいうさん臭い会話。本当にいろんな人間がいるんだなと感慨も深くなるというものだ。

 もちろん、速記会社の大きなお得意さんは地方議会であることは間違いない。よって普段は、道路がどうのこうの、最終処分施設をどこそこに作るのは反対だのどうのという、つまらない話を拝聴するという場面が多い。けれど、そういう野次馬的な意味でつまらない仕事は、デジタルで副音声も含めてしっかりとした器材でマイクを使って話された言葉を録ってあるので、聞きやすいという利点がある。そういう仕事は眠気との戦いとなり、目覚ましおやつ、脂肪の蓄積という悪循環に直結する。まさに、前門の虎、後門のオオカミと、そんな雰囲気である。


 聴き取り不能な音については、仕様により「・」や「□」などの記号を、聞こえたとおぼしき音節分だけ打ち込むという習慣がある。多分こんなふうに聞こえた、意味は分からんけど、という場合はカタカナで聞こえた通りに打ち込む。


『女性/□□・・・・・・・で、・・・の・・・カシ・さんは、・・・酷い誤解・・・・・言ったのに、タ・・さんは、本当に・・・なんです。』


 と、こんな状態で納品するのは、幾らなんでもいつ子の美学が許さない。


 深呼吸をして平常心を呼び戻し、ヘッドフォンを耳にもどす。ちょっとだけボリュームを落して、恐る恐るフットを踏み込む。


――・・・・さん、大丈夫でしたか? 熱く・・・。


 何という人が誰としゃべっているのかさえ資料でもらえたら カシタさんなのかカシダさんなのか悩まなくていいし、タケシタさんなのかタケシさんなのか思い煩う必要もない。

「どうしてこんな状態で反訳を引き受けるかね、あの会社の営業は」

 いつ子の仕事仲間である白い壁紙にそういう愚痴を聞いてもらって、キーボードに手をおいた瞬間、


 ゴガガガゴオガガゴゴゴゴゴ……。


 としか表現のしようがない非常に聞き慣れた雑音が響きわたった。


「あいだセンセ~、会話隠し録りするなら、高架下の喫茶店は完全にミスチョイスでしょ~っ」

 いつ子が壁に向って怒鳴り散らす。この仕事は完全にババだっ。


 多分男性、推定五十歳前後、ハゲでデブに違いない、花粉症男の、流行はやってない興信所(探偵事務所)を秘書もなく(に決まってる)、一人でやりくりしているはずの「あいだセンセイ」とやらが、はっくしょ~ん、と、間抜けたくしゃみで、いつ子に同意するのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ