表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

2. 古参の盟友は公園にあり

 いつ子の仕事は「音声反訳業」という。労働形態としては、いわゆる在宅入力者というジャンルになる。今や古びた感もあるSOHOといえば格好いいと言えなくもないが、冷静に考えれば内職だ。内職としたら破格に稼げるが、外に働きに出ることと比べれば当然割に合うようなものではない。

 もちろん、アグレッシブに打って出て、完全な自営業として独立することもその気になればできる。ことさらオフィスを構えなくても、インターネットでウェブページを持って宣伝して、仕事を獲得している人たちもいるらしい。けれど、定収入にはならないし、代金回収にまで気を使うのは主婦のバイトとしてどうかと思う。結局のところ、夫の扶養枠から出る気がさらさらないので、これで一本立ちしようなどと決して思わないのだ。


 音声反訳とは、音声情報を――昔はカセットテープが殆どだっけけれど、今はデジタル・データが主流――文字に「起こす」という仕事だ。

 いつ子がこの仕事をしったきっかけは、主婦の最強の情報入手手段であるクチコミによるものだ。


 パソコンが一般的でなかった時代でも、それなりの企業でOLをしていたいつ子は、キーボードで日本語を入力することは単純作業だとドライに考えている。主婦トモの中には、「パソコンを勉強して、有利なパートにつきたい」とか、「香貫さんはパソコン使えてすごいね」なんて言われたりするが、そもそも家電としてのパソコンのユーザをするだけなら、学んでどうこうするようなものなんかじゃないと。

 ましてやプログラミングなんかチンプンカンプンで、動作が不安定になったら思い切りよくリカバリなどという乱暴な主義の自分について、パソコンが「使える」などと表現できるほどいつ子は厚顔ではない。


 ずっと専業主婦として子供中心に人生を取り扱っていたいつ子も、次男の孝之が小学校にあがったころ、そろそろ公園とスーパーと、幼稚園の送迎バスが走り去った後の歩道の上が社交界のすべてという、典型的ベッドタウンの専業主婦生活に別れを告げたくなった。

 平均的な主婦というのは、言ってみれば家庭の暴君だ。彼女の自由にならないことは、金の量ぐらいで、誰からも命令を受けることはない。だから、仕事というものに返り咲いて、他人様に使われる立場になるのは気乗りしなかったけれど、自分の遊び資金に大手をふって家計費をまわせないし、子供だって年齢が上がれば諸かかりも増える。

 まず、新聞の折り込み求人チラシに目が行くようになって、バブルの頃とは余りに違う相場に倒れそうになった。スーパーの隅に鎮座しているフリーペーパーも、よく見ればあやしい業界ばかりに映る。大体、一時間みっちり立ち仕事をして時給八百円以下というのは、幾らなんでも人をバカにしてないか?、どうしてもそう思ってしまうのだ。


 そろそろ働きたいと思ってるの、というのを主婦仲間に宣伝しまくって、その実情は、あれがいやだ、こんなのはスタイルじゃないと盛大にえり好みをしているとき、「香貫さんって、パソコン使えるじゃない。だったら、私、仕事紹介してあげられるよ」と言ってくれたのが、長男が幼稚園のときに、ぐだぐだと晴れている限り際限なく続く、幼稚園バス見送り後の歩道おしゃべり仲間だったユウ君ママだった。


 ユウ君ママが自宅で仕事をしているというのは、以前にも聞いたことがあった。なんだか入力系の仕事らしいし、保育園だの託児所に子育て外注しなくても、そこそこ稼げてるという噂は聞いていた。ダイチ君ママみたいに、下のチビちゃんも自転車に積んで、某運輸会社のメール便の配達というのは、それは幼児がいてもできるという点だけは魅力だけど、晴れた日ばかりでないのだから、すごく大変そうだ。ミキちゃんママみたいに、スーパーでタイヤキを焼くのも、どうせお客さんに知り合いのママたちがぞろぞろいると思うと、ちょっと恥ずかしい。いつ子は、とりあえずユウ君ママのツテに頼ってみることにした。


「ケイちゃんママは、すごくしっかりしてるから、大丈夫だと思うけど、いい加減な人紹介したって言われるの困るのよね。ホントやってみて無理そうだったら、できないってちゃんと言ってね」

 ユウ君ママは、いつ子のことを長男の圭太を基準にしてそう呼ぶ。彼女がそんなふうにクギを刺しながら説明してくれたのが、仕事の内容は音声を文字にするものだということだった。今どき、記録などデジタル録音で事足りるような気がして、「なんで、そんな仕事が今どき生き残ってるの?」と、どうにも奇妙な気がしたものだ。

 仕事をくれる会社は速記会社ということと、最初は何回か簡単な講習会を受ける必要があること。仕事をしながら(昔でいうところのOJTみたいなものだろうと思った)少しずつ覚えていけばいいということ。いつ子には、非常に美味しい仕事のように思えた。


 ユウ君ママがその仕事を始めたのは、お姉ちゃんが幼稚園のときだそうだ。ユウ君はもちろん赤ちゃん。そんなときに、ユウ君のパパが会社でちょっとだけ出世させられてしまい、年収という形での雇用契約になったのだという。残業手当もしっかり皮算用して組んだローンで家を買ったばかりなのに、残業代が一切付かなくなってしまって相当追い込まれた気分になったらしい。

 それで、是が非でも働く必要に迫られたけれど、それでもふにゃふにゃの赤ちゃんだったユウ君を保育所に突っ込むのはどうしてもいやで、いつ子と同じようにいろんな人に仕事を捜している宣言をして育児と両立可能な仕事を捜したらしい。ハローワークに通ったりしたけれど、これはというのが見つからず、結局先輩ママに紹介してもらって始めた仕事がこれだったそうだ。

 ユウ君ママはインターネット経由で仕事をもらって、メールで納品しているけれど、最初のころは会社が主催する無料の講習会に参加すると、簡単でそれほど急ぎでない仕事を渡され、次の講習会のときに手渡しで納品して、次の仕事をもらって帰る。そのうち赤で校正された原稿が帰ってくるから、それでデータを修正しながらまずかった点、どうやって文字にすべきか等々のノウハウを、自分で蓄積していくことでスキルアップを図るらしい。

 パソコンもプリンタも普通に持っているので、とりあえず初期投資をしなくても済みそうというのは魅力だった。それにユウ君ママによると、ちゃんと仕事をして実績を挙げれば、パソコンを初めとした器材一式の貸与が受けられるし、プリンタのインク代も負担してもらえるということだった。ますます美味しい仕事に思えた。


 久しぶりにジーンズ以外のパンツを履いて、化粧なんかも気合を入れて、履歴書を持って会社に行ったとき、あの木脇君を見て、「なんて可愛いの」と、いつ子の胸はときめいた。自分の息子もそのうちこんなふうに、爽やか系好青年然として会社員してくれたら言うことなし。まさに理想の息子像。

 ひきこもり、フリーター、ワーキング・プア、パラサイト・シングル。ワイドショーの俎板まないたに乗る若者像は、果てし無く暗い。世の中の先行きには絶望しか転がってないようにすら思えて、後十年後のせがれどもが、わけもなく不安だったりするけれど、ほら、ちゃんとイキのいいサラリーマンの青年っちゅうのは、絶滅してなかったのね、という安心感。


 そしてタカをくくって始めた仕事だったが、これがあらゆる意味で非常に奥が深い世界だった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ