1. 猫撫で声には要注意
コーヒーは贅沢だとは思うけれど、わざわざ取り寄せている。焙煎した日に出荷されてくるのがウリで、届いたその日は家中にいい香りが立ち込めるぐらいだ。宅配便の兄ちゃんでさえ「いい匂いですよね、荷台が本当に香るんですよ」と世間話を仕掛けてくるぐらいの一品だ。
もっとも、モノがモノゆえに、金額が張るといってもたかが知れている。酒もタバコもやらない彼女の唯一の嗜好品は、幸いそんな贅沢をしたところで家計に響くようなものでない。飲める量も飲みたい量も、アルコールなんかと比べたら、可愛いものだ。
子供が食い散らかした駄菓子の残骸をお茶請けにしつつ、香貫いつ子は通販の雑誌をぱらりとめくった。
ネットの通販サイトは油断ならない。ちょっと気が緩むと、ついついカード決済でいいやとクリックをしてしまう。引き落とし時に後悔するのは二か月前の衝動買いでちょっと懲りている。仕事部屋にしている六畳間にででんと居すわっているのは、取っ手付きの支えみたいになってる棒に捕まりながら、脚を左右にキコキコ、一日一分三回を毎日すれば劇痩せ可能という美容器具だ。これで若さを取り戻すのよと意気込んでいたものの、到着した日に一度乗ってみて、そのしんどさに悲鳴を上げた。
使用しても七日以内なら当然返品可能なんだけど、電話かけたり梱包し直したりするのは面倒だし、夏近くになって服の露出度が高まれば、幾ら自分でもやるだろうと、返品手続を取らなかった。だから、真新しいそいつは、いつ子の横で「いつでもお乗り」とばかりに、つんとすましている。
――やっぱり返品してやりゃよかった。
半月も経ってからそう思ったけれど、いまさら電話したところで返品は丁重にお断りされるだろう。掃除用具入れの奥には、ダンベル一セットと、ひっぱるだけでみるみる筋肉がついて基礎代謝が上がるとかいうゴムチューブが押し込まれている。困ったもんだ。
子供の塾に、お稽古代に、食費にと、銀行に振り込まれた夫の給与は、只事でない勢いで飛び去っていく。けれどバブル時代にOLをして、浮わっ付いてしまった金銭感覚は出費に対する引き締め的対応が容易に取れない。連れ合いの年収は悪くはないけれど、必要な支出の差額を見たときには愕然とする。長男は春から高校生。次男坊も入れ違いで中学生になる。食費も教育費も、当分の間、おそらく減ることはないだろう。貯蓄に少しでもまわさなければと思う。キコキコ劇痩せグッズに騙されている場合では本来ないのだ。けれど、こういう無駄遣いは、一向に消滅する気配がない。
今の若い子たちは、就職超氷河期とかで苦戦しているけど、本当に気の毒だと、いつ子は思う。いつ子がOLしていた頃は、にこにこ笑ってお茶を入れて電話を営業に取り次ぐだけで、さほど捨てたもんではない額の手取りがあった。自宅から通勤で母親の手弁当付きだったいつ子は、年に二、三回、仲がよい女友達と海外旅行に繰り出して、一着五、六万はするスーツをシーズン毎に新調できるぐらいの余裕があった。ユニクロで千円の安もののシャツが、週末セールで半額近くに安くなるのを待ち構えている、おばさんになった自分なんか、そのころは思い描きもしなかった。
現在のいつ子の悩みといえば、少年リーグでさえ活躍できない次男坊が、野球に命をかけるより勉学にエネルギーのひとつも向けるようになってほしいということと、頑張って背伸びしてワンランク上の高校に滑り込んだ長男が、塾のフォローなしに学校の授業について行けるのか、ということだったりする。
あとは主婦の当然の悩み、今晩、何を食卓に乗せるか、とか。
あいつを衝動買いしたときのことを思い出す。在宅でジミな仕事をしているせいで、眠気覚ましにお茶とお菓子は欠かせない。久しぶりに体重計に乗って、あんまりな数字に悲鳴を上げた後、それをあわや壁に向って叩きつけるヒステリーの発作に襲われそうになった。それをぐっと我慢して、気晴らしにパソコンを立ち上げた。
迷惑メールと紙一重のゴミメールの山を一括選択してごみ箱アイコンをクリックしてから、いつ子は途方に暮れた。
ちょっと前までいつ子は、多人数参加型のMMOというジャンルのネットゲームにはまっていた。タウン戦を制覇できるような大ギルドで中堅どこという立ち位置。最初はとても楽しかった。けれど、いつのまにか勃発した派閥内戦争で、ギルチャ(ギルドメンバーだけで行うチャットのこと)の雰囲気は最悪になっていた。昼間は基本的に主婦が多いから、夜のゴールデンタイムほど荒れていないけれど、オンラになってる人が、派閥内戦争をムキにやってる人間だったりすれば、自然挨拶だけしてそそくさと狩り(レベルあげのモンスター退治のこと)に出て、もくもくとソロ(パーティーを組まずにプレイすること)をするしかない。四十も黄昏どきを迎えて、何でゲームの中でまで人の顔色を窺わなきゃならないかと思うと腹が立つ。それと同時に、ただモンスターをクリックしているだけという行為の虚しさに突然気付いた。一発でMOBが蒸発するのは気持ちいいけれど、課金アイテムを買ってまでするようなことだったか?
熱が冷めれば、引退(MMOから足を洗うこと)していった人の気持ちが分かる。ゲームを始めたころに、すごい装備を持ってて、ゲームの中の世界を知り尽くしている人たちが、あっさり辞めていく理由がさっぱり分からなかったけれど、こういうことだったのだ。腹周りがどうしょうもなくだぶついた紛れもない中年。リアルのいつ子は誰から見ても間違いなく『おばさん』というジャンルの生き物だ。それがピチピチのナイスバディーのヒラ(PTにおいて回復役を請け負う)として日々戦いに向い、瀕死の仲間を救い、感謝され、何人ものイケメンで派手なヨロイを着た男キャラから、若い娘だったら逆にさめそうなほどに歯の浮くヨイショをされまくるのだから、「この快感、たまらないよね~」なんて思っていたけど、たとえ月額五百円の課金でも三か月分なら贅沢ランチができたではないか。ああ、本当にアホらしい。
一度そう思ってしまえば、いつもは習慣的にクリックする、あの世界へのアイコンをポイントする気になれなかった。ブラウザを立ち上げたときに、ついうっかり派手にぴかぴかしていた「ホンキでダイエットしたい貴女だけに」うんちゃらかんちゃらという宣伝が目に入ったのだ。ゲームなんて虚の世界にはまってる場合か、美容と健康がキーワードよねっとばかりに、クリック先のサイトで購入ボタンを押してカード番号を打ち込んでしまった。後悔は常に先に立たず。
いつ子が衝動買いまでには、ちょっとだけ距離がある通販雑誌をパラパラとめくっていた理由にはそんな経緯がある。ソファにでんと居すわる前に、別冊の『美と健康特集号』だけは、死んでも手を出さないぞ、とばかりに新聞ごみ入れに突っ込むのを忘れなかった。だいたい、これだけ派手に宣伝かましといて『あなただけに特別なお知らせ』っていうのが、そもそもいかがわしいのよねぇ……。
そのとき、愛用のピンクのデコ電が、大好きな嵐の着メロを奏でた。いい年のおばさんには寒すぎると息子たちに評判が悪い電話だけど、「えーっ、ママがピンクのフリフリドレスを着た方がいいの?」と冗談をかましたら、彼らにとってそれ以降、私の愛機はアンタッチャブル・アイテムと化したようだ。
「もしもし~、香貫でございます~」
電話にでると、声のトーンが半オクターブは軽く跳ね上がる。OLをしていたときの後遺症だ。ケイタイの画面に表示された発信人名がカイシャのタントーさんだったから、元必殺語尾上がりのカマトト(これも死語か?)ぶりにも気合が入る。
いつ子が取り立てて冴えたところの無い香貫と結婚したのは、バブルが弾けてリストラの嵐の真っ最中だった。あの頃は、企業もバブルの熱からさめきっていなかったから、不況へ一直線という世相だった割に、辞めていただくためには、自主退職なら退職金は倍額支給などという豪気な会社が殆どだった。
それはちょうど今は亡い父親がガンと発覚したころのこと。いつ子には兄が二人がいる。つまり、いつ子にはたった一人の娘として溺愛されてきた記憶があるのだ。薹が立っても娘は娘、生きてる間に花嫁姿のひとつも見せてあげないと、あの人は成仏できないだろうな真剣に思ったのだ。すわ、結婚相手捜しと、鵜の目鷹の目で身近なところを隈なく見回してみれば、目に付いたのが経理部に居た典型的モテナイ君の香貫だった。
若いときから彼は、人がよくて、明るくて、真面目一本だけど、遊び上手じゃなくて、バブル世相からは完全に浮いていた。合コンなんか出ても、人数合せという立場で、一人虚しく早帰りするような青年だった。
とにかく、さっさと結婚に持ち込めそうなこと。それから、他のスバラシイ女と比較される恐れがほぼ無いこと。ついでに経理は手に職系だから、万一リストラ対象になっても、潰しが利く。程よく遊んだいつ子には、遊び上手な男と世帯を持つことは論外だった。
いつ子なんかでも、堅実で実直そうな青年を選ぶんだと、父親は涙ぐみ、母親は賢いと褒め、兄たちは「まあ、尻に敷かれるの承知でおまえなんかと結婚するなんざ、ボランティアと変わらんな」と酷い言いようだったが、いつ子はとりあえず、六月の爽やかの梅雨空の中、ホテルに付属したチャペルで結婚式を挙げた。費用はすべて両親が出してくれた。
別にジューンブライドのために六月挙式にしたわけじゃない。六月に退職すれば買い上げ対象にならない有休休暇を全部消化して退職日にすれば、賞与付きで退職できたからだ。もらえるものはもらって当然、という我が儘が利いた、いい時代だった。
年齢的に引退も秒読み段階にきてはいたが、当時の営業二課のアイドルという立場。バレンタインの義理チョコに二個で六百円程度のゴディバをばらまけば、ホワイトデーには、持ちきれないほどのワインやぬいぐるみ、花束なんかに化けた。だからこそ、女耐性に乏しかった香貫青年は、派手な営業マンたちでも落せなかった「いつ子さん」に、実質として「落された」ことになる。いつ子で男になった香貫は、ババア化の激しいいつ子に、今でも優しい。内心では不満を抱えているのかもしれないけれど、表面は穏やかなままに年を重ね、家事にも子育てにも普通に手をだしてくれる香貫は、自分の選択はまずまずだったという確信をいつ子に与えてくれる。
「香貫さん、お仕事の話なんですけど、今、お時間大丈夫ですか?」
電話の主は担当窓口の木脇君だった。彼の声は、いつ聞いても爽やかでいい声よね、と、いつ子は一人うっとりする。
恐らく、会社の方は、こういう主婦心理を操るために、正社員の中でも見栄えとおばさん受けの良さを基準に、厳しい選考を重ねて白羽の矢を立てるにちがいないと踏んでいる。本当に、どの男の子もおばさんゴコロをくすぐるのだ。よく電話をくれる方のもう一人の谷口君は、大柄なんだけど、情けない声が力を貸してあげたい気分をそそるような、困ったクマさんモード全開の子で、あの子に「そこを何とかお願いします」とやられると、つい、よっしおばさんにまかせとき、という気分になってしまう。あれはイイオトコ系の木脇君のような直球勝負ストレートど真ん中でない分、おばさん殺しの芸が上よねぇ、などと下らないことを品評してしまうのも、主婦の条件反射みたいなものかもしれない。
こちらの木脇君は、小柄だけどぴりりっという印象の、ついでにイケメンの好青年で、速記会社何かに置いておくより、ジャニーズで踊らせたいというタイプだ。彼がにこっと微笑んで、「香貫さんはちゃんと仕事してくれるから、本当に頼りにしてるんです」と殺し文句を言えば、「まったく、木脇君てば、おだて上手なんだから」と、答えつつ、今週は主婦ランチの予定二件とPTAのベルマークちょきちょき作業日が入ってるから、頑張って二時間ぐらいしかしたくないと思っていたはずが、三時間分もうっかり引き受けてたりするのだ。恐ろしや。
「……言いにくいんですけど、音、悪いんですよ。今回の。大変だと思うんですけど二時間、今週の金曜日までにお願いできますか?」
「えーっ、音悪いんですか?」
いやだな、といつ子は思う。音が悪いと、体力的にしんどいし、効率もがくんと悪くなる。けれど二時間というのがミソだ。普通であれば一週間も余裕納期をもらえれば、苦戦するような分量ではない。三時間なら速攻パスだけど、二時間ならまあ何とかなるかもしれない。そんなふうに算段しているいつ子の耳に、木脇青年の爽やかヴォイスがねっとりと絡みついた。
「聞き取れるところだけでいいですから。代入ばっかりでも、先方さんもそんなに文句言えないですよ。それに、一般ですから、聞こえた通りで構わないですし。ちょっと三月だから議会がいっぱいいっぱいで、本当に一般大変なんですよ。香貫さん、お忙しいでしょうけど、何とかお願いできませんかぁ」
代入というのは、聞き取れなかった言葉を音の数だけ「・」や「□」、適当な空白の挿入などでごまかすことだ。ジャニーズ木脇の必殺、語尾の「ぁ」が理性を押し流した。
「はい、何とかやってみます」
「あっ、ありがとうございます」
さっきまでお強請りモードだった声が、からっとさっぱり爽やかモードに戻る。
「すぐにデータ作ってホムペにアップしときますから、よろしくお願いします」
「木脇さん、次のときは、音いいのまわしてくださいよ」
心の中では「木脇君」なのだけれど、あっちは仕事をくれる会社の正社員。当然、君などと呼び捨てることはせず、常識人の自覚があるいつ子は、電話では無難に「さん」づけで呼ぶ。
「はい、できるだけそうします」
このできるだけ、ということろがミソだ。本当にコイツラは言質をとられるようなヘマを打たないトークを心得ている。音が悪いと先回りして言われるようなものは、いつも引き受けてから後悔するのだけれど、まあ、木脇君には勝てないし、そういつ子は思った。どっちにしろ、仕事をしなければ、お金は稼げない。あの美容マシン代の出費を穴埋めするためにも、一発気張るか、そう思っていつ子は自分に気合を入れた。