桃原に花の咲く頃 (八)
明璇は、しばらく人物観察のようなことをしていたものの、徐云と何捷はすっかり堅くなり、何か相手の出方を窺うふうである。洪大慶もそんなふたりを面白そうに見やるばかり。このままでは一向に話が進みそうにないと、自分から口を開くことにした。
「わたくしは王淑こうそ…――」
「――お嬢さん」
途端に、南宮唐に遮られた。「……この店ではそういう血筋やら家柄やらで自分を語ることは御法度だ。来歴は自分のことだけ語ればよい」
そう言われてしまい、明璇はいったん言葉を飲み込んだ。隣の徐云を見ると、「ごめん、最初に言っておけばよかったね」という表情を向けている。
(――そう。このお店のことは知っていたのね……。それならそれで、そんなめんどくさい決まりごとがあるってしっかり伝えなさいよ、ほんとにとろいんだから)
思わず喉元まで言葉が上がってきたが、それは何とか噯に出さず、明璇は自己紹介を続けようと正面に向き直ってみせる、のだが…――それから言葉が出てこない。出自から切り離された自分、それはどのように語られるものなのか、なんとも想像が付かなかった。
「では俺から始めよう」
そんな彼女を見かねたか、正面を向き背筋を改めた洪大慶が口を開いた。
「俺は洪大慶、昌人だ。些か〝兵法〟を嗜む。我の大願は一つ、我が兵馬の術で畿内の軍制を改革すること」
「兵馬の術?」
興味を覚えた何捷が訊くと、大慶は立ち上がって自らの衣服を示した。
「これだ」
「……胡服、ですか?」
思案顔となった何捷に代わり徐云がそう合いの手を入れるように訊くと、大慶は大きく頷いた。
「胡服は騎射に向いている。騎射に長けた騎兵は戦場を縦横に駆け、兵と兵車の動きを掣肘できる。そこに眼目を置いた軍を俺は創る」
「しかし、騎射で兵車の突撃を止められますか?」
今度は何捷が素直な疑問を口にした。それは兵法に然して明るくない徐云にしても疑問に感じたものだったから、同じように興味の視線を向ける。
それに応じようとする大慶は、控え目とはいえない咳払いを聴いて続く言葉を引っ込めた。
明璇だった。
卓を挟んだ向かいの席で、ようやく男どもの言葉が止んだのを見て取り、明璇は澄ました表情を繕って口上を始める。
「わたくしのことは〝小明〟とお呼びください。笄礼まえの身ですが、諱での名乗りは控えさせていただきます」
そのはっきりとした物言いに大慶は苦笑気味となって南宮唐を向く。南宮唐も目を見張って明璇を見ていた。
明璇は先ほどの大慶の口上を一つ一つ思い起こすような表情で続ける。
「……桃原に育ちました。他の邑は知りません。
学問は〝好き〟です。女の身であることが残念でなりません。〝女は内にあるもの〟という考え方にことさら異を唱えるつもりはありませんが、内にあっても学ぶことに障りはないと思います。
それから……、
わたくしの望みは、父の不遇を――」
「――〝小明〟!」
その言を、徐云の控えめながら鋭い声が遮った。
悪くない周囲の反応に気をよくして、どうやら要らぬことまで口にするところだった。
明璇は言葉を飲み込み、ほんの少し考えてから言い改めた。
「望みは……家族全員が家に戻ってくることです」
そう言って傍らの徐云に目線を遣ったときの明璇と、それを聞て目を伏せる徐云……ふたりの表情がよく似たものだったことに、少なくとも年長のふたりは気付いていたろう。
卓の上に言葉が切れたそのとき、
「おまっとさぁん」
料理を運んできた小娘の黄色い声がした。ひとりひとりの前に、羹の器が並べられていく。
「まぁ、難しいこととおまえさんの口上は後回しにして、先ずは腹を満たせ。ここの羹は旨いぞ」
そういって南宮唐は自分の器の蓋を開けてみせた。湯気とともに旨そうな匂いが広がった。