晩秋に、冷たい靄が澱む頃 (一)
頃王の十六年の夏は、例年にも増して暑く、そして長かった。
西海・南海の諸邑は早くから旱魃に見舞われ、秋風が立ち始める前から、王畿には各地の大夫から飢饉の報が続々ともたらされた。
昨年から続く旱だけに、諸邑の民は飢えきっている。立ち枯れた穀類を揉みしだき、かろうじて数粒の実りを得られればましという凶作に、頃王は、大司徒(地官の長。土地と戸籍を司る)の上奏を容れ、租の全免を布告した。
しかし秋の深まりとともに、飢饉は沈静化するどころか、畿内、沿海、北辺へと拡大の一途を辿る。
海内の百姓を疲弊させたのは、干天ばかりではなかった。それまで乾ききっていた大地を突然豪雨が襲い、田畑はおろか集落までが押し流されるという異変が各地で頻発している。多くの民が土地を捨てて逃亡し、畿内をはじめ諸国の都邑の大路小路には、浮浪民が溢れることとなった。
日に日に増えるばかりの民を、もはや役人は追うこともしなくなっている。どうせ都に出てきたところで、彼らに食う当てがあるはずもない。数日を経ず、みな飢えて死ぬと、わかっているからである。
「風が冷たくなりましたね――」
境丘の門道を馬を進める花子瀚は、暮れなずむ夕空に目を投げて呟いた。
「秋の陽は、まことに短うございますな。なにやら急かされているようで、気がもめてなりませぬ」
轡を並べた隣から、同じように西の空を見上げた馬上の鄭承が、目を細めて肯いた。
桃原の坐賈のまとめである鄭承と、賈師(市場の監督査察官)の役にある子瀚は、仕事を通して顔を見合わすことも多く、こうしてふたりして市中を廻ることもあった。
そのようなとき、手下の者を放ってその報告を受ければ事足りることでも、子瀚は自ら見て回るのが常で、律義者と云われる鄭承の目から見ても、この花氏の御曹司は見掛けによらず生真面目な男である。
どこからの浮浪者だろう。向かいの塀の影にうずくまっていた身なりの貧しい男女が、ふたりにぼんやりとした視線を投げ、すぐに無表情に力なくうなだれた。
「…――そういえば花公子。何子を憶えておいででしょう」
子瀚は、その声に意識を戻され、鄭承を向いた。
「先日、洛邑に赴いたおり、公車司馬令の邸から、加冠したばかりだろう、何子によく似た若い官吏が出てくるのを見たのです」
鄭承は王宮の在る洛邑にも店を出している。季節ごとに数度、二つの都を往復しており、洛邑で見聞きしたことを、こうして伝えてくれていた。
子瀚の形の良い眉根が、ほう? と、寄った。
この春に逢の亜卿となり公車司馬令に任じられた流次倩という男の話は聞いていた。
太傅が見出したという沿海所縁の大夫の末裔を主上は甚く気に入り、謁見したその日のうちに宮中に侍ることとなったという。その話が〝千里の馬の話〟とともに広まるや、洛邑の太傅の許には連日、沿海や北辺、西海の海沿い、果ては江東の地から、我こそはという処子が、引っきり無しに押し掛けているのだとか。
だが、その中に何捷が居たとして、鄭承のこの〝もの言い〟は解せない。
鄭承は〝加冠したばかりだろう若い官吏〟と云った。何捷は、冠礼まであと数年を待つ年齢だったはずだが……。
「話をしたのですか」
「いえ。門を出てきたところを、ちらと見ただけのことでしたから。ですが、もしあれが何子なら、流亜卿との関わりは如何にも危うい――」
子瀚は、そう応じた鄭承の表情から、どうやら本当に何捷であるか否かよりも、流次倩という人物について語りたいのだろうと、そう判じて流について問うことで先を促した。
「流亜卿とは、どういう方なのです。得体の知れぬ者のようですが……」
「悪い噂を耳にすることもありますが、他方、よい話も聞こえてきます――」
鄭承の語るところ、流次倩は公車司馬令の役得(※)とばかりに、王宮に取り入ろうという者から少なくない賄賂をせしめているという。
(※各地からの上奏文、四方からの献上品、あるいは王への拝謁者は、いずれも司馬門に集まることになっており、公車令はその集まった文書・物品・人物を管理する)
ただし、のべつ幕なしに、というわけではないところが、この男の不思議なところだ。
法外な〝袖の下〟を要求されるのは私腹を肥やす悪辣な俗物の類ばかりで、そうでないものから取り立てるということはせず、むしろ清貧の者が司馬門に参ずれば、その威儀を整えてやるために、自ら身銭を切るようなこともする。
また着服した財も懐に入れるばかりでなく、市中の貧しい者どもに振舞うようなこともしていた。
それからさらには、何やら風体のよろしくない者を手懐けて、身辺に置いているともいう。どうも〝一筋縄では行かない人物〟のようだ。
だが着実に、天子の側近としての信任を得てもいるようだ…――。
いまとなればわかる。それは〝嵐の前の静けさ〟だったのだ……




