白河に霧の揺蕩う頃 (九)
「――…やはりぼくが付い行かねばなりますまいか」
張暉のその言に 徐云は何とも言えぬ表情となって返すばかりとなった。と、そのとき教場の戸が開いて、鮮やかに碧さの映える深衣を纏う、端正な容姿の伊達男が、乾いた寒風を引き込んで入ってきた。
「おお、よかった。まだ下がってはおらなんだか。いやはや、久しぶりに鄭承を訪ねてみれば、雅雯が云うに、おぬしの洛邑行きが決まったと申すではないか。南宮唐も気が利かぬ。そうであれば、詩楽の席の一つも設けたものを」
大仰な仕草で両手を広げたのは、王孫航だ。
「詩楽の席?」 となにやら嬉し気に表情を輝かせた張暉少年い対し、
「いえ……」 徐云は畏まった礼容で応じた。「お気遣いにはおよびません」
王孫航は、とうぜん、張暉にはお構いなしに、徐云にそっと寄って言った。
「……今年は禍もあった。この洛陽行きはおぬしにとっては運気を変えてくれよう。されど宮城のある王都は伏魔殿。ゆめゆめ怠ってはならぬぞよ」
「は、はあ……」
「もし万が一、女官や女嬬と悶着を起こしたなら、鄭氏の店を通じて、すぐにそれがしを頼るがよい。どんな障りがあろうと、すぐにでも駆けつけようぞ。あ、念のため申しておくが、上役相役との不仲のようなことには、それがしは関わらぬ。すべて女性が相手の場合に限っての話……、ようく覚えておくように」
「は、はい……」
つまりはそれが言いたかったのかと、徐云は軽い眩暈を覚えた。あきれたように、張暉少年がふたりに背を向ける。
「わ、わかりました。ありがとうございます」
徐云は、溜息が漏れるよりまえに一礼して、このしようもない話を終えようとした。
だが王孫航はさらに半歩ばかり身を進めてくると、きらりと切れ長の目を光らせて顔を寄せ、張暉に聞こえぬよう声音を低めた。
「――それと、これは忠告じゃ。そなた、蕭帯(尊寶)とは親しかったな。その縁を切れとは申さぬ。が、あやつはいま難しい立場にある」
どういうことでしょうか、と上げられた目線には応えず、王孫航は言を進める。
「それといま一つ…――廖沈には心許してはならぬ」
え、と驚いて今度こそ訊き返しそうになった徐云を、王孫航はしっと息だけの声でたしなめた。
まさか王孫航の口から廖沈の名が出てこようとは。徐云は表情を強張らせる。
怪訝を通り越して警戒のいろの滲むようになった徐云に、王孫航は言った。
「あれは奸物じゃ。もしそれがしが姚緩(昌公)なれば、あやつを篭絡することを考えるであろう。この時節、用心するにしすぎることはない。王都に一歩入ったなら、周りは敵ばかりと心得よ」
早口で一気にささやき、王孫航は冷たい光を湛えた目を小さくうなずかせた。
そこには、いつもの女たらしと評判の彼とは全く違う男がいた。
(――王孫航……)
徐云は背筋にふっと寒気を覚えた
桓王孫家を嬰児の頃に滅ぼされ、敵である王淑公室の中で育ってきた彼。境丘で詩楽に興じ、遊蕩三昧の日々を送ってきた男。
遊びにはいつか飽きがくる。普通の人物なら、十数年にわたって放埓を続けるのは不可能だろう。それを平然と続ける彼の本性は見た目通りではないと、徐云はこのときようやく気づいた。
王孫可の変をかろうじて生き残った叔父たちはみな、その後、様々な口実をつけられ、処刑された。存命の桓王孫家の男子は、今や航ただ一人だ。少しでも権力に興味を示せば、すぐさまありもしない罪を咎められて殺される。それを避けるため、彼は市中で暗愚を装い、ひたすら世情をうかがって身を潜めているに違いない。
その沈黙を破ってまで、自分に忠告を与えた理由とは……。
徐云は、廖沈を直接知らない。いったいどのような確信をもって、王孫航は彼を奸物と云うのか……いや、そもそも、境丘学派の長・高偉瀚が、洛邑での南宮唐と蕭尊寶の動きを廖沈に監視させるということを知っての忠告なのだろうか。
それらの疑問を尋ねようと口を開くよりも早く、王孫航は先ほどまでの表情をつるりとかき消し、しまりのないいつもの薄ら笑いを片頬に浮かべた。
「さあて、これで別れも済んだ。では、それがしは、恋しい女の元に戻るとしようか」
声音を戻した王孫航のその声に、何も知らぬ態の張暉が振り返る。その張暉に聞かせるように王孫航は続ける。
「……ところで除子、洛邑に入らば、なにを措いても、先ずは簡孟姚に丁寧な挨拶を忘れるでないぞ。あのような女性は、なにごともはじめが肝要。わだかまりを残すと後を引くゆえな」
にたりと笑う横顔に、先ほどまでの冷徹さは欠片も残っていない。言を真に受け、おっしゃる通り、としたり顔になった張暉を適当にあしらいつつ、ちらりと投げかけられた王孫航の視線に、徐云は硬く唇を引き結ぶとわずかにあごを引いた。
――王孫航の忠告に対する、返礼のつもりで。




