桃原に花の咲く頃 (五)
「――小僧……天下の士たるわれへの無礼、詫びるのならばいまぞ……」
若者の言に色を成した処士が、その手の杖を構えつつ言った。
相手は剣こそ手にしてはいるものの体は小さく腕も痩せている。先程は不意をつかれたゆえ不覚をとったが、こうして正面から見えれば後れはとるまい……。
そのようなことを考えた処士が、不用意に構えた杖を振り上げようとしたとき、横合いから、ふたりの間に割って入る者があった。
「暫時!」
そのよく通る若い声に衆目が集まった。
「……暫時! あーいや待たれよ」
声の主は長身で、まずまず偉丈夫といえたが、それよりも皆の目を惹いたのは、その身に纏った胡服だったかも知れない。北辺の国々でならいざ知らず、ここ中原で異国の装いを目にするのは珍しい。では胡人かと言えば、先の言葉は流暢な中原の言葉であったし、豊かな蓬髪の頭上には冠があった。定かなことはどうとも言えない。
さて、その通る声に話の腰を折られた処士は、この新たな登場人物の長身に明らかに気圧され、腰が引けた様子となった。胡服の壮士と処士の背丈の差は、頭ふたつ分くらいはある。
「――この顛末、先ほどより聞かせてもらっていたが、これはどうであろう。
〝大丈夫たる天下の士〟が、このような冠礼・笄礼まえの若輩を相手に〝首を取る・取らぬ〟とは、ここ境丘の門道で、いかにも大げさではあるまいか……」
章弦君の学徒の街で騒ぎを起こして衆目を集めようといのは、如何にもあざとい、と暗に壮士は言っている。その慇懃なもの言いは、あきらかにわざわざ衆目に聞かそうという声量で、それは処士と、周囲に屯す移り気な学士崩れどもに〝圧〟となって伝わった。それで潮目が変わった。
胡服の壮士は腰を折ると、処士の襟首を掴むように、野趣の中に愛嬌のある顔を寄せ気さくなもの言いで続けた。
「ここは境丘に学ぶ俺の顔に免じて、矛を収めてくれまいか……」
壮士が〝なっ〟と首肯させるように処士の肩を叩く。たいした膂力だ。よろめいた処士は、弾かれたように肯いて返した。
そしてその後は、おどおどとした挙動で手の中の杖を持ち主へと返すと、表情を取り繕うことも覚束ぬ様子となって、足早に辻から去って行った。
その様子を見届けた若輩ふたりのうちの年少の方は、去り行く処士の背中を、けっ、と小さく嗤い、ようやく剣の鞘を下ろした。それからふとそれを見ていたいまひとり――徐云――の目に気付き、ぷいと視線を外すとふたたび表情を消す。
そのまま踵を返し黙って立ち去ろうという若者の機先を制するように、胡服の壮士が声を掛けた。
「――さて少年。杖を払ったまではたしかにおぬしに理があったが、そのまま鞘尾を向けたのではやはり非礼の誹りは免れんぞ」
諭す中にも温かみを感じさせる声だった。
少年と呼ばれた若者は踵を返す体を止め、わずかに恥じ入ったように目線を下げた。
だが向き直って正面を向いた口から出た言葉は、
「何 捷だ……」 だった。
それがおそらく〝名乗り〟であろうと思い至ったもののやはり怪訝となった壮士に、若者はぼそりと続けた。「――少年じゃない」
壮士の顔は何とも言えないふうな笑みとなった。何度か肯くと、腰に手を当てあごを引いた。
「洪 大慶だ」
大慶は字だろう。さすがに冠礼を終えたものが往来の最中で諱を名乗ったりはしない。
だが冠礼まえの少年の〝名乗り〟に対し名乗りを返したのだ。ということは、それはすなわち男子として認めた、ということだった。
少年――何捷の目に、わずかに驚きの色が浮かんだ。
何捷は戸惑う視線の遣り場に困ることとなった。
名乗りはしたが、まさか名乗り返されるとは思っていなかったのだ。……年少というだけでどこにでもいる〝少年〟と片付けられるのを良しとできず、反駁してみせただけである。
が、目の前の壮士は、自分の目を向いて、自らの名を返してきた。――彼は境丘の学士だと言ったか? とすれば腰に剣を帯びているところを見るに〝兵家〟だろうか……。
ともかく、こんなことは初めてだった。