条坊の辻に秋風の吹く頃 (六)
徐云と何捷が、師の高偉瀚から翠雅雯のふたりの侍女の手習いを見るよう言付かったのは、輿入れの日から数えて翌々日の次の夜のことだった。
なぜ自分たちが女学問の手伝いを、と戸惑うふたりに、師はただ「まあ、何ごとも経験だから」と送り出したのだった。後から冷静になってみれば、門下の学徒の中でもっとも若輩だったのが徐云と何捷であった、というだけのことだったのだろう。
ともかく徐云と何捷は、翌日以降、三日に一度、正午前に鄭邸に通うこととなった。
さて、何捷はこの役目に見るからに不満たらたらといった態であったが、徐云の方は、小麗に会えることに心踊っていた。
夜が明けて鄭氏の邸を訪ね、教場に供された廂房に入ったときに、はじめてふたりは生徒がふたりの侍女だけではないことを知った。なるほど雅雯は、これをよい機会とばかり、鄭氏の邸と店で使う者すべてに手習い(読書き)と簡単な算木の使い方を教えることにしたらしかった。
まあそれはともかく、教場で互いに紹介し合い挨拶を済ませたときに、雅雯の侍女のうちのひとりが〝小麗〟であったことを確かめることができた。もっとも、いまは翠 麗雯というのだという。そのように、いまひとりの侍女・翠 鈺雯ともども紹介された。
徐云は、自分のことを憶えていないだろうか、などと思いながら時折り小麗――いまは麗雯の顔を盗み見たりしたのだったが、結局、麗雯がその期待に応えてくれることはなく、この日の教場では、師範に対する礼以上の親密さが麗雯の顔に浮かぶことはなかった。
そうして教場での初日をどうにか終えた徐云と何捷は、いまは鄭邸の女主となった雅雯から、労いと、生徒のことを〝くれぐれもよしなに〟との丁寧な言葉をいただき廂房を辞した。
屏門(内庭と外庭を仕切る門)を出て影壁(外部からの目隠しの壁)の前まで来たとき、あ、と徐云は足を止めた。
そこに麗雯がひとりで立っていた。
「あら、やっと来た。あたしのこと、忘れたんじゃないでしょうね、……徐云」
教場での澄まし顔と違って、衒いのない顔が、待ちくたびれちゃった、というふうに首を傾げてきた。
「……ひょっとして、待っていたの?」
麗雯の口から出た自分の名に、はっ、となった徐云が、怖ず怖ずという態になって訊くと、麗雯は肯きながら応じた。
「稽古中は話せないでしょ。雅大姐の体面はつぶせないわ」
それで麗雯が、案外に雅雯に懐いていることがわかる。考えてみれば、名の中に同じ〝雯〟の文字を分け合っているのだから、その結びつきは強いのだった。
それはおき、いま徐云は小麗が自分のことと名前を憶えてくれていたことに、なにか飛び立つような喜びを感じている。
だが、さしあたり何を話せばよいかと、徐云は、青翠院でみたものとは違う落ち着いた色調の襦裙を纏った麗雯を凝視するばかりである。
すると、その徐云の傍らから、
「いまはいいのか?」
と何捷が、何の感慨もない声音で質した。麗雯には〝油を売っていてよいのか〟と、徐云には〝用がなければ早く行くぞ〟という、愛想のない対応である。
麗雯は、そんな何捷は半ば無視するように視線を向けず、まっすぐに徐云の目を見て言った。
「時間はあるの。…――もう妓女じゃないわ」
その目許と言葉に乗った艶に、徐云はやはりどぎまぎとしてしまう。麗雯はそれを見てふたりを表門の方へと促した。
「少し外を歩きましょ。途中まで一緒に」
鄭邸の表門を出て条の大路をいく道すがら、三人は並んで歩き、徐云は麗雯の口からこの一年余りのことを聞いた。
去年、ちょうど徐云らと青翠院で出会ったころに、小麗は翠雅雯の目に留まり、香を焚いて(※)〝香火姉妹〟になったという。雅雯の輿入れの際、侍女としていっしょに鄭邸に入った鈺雯は、そのとき一緒に契りを交わした妹だそうだ。〝麗雯〟〝鈺雯〟の名は、姉妹になったときに自分たちで付けた。
(※ 妓女同士で香を焚き、姉妹になることを誓い合う習慣があった)
そういえばね……と、
雅雯から「あなたたちふたりは、妓楼で生きていくのには向いてないわ」と言われたことをいま不思議がる麗雯に、彼女はともかく、鈺雯という妹の方はそうだろうと、徐云も何捷も納得している。鈺雯はとても線の細い、何ごとにもおどおどとしている、そういう娘だった。
麗雯については、あの春の境丘の辻で処士の不興を買ったように、あれこれと騒ぎの渦中にありそうだ、という意味で〝向いていない〟のだろうと、ふたりそれぞれに思ったものの、何捷でさえ、それを口に出すのは憚ったのだった。




