境丘に雨の下しる頃 (十)
洪大慶は、見るからに痩せた銭入れの中身を検めると、ほんの一瞬、思案顔となり、それから情けない表情になって店の小娘の方を向いた。どう切り出そうかという顔の口が開く前に、いつのまにか隣に立っていた蕭尊寶が銭入れに手を伸ばし、それを小娘の方へと放った。
「おなじものをもう一抱え、追加だ。それと……」
おい! という表情の大慶に構わず、尊寶は自分の銭入れをも無造作に放って続ける。
「…――なにか肉か魚の乾物でも付けてやってくれ」
小娘は、はいな! とくるり踵を返し、店の奥へと戻っていった。奥で店の女主が小さく頷いたのが見えた。
尊寶の横顔へと視線を戻した大慶は、結局、微苦笑を浮かべて何捷と徐云に頷いてみせた。
何捷はばつの悪そうな表情を改めると、徐云共々いま一度深々と揖をして、小娘が持ってきた麻袋を両腕に抱え、菜香房を辞したのだった。
「さて…――」
徐云と何捷が店を辞し、議論に飽きた客らも皆それぞれの卓で酒なり餉なりに戻ると、大慶はふたたび酒を呷り始めた尊寶に訊いた。
「……それで、洛邑の様子はどうなのだ」
ここから先の話は、まだ境丘に学んで日の浅い徐云や何捷には聞かせたくない類の話だった。だからふたりが店を辞すのを待っていたのだ。
「悪いな……。鷲申君と王淑公はいよいよ孤立を深めている」
「…………」
大慶は自分の杯に酒を装うと溜息とともに飲み干した。
尊寶はこの十日ばかり桃原を離れ、逢の王宮が置かれた首都・洛邑に赴いていた。境丘学派の長老たる高偉瀚の命で王宮の動静を窺うためである。
いま逢の王宮は揺れていた。
表向きは〝変法〟の是非を巡る政争である。
〝変法〟とは、六百年にわたって続く〝この国のさまざまな慣習による統治の機構〟の見直しを図ることをいう。
すでに逢は国威の減退著しく、ただ王の権威のみが残されるという態になって久しいが、それでも畿内――とりわけ姚姓をはじめとする五富族――の諸侯は、その権威をこそ利用して政治・外交の主導権を握る。王の祭儀は王にしか許されない、という理が重要視されたからである。
なればこそ王淑をはじめとする畿内諸侯は、王権の維持に努めてきた。
鷲申君が集め章弦君が引き継いだ境丘の学匠も、元々はこうした王の権威を補完する役割を負っていたと言える。ただし鷲申君は、徒に懐古主義を叫ぶ者を集めたわけではない。周到に権威から権能を切り離し、円滑な天下国家の運営に資する考え方をまとめさせた。
鷲申君が非凡であったのは、その際、反証・傍証とそれらを説明する考えを殊更に排除しなかったことである。結果、境丘は百家の争鳴する地となった。そういうことは中々できることではない。鷲申君のそんな鷹揚さが境丘に人士を集めたと、当の学士のひとりである大慶や尊寶は誇らしく思っている。
とまれ、鷲申君は境丘で学んだ学匠らを桃原はもとより洛邑の王宮の内外で自由に論争させ、政治を実行する上での王権の役割とその在り様とを説明させた。
そして、それこそが境丘学派の存在意義なのだった。
権威による秩序を重んじれば法を変える必要はなく、国家の在り様を解して正しい権能に導けばよい。それらを主導するのはあくまで人であるのだから、為政にある者の人品を研くことが政治を正すということである。そういう考えである。
だが、このような王淑主導の〝国法解釈の整理〟に表立って異議を唱える者が現れ、洛邑の王宮、ひいては畿内諸国に波紋が広がるようになる。
蔡 勝、字を才俊といった。
江東の『陶』に攻められ、すでに亡国となって三代を経ている『蔡』という小邑の君の末裔であるこの男は、洛邑の王宮に現れるや、鷲申君の主宰する天下国家の在り様を批判し〝変法〟を主張し始めた。
曰く、太師(※鷲申君は逢の三公の筆頭・太師の職にあった)の云う〝知〟や〝賢〟は誰でも取りうるものではなく、また知りうるものでもない。よってそのような徳性というあやふやなもので権能が評価されるべきではない。
政治の基準は万人に明らかであるべきで、それは〝法〟という形で定められていなければならない。また法の運用・適用に関して、そこに人の恣意の介在を排するには、先ずもって法が明文化されていなければならない。
王の下に法が整備され明文化がなされていれば、それに基づいて王の意思は法に照らされ、ただ実行されることになる。百家が争鳴せずとも国家に権能は恙なく発揮されるのだ。
――…一部の隙もない精到な論理であると、尊寶なども思う……。




