境丘に雨の下しる頃 (八)
雅雯の部屋を辞し、ふたりが内院の中庭を二の門まで戻ったときだった。
徐云は、いきなり腕を掴まれた。
――⁉
青翠院に知己はいないはずだったからそれは不意打ちとなり、狼狽した徐云は、やや大仰に腕を引いて顔を巡らせることとなった。
少し先を行っていた何捷が、何ごとかと足を止め、背中越しにこちらを見遣る。
視線の先に、はずした手を顔の高さに跳ね上げ、〝驚かそうと思ったら逆に驚いてしまったわ〟といった表情の若い女がいた。年齢の頃は徐云や何捷と同じくらいだろうか。
「…………」
切れ長な、釣り上がり気味の目と、目が合った。
着流した襦裙(短い上着と裳=スカート)は艶やかで、青翠院にいるということは、つまりは妓女なのだろう。
もちろん徐云に妓女の知己はない。
怪訝……というより警戒気味となった徐云に、彼女は、両の手を下ろし、長いまつげの目をわずかに細めて小首をかしげてみせた。垂らすに任せた豊かな巻き毛が揺れる。
それでも固まったままの徐云に、女は、ふん、と小さく吐息を漏らすと横を向いた。
するとその横顔に見覚えのあることに、ようやく徐云は気付いた。
「あ、たしか春に境丘の門道で…――」
春、桃の花の香る頃に、明璇と〝心得違いの士人〟とがひと悶着を起こした原因の娘だ。
「あら、ようやく思い出した」
徐云に向き直った女はうなずくと、ふっと笑ってみせた。
表情がやわらかくなる。するとふっくらとした唇に小さな皺が寄った。
見る者を惹きつけずにはおかない魅惑的な微笑に、徐云はふと喉の渇きを感じた。
そんな徐云の表情を見てとると、女はまた首をかしげた。どうすれば自分の魅力を十二分に相手に伝えられるか、計算しつくした仕草である。とはいえ、女というものに免疫のない徐云にそのようなことの判る道理もない。このような場合、どう応じたものか……。
「あの、きみは……」 とりあえず口を開いた徐云に、
「なまえ?」 娘は気早な質なのか、すぐに先回りして訊いてきた。
徐云がうなずくと、
「翠 小麗……」 と一歩を寄って、低い目線から見上げるふうに答えた。
〝翠〟は「青翠院」の仮母(妓楼の経営者)の姓であるから、つまり、彼女はやはり妓女ということになる。
細い眉の下の斜視気味の目が、悪戯っぽく、ある種の艶をたたえて、じっとこっちを見つめてくる。徐云はつい顔を赤らめた。
「ぁあ、の……」
喉に感じていた渇きが増した、と思ったとき、
「…――あなたは?」
翠小麗が成り行きのままに名を訊いてきた。
「……徐云」 何を考えるまでもなく、名を明かしていた。
古来〝この国〟では、濫りに本当の名――諱――を明かしたりはしない。
人の本名はその人の霊的な人格と強く結びつくものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられているからである。
だからであろうか……、
「徐云…――響きはいいわね……」
翠小麗の、天真爛漫さの中にもわずかに媚を含む声が耳もとに滑り込んでくると、徐云の心の中に、もっとこの娘と話をしたい、という衝動が泉のように湧いてきた。
そんな徐云の落ち着かなくなった心をひき戻してくれたのは、数歩先で待っていてくれている何捷だった。
「徐云子…――もう行くぞ」
いつもの愛想のない声でそう言われ、徐云は、ばつの悪くなった顔で何捷を見たが、そのときにはもう、何捷は踵を返し、外院へと歩みを再開している。だから徐云は何捷を追わねばならなくなって、ぎこちなく翠小麗を向いた。
翠小麗は〝行きなさいな〟と、表情を改めて徐云から身を離した。
「あの……それじゃ…――」
後ろ髪を引かれる感じの徐云に、翠小麗は〝いきなさい〟というふうに手を振って寄越した。
何捷を追ってその場を離れしなの徐云は、背中越しに、艶を含んだ声を聴いた。
「また遊びにいらしてね、徐云…――待ってるわ」




