境丘に雨の下しる頃 (四)
徐云に声をかけてきたのは花 浩であった。
高偉瀚の邸に通って教えを受ける〝通いの学徒〟の一人である。
冠礼をひかえる若干十九歳の彼は、遡れば「逢」建国の功臣・武成尤に行きつくという名族・嬰姓花氏の出身、歴とした卿・大夫の子弟である。そのせいだろうか、〝わかりやすい〟と言えば聞こえがいいが、どこか感覚が違う。
いきなり、
「君は簡公孫の従者と聞いたけれど、簡孟姚(〝姚姓の簡家の長女〟の意)はお元気かい」
と声をかけてきた花浩に、徐云はきょとんとした目をむけた。
向かいで算木を手に蹲っていた何捷の眉の角度が、わずかに変化したようだった。
眉目の整ったいかにも育ちのよい花浩の父が、王淑宮廷の有力者であることは承知している。意外だったのは、そこに簡孟姚……明璇の名があがったことだった。
「簡孟姚をご存じなのですか」
「わたしの叔父が簡公孫の妹君を正室に迎えているんだ。そのご縁から以前、詩篇をいくつか借り受けたことがあってね。対応していただいたことがある」
ということは、血の繋がりこそないものの花浩は明璇の従兄になるわけである。
明璇の父、簡公孫學文は詩才に優れた貴顕(身分が高く、名声が顕れている人)だったから、そういったやり取りもあったかもしれない。
快活な花浩の声に、簡家の用人の子である徐云への蔑みはない。込められているのは共通の知る辺をもつ親しみだけだったろう。
しかし思いがけないところでその身分の差を突き付けられた徐云は、なんだかおもしろくなかった。
「…………」
何捷にいたっては、それがはっきりと表情に出ていた。彼の目には権門勢家の血胤を恃む〝坊ちゃん〟と映ったろうし、事実そうだった。
そしてその表情は、花浩にのみ向けられたものではない。
先ほどから二、三人の身なりの良い学徒が、講堂の端から、ちらちらと視線を送ってくる。明らかに、花浩にへつらう腰ぎんちゃくと見て取れた。
花浩自身は気付いていないのかもしれない。しかし彼の周囲には自然と、ここ境丘で比較的出自のよい学徒が集まってくる。その中には血縁の官位を鼻にかけ、何捷や立青のような官職に無縁のものを蔑むものもいる。
いま、何かもの言いたげな眼差しを送ってきているふたりも、そんな取り巻きの中の一部だった。
簡氏の邸にいたことを伏し、一介の庶民というふれ込みでここにいる徐云に、なぜ花浩が話しかけたのか理解できない彼らにとって、理解できないなりにも、そのことは気に食わないことなのだろう。
これで徐云は、花浩の取り巻きに〝目をつけられた〟ということになったようだったが、「友人」の何捷も、やはりひとまとめにされたらしい。
だが生まれながらに他人の悪意に無縁の花浩には、自分の「友人」たちのそんな感情には意識がいかぬらしい。
そんな鈍感さが、徐云や何捷と、花浩のような貴人との違いだった。
以後、徐云は、なるべく簡氏との係わりは伏せておきたいこともあって、花浩と高偉瀚の邸で顔をあわせてもさり気なく距離をおこうと努めたのだった。
しかし人のよさに裏打ちされた無神経ほど困るものはない。すっかり徐云に心を許した花浩は、ことあるごとに声をかけてくようになり、
「おまえは貴人に好かれる質だな」
何捷からはそんな嫌味を言われることになった。
さてこうなると、取り巻きたちも徐云をいじめるわけにはいかなくなった。
とはいえ身分の差別に秩序をみる彼らから近づいてくることはない。徐云に一定の価値を見出した目を投げるようにはなったが、それは同輩としてではなく、下僕か飼い犬をみる目であった。
徐云とて年齢相応に勝気さをもつ少年である。ことあるごとにそんな目を向けられれば反発する気概もある。
境丘での学業が目に見えて上達したのも、このような反抗心ゆえであったかもしれない。
風に流れる雲間にのぞいた青い空を見上げ、徐云はなんとなく釈然としない気持ちのままに、心のうちでつぶやいた。
「諸々ひっくるめて、これも璇璇のおかげ……か……」




