桃原に花の咲く頃 (十一)
境丘での徐云と何捷の出会いは、そのようなものであった。
さてこの後、酒を飲み始めた洪大慶を『菜香房』に残し、一行は、南宮唐が章弦君より与えられた邸の方へと移動した。
さして広くない邸の門前でしばし待たされると、南宮唐はいったん奥に消え、手ずから持ち出してきた『十論』の残り七篇を徐云の腕の中に渡すと、何捷の方には先に『菜香房』で認めた牘の綴りを放り、
「では、高子に〝よろしく〟とな」
と言うや、いそいそと洪大慶が杯を重ねる『菜香房』に戻って行ったのだった。
何のことはない。南宮唐のいう〝心当たり〟とは高偉瀚のことで、弟子の徐云に、師の邸まで案内して行け、ということであった。
南宮唐を見送った徐云と何捷、それに明璇の三人は、高偉瀚の邸へと歩き出した。
高偉瀚の邸までの道すがら、徐云は、何捷との会話を何度か試みている。
何捷が高老師の下で共に学ぶということになれば、それは〝同窓の友〟になるわけで、年の頃の近い徐云にとって、できれば良好な関係を築きたいという想いは自然なことだった。そもそも徐云は他者との軋轢を好まない。
が、何捷という少年は、その見た目の通りに不愛想な少年だった。
まるで〝無駄口は一切開かない〟と、何者かに誓ったふうに、右から左へと徐云の言葉を聞き流している。そうなると徐云も元来、口数の多い方ではないので、明璇を含めた三人は、もう黙って歩くだけとなった。
だから高の邸の前に戻ってきたとき、明璇に一礼しただけで門を潜ろうとする徐云を向いた何捷が、
「おい……」 と口を開いたことに、徐云も明璇も驚きの表情となったのだった。
何捷は表情を変えることなく続けた。
「…――先のようなこともある。女性を送ってゆくのは、侍人(お側付き)のおまえの務めではないのか?」
「あ……。いや、でも君のことを高老師に斡旋しなくちゃいけないし、『十論』だって届けないと…――」
義務感からそのようなことを応える徐云を遮って、何捷は、紹介状を携えた方とは逆の腕を伸ばしてきた。早く『十論』の編綴簡(※)を渡せ、と暗にその目は語っている。〝紹介状なら自分で手渡すし、南宮唐の書物は俺が手渡しておく〟ということなのだろう。(※ 木簡を綴り合わせて巻物状にしたもの)
「…………」
徐云は『十論』の編綴簡を何捷に託すと、何とも言えない表情でこちらを向いていた明璇へと視線を遣って、では、と簡氏の邸の方へと誘うふうに先に立つ。
明璇は、繊細さ装うように後に続いたのだったが、その際、何捷に軽く頭を下げて謝意を表した。
何捷は、やはり表情を変えずに一礼すると、高の邸宅の門を潜り中庭へと消えたのだった。
「何子はさすがにわかってらっしゃるわ」
思ってもいなかった何捷の計らい(?)に、にこにこと歩みを進める明璇は、すぐ先を行く徐云の背に言った。
立ち止まった徐云が、何が? というふうに、面白くなさそうな表情を明璇へと向ける。……周囲に他人の目や耳がないときには、ふたりは〝小云〟と〝璇璇〟である。
「こんなにか弱い存在をひとりで帰らせようとは、いったいどこの〝慮外もの〟かしら?」
明璇も立ち止まり、半ば責め立てるように、半ばお道化るふうに、徐云の顔に向ける目線を細めて返す。「――何子はそこのところをよく理解なさってらっしゃる」
「…………」
幼なじみの〝圧〟に負けて、返す言葉の見つからない徐云が、
「……簡氏の邸で共に育った小云ですよ」
と、しぶしぶと言うのを見遣る明璇の表情は、一見冷たいが、その実は何捷の言によってもたらされた〝思わぬ僥倖〟に、内心では飛び上らんばかりなのであった。
今日こそは〝小云〟を取り戻そうと意気込んで簡氏の邸を出たものの、境丘門の辻での思わぬ騒ぎに見舞われて、もう今日は徐云とゆっくりと話す機会は得られなくなったと諦めていたのだ。
だから明璇は、この僥倖で得られた機会を逃すまいと、意気込んだ心のままに訊いたのだった。
「それで小云、邸にはいつ戻るつもり?」




